揺れるバスタオル
今年で40歳になるその男は、今まさに天井から吊るされたバスタオルで首を吊る処だ。
人は死ぬ前に人生を走馬灯の様に見ると云うが、その男はバスタオルに手を掛け、自分の情けない人生を振り返り始めた。
その男の記憶の中で一番古く苦い思い出はその男が幼稚園の頃である。
その男の家庭は当時の一般家庭の中でも貧乏な家庭に育った。
その男の父は水道工事の職人で頑固でどこか常軌を逸した処のあるオヤジで今のご時世なら児童虐待で逮捕されてもおかしくない折檻をする。
その男の母は美容師をしている、パチンコにハマった借金まみれのどうしようもない母親だった。
その男の兄は小さい頃からどこか冷めた男で、極力人との関わりを持たない、自分以外の人間に対していつもバカにしたような感情を持っているような兄だった。
その男は当時ではあまり無かった通園バスのある幼稚園に通っていた。
同じ幼稚園に通う友達は皆通学バスの待ち合わせ場所に母親に連れられてやってくるが、その男は一人で通学バスを待っていた。母親が仕事の為に早くから家におらず、後から母親に聞いた処によると「通学バスがあるからその幼稚園にした。私がいなくても通学できるでしょ」と言われたらしい。
皆母親とバスを待っている中その男だけは一人バスを待つ虚しさと寂しさを毎日噛み締めていた。
もちろん、帰りのバスも一緒で待ち合わせ場所に母の姿は無い。
その男は黄色い通園鞄に紐で括られた鍵で自宅に入り、「ただいま」を言うこともなく無言でタンスの自分の服の入っている所を開ける。するとその男の下着の上に50円玉が一つ置いてある。母がその男の小遣いに置いてあった。
男は着替えを終えると、50円玉を握りしめ、近所の駄菓子屋で菓子を買い、自宅に戻るとテレビのスイッチを入れる。アニメなどが放映されている時間ではないのでワイドショーやドラマを意味も解らず只々黙々と見ている。
夕方になるとその男の兄が学校から帰ってくる。兄とは仲が悪かった為いつもその男はやられ役、プロレス技に始まり、揚句タンスの角で後頭部を切った事もある。その傷跡は40歳になる今でもクッキリと残っている。
夜になり父と母が帰ってくる。
会話の無い、寒々とした貧しい夕食が終わると、父と兄に連れられて近所の銭湯に行く。
銭湯から帰ると「おやすみなさい」を言うでもなく布団に潜りこみ、一日が終わる。
その男が小学校に通うようになって、その男に少し変化が出てきた。
周りの同級生や友達に嘘や見栄を張るようになった。勿論小学生の考えで幾らウソをついてもすぐに周りにばれる。周りからは嘘つきと呼ばれ、いじめの対象となる。
その男は自分でも解っていた。
自分がついた嘘でいじめられている事を。
だから、その男は抵抗をしない、というよりも抵抗する筋合いがない事を。
その男の嘘は中学になっても続いていた。
嘘をつき過ぎて学校に行けなくなり、中学2年生の後半から学校には行っていない。
朝、学校に行くと言って家を出るとそのまま少し離れた図書館に行く。勉強するでもなく、本棚に並んだ中で興味あるタイトルの本を選びパラパラと中身を覗くと本棚に戻す。
夕方近くに家に帰り、また寒々とした時間が始まる。父も母も兄もその男が学校に行っていないことを知っている。だがなにも言わない。無関心なのだ。その男はその無関心さが心地よかった。だから次の日もまた同じ繰り返しの日常が始まる。
そんな男でも少しは将来を考えた。
高校へは行きたいと思うようになり、高校受験を考えて母に補習塾へ通わせてもらった。そのおかげなのか、公立高校へ合格する。その男にとっても高校へ行くことはチャンスであった事をわかっていた。これまでの自分を変えるチャンスだったのだから。
だけど結果は同じ、嘘と見栄が自分の首を絞めていった。そして中退。
落伍者のお決まりの人生 今でもその男は後悔している。
多分、自分の人生を変えるチャンスは幾度となくあった事を、そしてそのチャンスを自分自身で潰していった事を。
高校を中退したその男は、母の伝を頼り、美容院のアシスタントを始めた。給料は少なかったがその男には居心地の良いところであった。それまで女性と付き合うことのなかった男にとって、女性に囲まれた職場は自分の性衝動を満たすには格好の場所だったのかもしれない。シャンプー台できれいな女性のシャンプーをする時、女性の胸元をチラチラと覗き見ることに喜びを感じている。そんな卑屈でいやらしい男だった。
だが、そんな場所も長くは続かない。
美容師試験に挑戦するでもなく、給料のいい場所で働きたくなり、職業を転々として行くことになる。レストラン、薬の営業、建設業風俗店の店員、そして水道工事業。どこの職場も長続きしない。元来の根気の無さと根性の無さでどこでも少しでもイヤなことがあると逃げ出すのであった。何をやっても続かない。根性なしの典型の人生だ。
そんな男も恋をする。
いろんな女性に恋心を抱いた。美容院に勤めていた時の客、調理の仕事をしていた時の同じ職場の女性、そして友人の彼女。
彼女が欲しいと思う以上に女性の体に惹かれていた。今になって思うと、その男は自分の淋しさや情けなさを女性と体を合わせることで忘れることが出来たのだと思う。寂しさや虚しさが多いその男にはその分女性に対する依存は大きなものになっていった。
自分の事を本気で愛してくれる人などいない。こんな情けない男に寄り添ってくれる人などいないと感じていた。
そんな男に、寄り添ってくれる女性がいた
その男の友人の別れた彼女で、密かに恋心を抱いていた女性だ。
その男は、彼女が友人と別れたと聞いて彼女に近づいて行った。彼女はそんな男を受け入れてくれた。
その男は彼女との時間を重ねる。心もそして体も重ねる。その男にとって彼女との時間はとても心地よく、そして素晴らしかった。
そんな中、彼女が妊娠した。
その男は、少し考えて彼女に結婚を申し込んだ。彼女は小さくうなずき、二人は結婚した
二人の結婚生活は15年続くことになる。
彼女はごく普通のサラリーマンの家庭に育った世間知らずの女性だった。そのこともその男には「好都合」だった。その男の言葉を彼女は疑いながらも従ってくれていた。その男のギャンブルの借金も衝動買いした車の借金も彼女が支払したようなものだった。
結婚生活の中で3人の子供を授かった。
所謂「でき婚」となった長女、子供が一人では可哀想だと作った次女、そしてイレギュラーな三女
その男は結婚後も職を転々とした。どこに勤めても長続きしない。イヤなことから逃げ続ける。そのくせ人一倍見栄っ張りで「偉そう」だった。
そんな生活だから家計はいつも火の車。妻はいつも一生懸命働いて家族を守っていた。その男はそんな彼女に依存を続けた。その男は妻に依存を続ける自分がイヤだった。だけど依存している「楽」がその男に依存を続けさせた。
そして家庭が崩壊した。
妻はその男を見限り、離婚届を突きつけた。
その男はそれを黙って受け入れるしかなかった。それほどの「悪行」を妻にしていることがその男自身が一番解っていたから。
その男は離婚という現実から逃げたかった
そんな時期にある女に出会った。
その男がバイトでしていたデリヘルの風俗嬢だ。彼女はその男に彼女の方から近寄ってきた。たぶん彼女自身が寂しさを紛らわせる為にその男に近寄ったのだと思う。
その男はその女性に依存を始めた。
風俗嬢と云う仕事で金銭的に裕福であった彼女はその男の依存を受け入れた。
その男は彼女に惹かれていた。
彼女は人妻であり、子供も家庭もある身ではあったが、彼女との時間はとても心地よかった。そして彼女との将来を夢見るようになった。それがその男自身の「終わり」の始まりだった。
彼女に風俗の仕事を辞めるように説得を始め、彼女は風俗を辞め元々資格のあった介護の仕事を始めた。その事にその男も素直に喜んだ。
しかし、その男を「終わり」へと導く出来事は発覚した。
彼女はこれまでしていた風俗の仕事で関係を持った複数の男性と仕事を辞めた後も連絡を取り合い、その男性の一人の男の会社に就職していたのだった。その男はその会社を辞めるように言ったが彼女は辞めなかった。そして二人は破局するのだが、その男は彼女に対する「恨み」が沸々と沸いてくる。
その男は彼女の家庭を壊してやると彼女にメールで伝える。彼女はどうにかしようとその男のもとにやってきた。
その男は彼女にこれまでの嘘を全部話せと言った。するとその男も驚愕するほどの嘘が次々と出てくる。
彼女はパニックを起こし、男の家から消える。その男は慌てて探す。そんな時彼女の携帯に彼女の亭主から電話が入る。その男は簡単な事の成り行きを説明しパニックを起こして消えたことを伝える。亭主は警察に捜索を依頼し彼女は発見されて事なきを得た。
一人自宅に戻ったその男は、自分を振り返りだした。
自分の嘘ばかりついてきた人生、
資格らしい物が何もない無力さ、
人を信じられない情けなさ、
そして「逃げ」続けた人生
その全てがその男自身が原因であることを再確認したその男は、天井の電灯の付け根にバスタオルを括り付ける。その男はバスタオルのぶら下がった天井を見上げると一つ小さなため息を付いた。
そしてふと悲しい事実を知る。
遺書を残したい人もいない。
遺書に書きたい事もない
そして、自分の「終わり」に気づいてくれる人もいない。
そして
その男が終わった
天井からぶら下がるその男はしばらく揺れて、静かに止まった。