ご令嬢の正論に納得したので「殿下との婚約、破棄します!」と申し出た結果。
"I am become Death, the destroyer of worlds."
──J. Robert Oppenheimer
「平民の分際で少しばかり頭と魔力が良いからって、図に乗るのもいい加減になさい!」
甲高い声が空気を切り裂いた。
王立学園の廊下にて。
平民特待生のジェーンは、とあるご令嬢に詰め寄られていた。
昼休みの始まったばかりの廊下には午後の光が大理石の床に反射している。
教室の扉から流れ出てきた数人の生徒が、足を止めて遠巻きに様子を窺っていた。
ジェーンの目の前に立っているのは、ご令嬢ジュリア。
艶やかな金の巻き毛を肩に流し、扇を片手にひどく見下したような目を向けている。
一方ジェーンは廊下の真ん中で分厚い魔術の専門書を抱えたまま、ただきょとんとして相手を見上げていた。
「え、あ、あの……私何かしました?」
困惑するジェーンに対し、ジュリアは苛立たしげに扇をパチンと鳴らした。
「貴方、ご自分の薄汚い血を自覚したことがおあり!? どこの馬の骨とも知れない平民が、高貴なるロバート第三王子殿下の婚約者だなんて虫唾が走るわ!」
「でも、ロバート殿下との婚約についてはあちら側から……」
「お黙り!」
ジュリアは扇の先をジェーンの鼻先に突きつけた。
肩を震わせ、ヒステリックに声を張り上げる。
「貴方のような教養も品性も欠けた平民が隣にいるせいで、殿下が社交界でどれほどの嘲笑を浴びているかご存じ!? 『乞食に慈悲をかけすぎた哀れな王子』『色目で王族に取り入った卑しい女』と、もっぱらの噂ですわ!」
「……」
ジェーンはわずかに目を瞬かせた。
「そもそも、貴方のような平民が殿下と並び立つこと自体、王家への耐え難い侮辱ですわ! 本来なら、歴史ある血脈と教養を持つこの私のような者こそが、殿下を支えるに相応しいというのに……! 殿下のお優しさに付け込んで地位を貪るなんて、どこまで厚かましいのかしら」
周囲の生徒たちが、その様子を見て囁き合う。
「殿下はあまりにも高潔でお優しいゆえ、ご自身の口からは一度結んだ婚約を破棄できないのよ。……だからこそ、貴方が身の程を弁えなさい」
ジュリアは冷酷な笑みを浮かべ、扇を胸の前で組んでみせた。
「貴方の方から、婚約破棄を申し出るべきでは?」
「え、こ、婚約破棄……?」
「ええ。貴方のような害悪は王家の歴史の汚点ですわ。身を引き殿下を解放すること。それが、この国を汚した貴方にできる唯一の謝罪ですのよ」
「……。確かに」
納得してしまった。
ジェーン。
幼少期からこの世界の魔術に強い興味があり、暇さえあれば図書館で本を読んでいた。
ある時、遊び半分で書き留めた魔術の考察ノートが偶然関係者の目に留まり、平民でありながら異例の特待生として王立学園に迎え入れられた。
婚約者であるロバート第三王子との出会いは、王宮主催の魔術研究発表会でのこと。
発表を終えたジェーンの元へ、ロバートの方から声をかけてきたのだ。
以来、希少な魔導書や美味しいお茶を理由に何度も王宮へ招かれるようになり、気がつけば半年も経たないうちに外堀を埋められるようにして婚約が結ばれていた。
……よくよく考えてみれば、おかしな話だ。
なぜ殿下は自分なんかを婚約者に選んだのか。
確かにジェーンは優秀だ。成績は常にトップで、魔術に限らずありとあらゆる学問に精通している。
だが学園にはジェーンほどでなくても優秀な生徒は多くいるし、その中には家柄も申し分ない人だっている。
ジェーンはジュリアに言われて初めて、この婚約は著しく非合理的なものだと気が付いた。
先ほどジュリアは言った。殿下は優しいから破棄できないのだ、と。
なるほど、ありそうな話だった。
家柄も教養もない平民が、王族の隣に居続けるのは確かに不釣り合いだ。社交場で陰口を叩かれているというのも、言われてみれば想像に難くない。
ジュリアの言う通り、自分から身を引くのが筋なのだろう。
「言われてみればそうですね! ありがとうございます! 気付かせていただいて」
ジェーンはぺこりと頭を下げると、本を抱え直して廊下を歩き出した。
ジュリアは扇を持った手をそのままに、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
唇の端がゆっくりと持ち上がった。
---
その日の夕刻。
学園での授業を終えたジェーンは、王宮にある自身の私室へと戻っていた。
一介の平民である彼女に割り当てられたその部屋は、高位貴族の令嬢すら羨むほどに豪奢で、そして異常なまでに快適だった。
広い机に向かい、熱心にノートに思考を書き留めている。
ふと、
コンコンコン、と丁寧なノックの音がして、扉が開いた。
「ジェーン。調子はどう?」
入ってきたのは、婚約者のロバート第三王子だった。
端正な顔立ちに、いつものように聡明で優しい微笑みを浮かべている。
「最近は一緒に学園に行けなくてごめんね。でももうすぐしたら公務が落ち着くから……」
「あ、ロバート殿下」
ジェーンがペンを置いて振り返ると、ロバートは歩み寄り、椅子の背に手を置いた。
「ん? 何だい?」
彼は慈しむような、優しい顔で彼女を見つめた。
ジェーンは濁りのないまっすぐな瞳でロバートを見上げ、とても晴れやかな声で告げた。
「殿下との婚約、破棄します!」
――空間が凍りついた。
文字通り、室内の空気が一瞬にして絶対零度に達したかのような。
ロバートの顔からは一切の表情が削れ落ちた。
国家のあらゆる難題を瞬時に処理する彼の明晰な頭脳が、生まれて初めて深刻なエラーを起こしていた。
やがて彼は微かに引きつった笑みを顔に貼り付け、掠れた声を絞り出した。
「……え??? あ、いや。すまない、僕の聞き間違いかな……。ジェーン、今、婚約破棄するって言った……?」
「はい、言いました!」
ジェーンはハキハキと頷いた。
「よくよく考えたら、平民の私と王族の殿下が結婚するなんてすっごい変ですよね。 私、今日学園で言われて初めて気づいたんです。でも殿下はお優しいから言い出せないのかなって。じゃあ私の方から言うべきかなーと思って……」
ロバートはジェーンを見下ろしたまま動かない。
瞳の奥が、見たこともないほど冷たく鋭く据わっていく。
「……言われて気づいた……」
ロバートの声のトーンが完全に変わった。
「ふーん……。なるほどね」
彼は静かにジェーンを見据えた。その眼差しは見る者全てが肌を粟立たせるほどの威圧感を放っている。
「……それ、誰が言ったの? ジェーン」
ロバートの問いには冷徹な響きがあった。
だがジェーンはロバートに纏わりついている不穏な空気には全く気づかない様子で、人差し指を顎に当てて小首を傾げた。
「え? えっと……誰だっけ? 縦ロールの、綺麗な扇を持った人……、すいません、名前忘れちゃいました!」
ロバートはしばらくジェーンの顔を見つめていた。
それからふっと息を吐き、次の瞬間には彼の表情は元の優しい微笑みに戻っていた。
「そっか。忘れちゃったか」
「へへ……すみません……」
「いや、いいんだ。気にしないで」
ロバートはジェーンが座っている椅子の横に片膝をつき、彼女の手をそっと両手で包み込んだ。
「でも……困るな、ジェーン。勝手にそんな悲しいことを決められては」
「え?」
「僕がどれほど君を大切に思っているか、まだ伝わっていなかったのかな……」
ロバートは困ったように眉を下げ、切なげかつひどく甘い眼差しでジェーンを見つめた。彼の指先が彼女の手に優しく絡められる。
「周囲が何と言おうと関係ない。僕の隣には君以外の女性なんて考えられない。それとも君は……僕のことが嫌いかい?」
「い、いえ! 嫌いだなんてとんでもない! 殿下は希少な本をすぐ取り寄せてくれるし、研究の予算もたくさんくれるし……」
「なら、何の問題もないじゃないか」
ロバートは優しく微笑んだ。
「君は何も気にせず、これまで通り学園に通って、大好きな本を読んで、研究に没頭してくれればいい。……だからもう二度と、婚約破棄なんて言わないでおくれ」
それを聞いたジェーンはあっさりと頷いた。
「……わかりました。じゃあ婚約破棄は辞めます! これからもよろしくお願いしますね」
「ああ、こちらこそ。……良かった……本当に……」
ロバートは胸の底から吐き出すような、深い安堵の息をもらした。その顔には心底ほっとしたような笑みが浮かんでいた。
それから、二人はいくつかの他愛のない会話を交わし、彼は「ではそろそろ公務に戻るよ」と告げて、静かな足取りでジェーンの私室を後にした。
パタン、と重厚な扉が閉まる。
人気の途絶えた薄暗い廊下に出た瞬間、ロバートの顔から一切の甘さや温度が綺麗さっぱりと消え失せた。
「……チッ」
唇からはひどく不快そうな舌打ちが零れ、端正な顔は苛立ちに歪んでいた。
彼は空間の隙間に向かって低く鋭い声を投げかけた。
「おい」
直後、ロバートの影が不自然に伸び、そこから漆黒の装束に身を包んだ男が音もなく跪いた。
「はっ」
「ジェーンに接触して余計なことを吹き込んだ生徒を特定しろ。縦ロールで扇を持った女だ」
「御意に」
命令が下るや否や、影は再び夜の闇に溶けるようにして姿を消した。
誰もいなくなった廊下を、ロバートは苛立ちに任せて大股で歩き出した。
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翌日。
ジェーンはロバートと共に王立学園へと登校していた。
学園の廊下を歩きながら、ジェーンは少しだけ周囲をきょろきょろと見回していた。
(婚約破棄、結局やめちゃったから、昨日の人に怒られるかな……)
そんなことを考えていたが、昼休みになっても、放課後になっても、あの縦ロールの令嬢の姿を見ることはなかった。
ジェーンの隣を歩くロバートは、周囲の生徒たちには優しげな笑みを振りまいていたが、その瞳の奥は完全に据わっていた。
(……やはり逃げたか)
昨晩のうちに影からの報告は上がっていた。
学園の在籍記録から『ジュリア』という名の生徒は特定できたものの、彼女が提出していた家名『ローゼンバーグ』は、この国の貴族名鑑のどこを探しても存在しない架空のものだった。
ロバートの影がジュリアの確保に向かった時には、すでに彼女の下宿先はもぬけの殻だったという。
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一方その頃。王都の裏通りにて。
日が差し込まない薄暗い路地裏を、ボロボロの外套を深く被った人影が足早に歩いていた。
「嗅ぎつけられるのが早すぎる……っ! だから無茶だって言ったのよ!」
苛立たしげな声とともに、外套のフードがバサリと下ろされる。
現れたのは、縦ロールの髪を揺らすご令嬢……ジュリアだった。
学園で見せていた優雅な態度は見る影もなく、彼女は苛つきながら地団駄を踏んでいた。
「あんな古典的な唆しで、あの隙のない第三王子の囲いが解けるわけなくってよ! 本国の老害どもは現場のことが全く分かってないわ! いきなり高飛車に嫌味を言って身を引かせるなんてやり方、古すぎるのよ!」
誰もいない路地裏で、ジュリアは一人でキレ散らかしていた。
「今のトレンドは、まずは親身に相談に乗って、親友のポジションを獲得して外堀からじわじわ埋めて洗脳していくことでしょうが……っ!!!」
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数日後。
穏やかな午後の陽が差し込む王宮の温室にて、ジェーンとロバートは二人でお茶を楽しんでいた。
ロバートは細やかな仕草でカップを傾けながら、向かいに座るジェーンに柔らかい視線を注いでいる。
「そうそう! 聞いてください殿下」
ふと、ジェーンは目を輝かせて身を乗り出した。
「王宮の地下に『極大圧縮魔力弾』あるじゃないですか」
「……うん。君が構築した理論をもとに技術班が作ったものだね」
「はい! あれの術式に、魔力素の連鎖共鳴を組み込むシミュレーションをしてみたんです。普通、魔力は安定した周波数で重ねて必要な分だけ取り出すんですけど、ある特定の臨界比率で重ねると、増幅が止まらなくなる法則を見つけまして」
「……止まらない?」
「はい。重なった魔力同士が互いを励起するんです。一度始まると、周囲の大気中にある魔力素を強制的に喰らいながら、勝手に連鎖爆発がどんどん拡大していって……」
ロバートはティーカップを受け皿に戻した。
「それは……どこまで拡がるんだい?」
「理論上は燃料となる魔力素が尽きるところまでですかね。少なくとも王都全体くらいは覆えるんじゃないかと」
ジェーンは本心から嬉しそうに語った。
「しかも、連鎖反応が終わった後、大気中には変異した魔力素の異常残留が残るんです。その間その地域に入ると、生き物は魔力障害で死んじゃうという……誰も住めない汚染された土地になるんです!」
「……ジェーン」
「はい?」
「その魔法式、もうどこかに書き起こしたのかい?」
「あ、はい! 全部ノートに書きました。これです!」
ジェーンが手元の鞄から取り出した分厚いノートを、ロバートは静かに受け取った。
「……ありがとう。君は本当にすごいね、ジェーン」
「へへ……ありがとうございます!」
ロバートの甘く優しい声で褒められ、ジェーンは照れくさそうにはにかんだ。
そしてふと、何かを思い出したようにポンと手を打つ。
「そういえば殿下。今開発中の『超長距離誘導型・広域魔導弾』……成層圏を経由して、大陸の裏側まで飛んでいって落ちるやつ、あれって状況どんな感じですか?」
「ああ、あれか」
ロバートは微塵も表情を崩すことなく、穏やかに微笑み返した。
「とても順調だよ。君が出してくれた軌道計算の改善案が、すごく役に立っているらしくてね」
「わー、嬉しいです! あの式、大気圏の魔力干渉を相殺するのに結構苦労したんですが、役に立ってよかったです!」
「うん、おかげで計画は完璧に進んでいる。……君のおかげだね」
「えへへ、良かったです!」
ロバートは優しく微笑んで、彼女のカップに紅茶を注ぎ足した。
ジェーンは満足げに紅茶を口に運ぶ。
ロバートは穏やかな微笑みを完璧に保ったまま、先ほど受け取ったノートを見つめ、凄まじい速度で思考を回転させていた。
また、一つ増えた。
先ほど彼女が語った『連鎖共鳴爆発』と『魔力素の異常残留』。
これはおそらく戦争の概念そのものが根底から書き換わる代物だ。
この理論を用いた爆弾を落とせば、攻め込まれた側に反撃の機会はない。都市が一つ、ある朝に存在しなくなるだけ。
否、実際に落とす必要すらない。
この兵器を我が国が保有しているという事実、使えば世界が終わるという恐怖が、究極の抑止力として機能する。
……これほど凶悪な兵器の理論をいとも容易く生み出してしまう彼女の頭脳が、あまりにも危険であることは十分理解している。
だが、手放す選択肢はない。
彼女を野に放てば即座に他国が確保するだろう。
だが彼女を暗殺すればその才能が永遠に失われ、相対的に他国が伸びる。
彼女を生かし、機嫌を取り、永遠に抱え込み続ける以外に、この国が選びうる道はない。
だからこそ、『第三王子の婚約者』という彼女の地位は、もはや国策以上に揺るぎない領域だった。
希少な魔導書と国家予算規模の研究費で、彼女の異常な頭脳を徹底的に甘やかし、守り抜く。
彼女の無邪気な好奇心が国境の内側に向かい続ける限り、この国は安全圏にいられるのだ。
逆に言えば、彼女の関心が一度でも外に向いた瞬間、すべてが終わってしまう。
そして、その脆弱な均衡を崩しに来る者がいる。
先日のジュリアの件もそうだ。
北の帝国、東の公国、南の宗教国家……
世界中の国々が、ジェーンという才能に気づき始めている。
各国は、彼女一人の頭脳を手に入れるために外交を組み、工作員を使い潰し、機会を窺っている。
世界中が彼女を狙っているのだ。
「殿下?」
ジェーンが小首を傾げた。
「どうかしました? なんだか難しい顔をしていらっしゃいますよ」
「……ああ、ごめん。少し公務のことを考えてて……」
ロバートは完璧な笑顔を取り戻した。一切の陰りもない、いつもの甘い微笑みで。
「気にしないで。他に話したいことはあるかい?」
「 あ、さっきのとは別の話なんですけど……」
ジェーンは目を輝かせ、手振りを交えながら嬉しそうに語り続けた。
「飛行用の魔導具に疑似人格を持たせた思考術式を組み込んでみたらどうかなって思ったんです! そうしたら、中に人間が乗らなくても勝手に空を飛んで、上空から目標を自動追尾して魔法を撃ちまくれるんじゃないかって。うまくいけば安価で沢山作れるかも……!」
ジェーンだけが世界の思惑に気付かない、狂おしいほど穏やかな午後だった。
『彼女は死なり、世界の破壊者なり』




