完璧の中に潜む歪んだ愛――上
001
朝早く、誰も居ない教室の端の席に尚江皓は居る。
理由は分からない。
ただ彼女が単に早起きなのかは聞いたことが無い。、そこにはちゃんとした理由があるのかもしれないし、無いのかもしれない。
彼女は何時も本を読んでいる。
学校側が用意した本とは違い、TUTAYAで仕入れた小説を、だ。
TUTAYA特有の茶色いブックカバーをはめた小説を、静かに、ゆっくりと。
なので、彼女が何を読んでいるのかは謎だ。
その印象に合った難しい文字が規則正しく並べられた本でもあれば、そぐわないライトノベルを読んでいるのかもしれない。
ただ分かるのは一つ、彼女は文字を読む事が好きだという事だけだった。
それ以外の詳細は誰も知らない。
彼女の好物や、趣味や人との間柄など。
面白いぐらいにそれらは深い密林の先に隠されているのだ。
そして今日も彼女はそこに居た。
窓わきの一番後ろの席に、初めからそこに居たかのように悠然と彼女は座っていた。
彼女の手には本が握られていた。
茶色いブックカバーをした本を。
彼女が本を持つと凄く画になると思った。
思って、同時に彼女の存在が不気味だと感じていた自分が、そこには居た。
◇
「――御話がしたい?」
今、俺と月は西校舎三階にある三年三組の教室に居た。
「はい。尚江先輩に一つお聞きしたい事がありまして」
月が尚江皓と会話を開始しようとしている中、俺は横で二人を観察していた。
学校指定の紺のブレザーを上手い具合に着崩している月とは対照的に、御手本としか思えない完璧な着こなしをしている尚江皓。
俺は、二人が全面的に正反対な人間なのだと思った。
しかし、説明出来ない違和感も同時に思ってしまった。
そう、腹の内側にあるシコリの様な、そんな小さな違和感を。
尚江皓は途中であった本に栞を挟み閉じると、机の中に入れて月の方へ顔を向ける。
「いいよ。後輩がわざわざこんな朝早くに登校してまで私に質問をしたいと言うんですもの。断れるはずがないわ」
フフッとほほ笑みながら彼女は「それで、聞きたいことはなにかしら?出来得る限りお答えするわ」と、優しく言う。
「ありがとうございます」
言うと、月は彼女の優しさに甘える事にしたらしい。というよりも初めから質問するつもりだったのだろうと、俺は尚江女子に、月に代わって謝罪の意を込めた眼差しを送る。それに気付いたのか、彼女はチラッとこっちに目を向けるとまたほほ笑みを浮かべる。
ちょっとドキッとしてしまった自分に、俺は何も言えなかった。
それよりも、隣から嫌なプレッシャーを感じるのだが、これは気のせいなのだろう。
「――それで、話とは一体何なのかしら」
「はい、先輩の交流関係です」
「交流関係と言えば、友達関係の事かしら?」
「はい」
礼儀正しく答える月。学校で振る舞う何時もの坂本月だ。
見た目こそ不真面目のそれとしか言いようのないものなのだが、それに比例するように彼女の口調は物静かなものだった。
猫を被っているそんな月の姿は、とても自然に感じる。慣れとはこうも視野が広がるものかと関心を抱く。
「私の交友関係に何か疑問でもあるのかしら?」
「その事なんですが、先輩は友達と呼べる人間は一体何人ぐらいの数を把握しているんでしょうか?教えてもらえないですか?」
不思議な事を聞くわねといった顔をして、尚江皓は「そうね……」と悩む仕草をする。
一時の間、とは言い過ぎだが、彼女は月の意味不明な質問に優しく答えた。
「沢山……かな。数えられない程、私は人間との関わりを持っていると思うわ」
凛とした花のように、相手に不快な思いを抱かせないように彼女はそう答える。
俺はそこで改めて尚江皓が出来すぎた人間なのだと再認識をした。どうやら俺が抱いていた彼女の印象は、謝った認識だったのだと改めて反省した。
「そうですか。では次の質問です。先輩はその中に親友と思える存在は何人居ますか?」
「一人よ」
さっきとは違い、今回の返答は早いものだった。
彼女は言葉を続けた。
「親友とは……つまり心を許せる、本当の自分を真っ向から受け止めてくれる存在なのだと私はそう思っているの。嘘は勿論の事。裏切りやその他の感情が一切として関与しない。そんな存在を、私は親友と呼ぶわ。だからね、親友は世の中に一人だけで十分。たった一つの存在で、事足りるのよ」
と、そこで言葉は終了した。
正直に言って、俺は彼女の言葉の意味が全くとして理解できていなかった。ただ俺の頭がそれに追い付いていないのか、それとも一生理解できないものなのか。俺は理解に苦しんでいた。
けれど月は違った。
「そうですか。大変勉強になります」
尚江皓の言葉を理解していたのかは定かではないが、月は平然とした素振りでお礼の言葉を述べる。
月の今の心境は多分、嬉しさ反面やっぱりだった、と思っているに違いない。
彼女の思っている事が、俺の視点から見ても嫌に分かってしまう。
月は微かに笑みを浮かべていたのだ。
何かを確信したような、探し物が唐突に見つかったかのように。
今の質問で、それなりのものを確かに掴んだのだろう。
「今さっき先輩が教えてくれた親友の名前は何ですか?出来れば名字も教えて頂けると嬉しい限りです」
「折原伊織。隣のクラスである三年二組の同学年女子生徒よ」
質問に一言付け加え、尚江皓はさぞ嬉しそうな口調で答えてくれた。それほど、親友と称するその同学年である折原伊織という女子生徒の事が大切なのだと、自然と思えてしまう。
彼女にしてみれば、親友に関する事なら半日経っても動かす口を止めはしないだろうと、俺は不思議とそう思ってしまった。
尚江皓という人間の存在が、話してはいないのだが、直にこうして対峙してみると噂通りの人間とは微妙に違う。友達思いの普通な女子高生としか見えなかった。
今でも幸せそうな笑みを崩さない尚江皓に対し、月も同じように笑みを浮かべる。
こうして見れば彼女は普通に美少女の類に入ると思うのだけれど、これが単なる猫を被っている事を知っている俺には、ただ苛立ちの他でもない負の感情しか湧き上がらなかった。
今の時間は八時を丁度過ぎた頃。
そろそろ他の生徒がこの学校に到着をし始める時間帯だなと考えている俺の横で、月も同じ考えをしているのだろう。
「…では、これで最後の質問です」と、規則違反である派手なピンク色の腕時計を確認して、月は目の前の机に両手をつける。彼女の目には、目の直ぐ先に座っている尚江皓しか映っていない。
この時、文哉は月の言葉の意味が理解できなかった。
それも当然、だってそれは彼が予想していたものとは違っていたからだ。
別に、質問の意味は理解できたのだけれど、何故今その質問をしたのかが分からなかったのだ。
そして、その質問に対して尚江皓の顔が不思議な程に歪んだ事に、文哉は違和感を覚えてしまった。
尚江皓というラベルが剥がれた瞬間。
完璧が、完全が否定された事実。
月はゆっくりと口を開く。
はっきりと、間違えないように――月は言った。
「その、親友と呼ぶ彼女は――今何処に居るのでしょうか」
緊迫した空気が不気味に漂う。
今現在、俺はそんな空間に身を置いている。
俺を含めた三人しか居ない教室は、可笑しな程に静まり返っていた。
…
太陽の日差しが気持ちいいぐらいに窓から差し込む席に俺は腰を下ろしていた。
教卓に一番近い窓際の席。
勿論俺の席だ。
今の時期にとても助かる席なのだけれど、夏になると嫌がらせの他でもない攻撃を仕掛けてくる憎まれ役の可哀相な席。
そんな席に俺はここ一年と半年近くまでめげずに居座り続けている。
何しろ此処が俺指定の席だからだ。
当初は席替えを担任に強く要求していたのだけれど、何回ものアプローチも無駄に終わり、今でもこの席に毎日座っている。
担任曰く『他の人も同じなんだから、お前だけ特別扱いは出来ない』らしい。
その意見には俺も納得するしかなかったのだが、それでも諦めきれない自分が居た。
『それなら窓側の席の人と廊下側の人を入れ替えてみてはどうですか?それなら俺だけが特別なんて誰も思わないでしょう?』と反撃を試みたは良かったものの、返事は『駄目だ』の一点張り。
自然と俺が手を引く形になっていた。
しかし、俺は今でも諦めていた訳ではなかった。
反撃の機会をただ静かに待っていたのだ。
そして今現在、俺はその機会を得ていた。
俺の横に設置された窓ガラスが綺麗に無くなっていたのだ。
それがクラスメイトである坂本月による犯行だとは容易に分かった。だって机の中に置いていた国語用の大学ノートの表紙に、でかでかと黒色のマジックペンで『自然の猛威をそこで味わいなさい』と書かれていたからだ。
普段だったら怒りしか思いつかないのだが、今日に限っては良くやったとお礼の言葉を送りたいぐらいだった。
体を反転させて、直ぐ後ろで黒板に書かれた文字を淡々とルーズリーフに書き写している確信犯に親指を立てて「グッジョブ」と言ってやった。
しかし、そんな俺の行動に何も言わず動かす鉛筆を止めないクラスメイトを。無視をきめてくる彼女に俺は何も言わず「ありがとうな」とだけ言って再度前へ振り向いた。
今回だけは見逃してやろうと心の中だけで月の失礼極まりない行動を許してやった。
さて、
俺は右手を天井に向け力強く上げた。
全くの歪みさえない綺麗なフォームのそれを。
そして一言「先生」と言った。
「――であるからにして……って、ん?どうした小嶺」
その言葉に二年一組の担任兼国語教員である三原健治三十九歳未婚の厳つい顔立ちをした男性が、手にした学校から配布された教科書から目をはなす。
「はい。俺の隣にある筈の窓ガラスが綺麗に無くなっているんです」
俺は自信満々に答える。
「そうか。それはだな小嶺、窓ガラスが家出をしているんだろう。だから早く教科書を机の上に広げろ」
と言うと、また教科書に視線を戻す。
俺は諦めなかった。
「そうなんですか。そりゃー窓ガラスも家出もしたくなりますよね。だってこんなに寒いんだ。窓ガラスは最良の選択を選んだんですね」
「だろうな。私だってこの寒い中、冷気に身をさらけ出したくもないからな。だから早く教科書を広げろ」
「先生。そんな事はどうでもいいんです。俺が言いたい事はそんな窓ガラスの心情を聞きたい訳じゃ決して違うんです」
俺は手を上げた状態を崩す事無く言う。
「これでは俺が風邪を引いてしまう可能性が高くなっていきます。だから俺を後ろの席に移してください」
「駄目だ。お前の考えている事など、当の昔に知っている」
けれど、彼は俺が挙げた意見もとい願望を受け流してくれた。俺はまだ諦められなかった。
「お願いします。とても寒いんです。もう凍えてどうしようも出来ません」
肩を震わせて俺は言う。実際のところ、これはあながち嘘ではない。体左半分は、外から来る冷気に当てられ見事に冷え切っていた。
三原先生が何かを言おうとした瞬間、後ろから透き通った声が聞こえた。
「先生。本人もそう言っているので、私が彼を保健室に連れて行きます」
言うと、彼女は席を立ちあがる。
「そうか、すまないがそこの馬鹿を連れていってやってくれ」と三原先生は溜息交じりに彼女によろしくと言葉を送る。
俺は上げた手を握られ無理やり立たされた。そして強制的に教卓の横にあるドアまで連れて行かれる。
言わずと知れた坂本月だ。
俺の手首を力強く握る彼女の手は暖かかった。
けれどそれだけであって、今は全くとして関係のない事。
そのまま俺達は教室を後にした。
――教室を後にして、俺達は保健室を目指して廊下を歩いていた。
月から握られた右手は今も放されてはいない。
俺は教室を出て初めて口を開いた。
「おい月。お前本気で保健室に行くつもりなのか?」
それはどうでもいい質問だった。
月はというと、振り向きもしないで質問に答えた。
「何を言っているの、小嶺君。早く行かないと風邪を引いてしまうわ」
どうやら月は今の状態を楽しんでいるようだ。それを証明するかのように、二人きりなのにも関わらず猫を被っている。
そんな月に合わせるように、俺もその遊びに付き合ってやる事にする。
「そうだったな。これはすまん。変な事を聞いてしまったな」
「何を馬鹿な事を言っているの?いいから早く歩きなさい。アナタが事を起こすのが遅いから、後十分程度の時間しか私達には残されていないのよ」
握っていた手を急に放すと、月は歩くスピードを上げた。何だか損な気分を味わってしまったような苦い思いが心の中で渦巻く。というよりもまた月にしてやられてしまった。こいつにとって、俺があの行動をとる事を見通しての事だったのだ。だからといって、あれが嫌がらせではなかったとは俺は考えられない。嫌がらせも含めて、あれはこの為の口実にすぎないのだろうと一人納得をする。
この学校の保健室は、東校舎の一階にある。
俺と月の教室がある二階からはそう遠くはない。
廊下の突き当たりの階段を下りて直ぐに保健室が目に入った。
俺は進んで保健室のスライドのドアに手を掛けて開こうとしたが、ドアは一ミリも動こうとはしなかった。
どうやら保健の先生は不在らしい。
顔だけ振り向いて月に目で訴える。
月は無言で俺の隣に足を運ばせると、徐にブレザーのポケットから一つの鍵を取り出しドアの鍵穴に差し込んだ。
まさかな、と思ったが、そのまさかだったとは分かり切っていた事だからそれ以上は深く考えないようにした。
ガチャリと、音の後に鍵を抜くと、さっきまで密室を作っていたドアが事無くあっさりと開けられた。
そこで一言月は「さ、入りましょう」と先陣をきって中に足を踏み入れる。
俺も何も言わず中に入りドアを閉める。
室内は思いの外暖かかった。
これが、さっきまで此処に保健室の先生が居たのだという推測が出来る。
ちょうどすれ違いだったのだろう。
月は真っ先に部屋の隅に設けられた資料棚に向かうと、何の躊躇いもなく両開きの扉を開ける。
何というか、毎回こいつの行動力には驚かされるものがある。
何所からその行動に行きつく感情を引きだしているのかは分からないが、十中八九、思いつきがその原動力となっているのだろう。
俺は資料棚の反対側に不自然に置かれたパイプ椅子に背もたれを胸に跨る。
そして月の行動を観察する事にした。
棚の中に不規則に並べられた資料の中から五冊ほど取り出すと、一冊一冊を丹念に読みあげる。
何を知りたいのかは分からないが、多分、尚江皓に関する事だろう。
尚江皓――完璧な人間、出来過ぎた人間と呼ばれる実際のところの先輩。
親友想いで、とても優しい良き先輩。
……けれど、あの時の彼女は可笑しかった。
月から言われた一言『親友と呼ぶ彼女は――今何処に居るのでしょうか』を聞いた時の彼女の微かな反応を、俺は見逃さなかった。
微かに頬を引きつらせたその瞬間を、俺は確かに目にした。
そして、そこから生じる違和感という言葉も、確かに俺の中には生まれた。
それは小さな歪み。
違和感という名の歪み。
「――あったわ」
その言葉をキッカケに俺は椅子から下りる。
近づいて、月がそのか細い腕で抱えるように持った資料を覗いてみる。
月の周りには幾つもの資料が乱読したかのように散らばっていた。
「これは………生徒調査だな」
月が手にしていた資料には、この学校――『私立呈陽学園の生徒調査資料』と書かれていた。
書いてあって、今開かれているページの冒頭には見覚えのない名前が書かれてあった。
しかし俺はこの名前を知っていた。
「折原伊織」
月は静かに、けれどはっきりと彼女の名前を口にした。
「少し不安だったのだけれど……うん。やっぱり思っていた通りだったわ」
資料に目を離さずに、月は言葉を続ける。
「この生徒。折原伊織は、かれこれ二週間程前から学校に来ていないわ」
「学校に来ていない?」
俺は中腰になって散らかった資料を片付けながら聞く。
「そう。これによると彼女は具合が悪いという理由で学校側に連絡をしたのが二週間前の出来事。それから今日も含めた日にちを休んでいるの。ね、何だか意味ありげな情報だとは思わない?」
「そっか?俺は別に何も思わないけどな。ただ体調が悪いだけであって、今でもそれが続いているとしか……」
俺は言葉を濁す。
それに気づいた月は、次の言葉を言うのは早かった。
「今朝の尚江皓女子のあの反応を見たでしょ?これは少なからず彼女が関わっているという何よりもの可能性よ」
「そのぐらい考えなさい」と後に付け加える。
俺は何も言えなかった。
だってそれは……。
「折原伊織の件に、尚江皓から何らかの関与があった――とアナタは思っているのでしょう?」
俺の考えを月は代わりに代弁し肯定させた。
持っていた資料をパタッと閉じると、立ちあがり本の場所に戻す。
俺も後に続くように重ねた資料を押し入れる。
棚の扉を閉め、やっと月は俺の方へ向きかえった。
今の彼女の顔は、酷く楽しそうな表情をしいていた。
楽しい玩具を与えられた子供のような、そんな無邪気な笑みを。
「それじゃー小嶺君。今日の放課後尚江皓女子を捕まえるとしましょう」
何気に言ったそれは冗談半分とは違い、そのままの意味なのだろう。
深く溜息を吐いた。
これから先の展開が全く予想できないと、嘆くように。
ただ俺は深く深く溜息を吐いていた。