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心に風が吹く者たち

心に風が吹く者たち

作者: もふ神留奈
掲載日:2026/05/08

主人公

(なぎさ)※女

前世の記憶が微かにある

前世の世界は魔法が有る異世界だった。

風を操る魔法が今世で使える


ヒロイン

真尋(まひろ)※男

前世の記憶を複数持っている。

短命で何度も転生を繰り返している。

今世は『不思議研究部の部長』をしている。

朝の空気が少し重い。


理由は分からない。

胸に残る違和感を、凪は気のせいとして歩き出した。

子どもの頃から、ときどき不思議な夢を見る。


どこか別の世界。


風を操っていたような記憶。

けれど夢は夢だ。

現実には魔法なんてない。

そう思うことにしている。


校舎へ入った時だった。

「あ——」

短い声。


階段の踊り場から、一人の生徒が足を滑らせた。

落ちる。


考えるより先に、凪は動いていた。

使うべきじゃない。

そう分かっているのに。

—少しだけ。

見えない流れに触れる。

押すのではなく、包むように。

落下の勢いが、ふっと緩んだ。

髪と服が風に浮く。


そして。

とん。

軽い音で、その生徒は着地した。


「え……?」


本人が一番驚いている。

周囲はざわつくが、誰も異常には気づかない。

偶然。

そう見える。

それでいい。

(……バレてない)

凪は息をつく。

すると声がした。


「あの」


振り返ると、落ちた本人。

柔らかい雰囲気の、小柄な子。


「助けてくれた……?」

「違う、たまたまだよ」


ぶっきらぼうに返す。

相手は少し考えて、


「でも、ありがとう」

と笑った。


風が通ったみたいな笑い方だった。

名前も聞かず、その場は終わる。


そのはずだった。


けれど凪の胸には、微かな引っかかりが残っていた。


あの時。


確かに風が動いた。

同じ頃。

真尋もまた考えていた。

落ちたはずなのに、痛くなかった。

まるで何かに受け止められたような感覚。


そして、あの子。


短い髪の、少し男っぽい人。

(……絶対おかしい)

気のせいかもしれない。

でも。


また話してみたい。


そう思ってしまった。

誰にも見えない風が、

静かに二人を結び始めていた。

この学校では制服を選べる。

スカートでもスラックスでも自由。

真尋はその校則が好きだった。

可愛い服が好きだから。

それだけ。

けれど最近、それ以上に気になる存在がいる。


凪。


あの転落の日から。

数日かけて、真尋は調べた。

「静かな人だよね」

「いつも一人」

「でも女子に人気ある」

その中で妙な情報も出てくる。

昼はどこかで一人で食べている。

食後は体育館裏で猫といる。

気づけばいるのに、移動を見た人がいない。

都市伝説みたいだ。

(……変な人)

ますます気になる。


昼休み。


真尋は尾行を決める。

…が、すぐ見失う。

「え、消えた?」

角を曲がったはずなのにいない。


ようやく見つけたのは体育館裏だった。


凪がいた。

猫に囲まれている。

膝にも、足元にも。

人に懐かない野良猫たちが。

風が静かに吹く。


その時、空き缶が転がった。

段差から落ちるはずが。

不自然に止まった。

真尋は息を呑む。


今。

風が動いた。

気がした。


「見てると怪しいよ」


声に飛び上がる。

凪がこっちを見ていた。

「尾行?」

「ち、違うし」

「そう」

短い返事。

沈黙。

真尋は言う。

「……猫、好きなんだ」

「向こうが来るだけ」

少し間。

「また落ちると危ないよ」

凪が言う。

覚えてた。

真尋は笑って返す。

「助けてくれるなら平気かも」

その瞬間。

凪の目が少し揺れた。

風が吹く。

ごまかすように。

真尋は確信する。

この人は普通じゃない。

でも、怖くない。

知りたい。

あの風のことも。

この人のことも。

体育館裏で猫が眠る。

その傍らで、

何かが静かに動き始めていた。


不思議研究部の部室には、ほとんど何もない。

古い机がひとつ。

椅子がふたつ。

壁際に、小さな本棚。


そして、その机に向かっているのは部長ただ一人。


真尋はノートを開き、ペン先で机を軽く叩いた。


ページの上には、ここ数日の記録が並んでいる。


―凪。

―昼休み、行方不明になりがち。

―猫に好かれる。

―風の違和感。


そこまで書いて、真尋はため息をつく。

「……でも、決定的なのがないんだよなあ」

あの日の転落。

体育館裏の空き缶。

確かにおかしかった。

けれど、誰かに話したところで「気のせい」で終わる程度の話だ。

それでも気になって仕方がない。

だから真尋は、この数日、さりげなく聞き込みをしていた。

「凪ってどんな人?」

返ってくる答えはどれも似ている。

「静かな人」

「一人でいることが多い」

「たまに見かけるけど、話したことない」

それだけだった。

特別な噂もない。

不思議な話もない。

拍子抜けするくらい、普通だ。

「…普通、なのかな」

真尋は小さく呟く。

普通の人が、あんな風に現れるだろうか。

普通の人が、あんな風をまとっているだろうか。

答えは、まだ見えない。


その日、放課後。


真尋は図書館にいた。

不思議研究部の活動といえば聞こえはいいが、実際は半分ただの趣味だ。

郷土史。

民話集。

古い地誌。

積み上がった本の間で、真尋はぱらぱらとページをめくっていた。

正直、あまり期待はしていない。

けれど、その一文で手が止まった。

『昔、ある村で、春と夏の間に風を祀る祭りが開かれていた。

夏に雨が降り、日照りが続かぬよう願い、不思議な力で風を吹かせたという』

「…え?」

思わず声が漏れる。

真尋は本を引き寄せた。

古びた紙。

かすれた文字。

作り話のような、短い昔話だった。

けれど、胸が妙にざわつく。

風を祀る祭り。

不思議な力で風を吹かせる。

偶然だろうか。

そう思いながらも、頭の中では別の考えが形になり始めていた。

もし。

もし、この話が本当だったら。

もし、その村に本当に風に関わる何かがあったのなら。

「…凪って」

真尋はページを見つめたまま呟く。

「その村の…末裔だったりするのかな」

ありえない。

そんなの、いくらなんでも飛躍しすぎている。

でも。

そう考えると、あの違和感が少しだけ繋がる気がした。

あの日の風。

体育館裏の空気。

気づけばいなくなる足音。

全部が一本の線になる。

真尋は急いでノートを取り出した。

ページを開き、書き込む。

―仮説。

―凪は「風」に関係する家系かもしれない。

書いてから、自分で少し笑ってしまう。

「……さすがに、変なこと考えてるな」

けれど、その笑いはすぐに消えた。

図書館の窓が、かたん、と鳴る。

外は無風だったはずなのに。

ページが、ひとりでにめくれた。

ぱらり。

真尋は息を止める。

開いた先にあったのは、さっきとは別の頁。

そこには、短くこう書かれていた。

『風は、血ではなく、心に宿る』

「……え」

背筋が冷たくなる。

偶然かもしれない。

ただの風かもしれない。

けれど。

その瞬間、真尋の中で何かが決まった。

もっと知りたい。

凪のことを。

あの風のことを。

真尋は本を閉じ、立ち上がる。


「……よし」


夕方の図書館を出る足取りは、少しだけ軽かった。

その頃。

校舎の渡り廊下で、凪はふと足を止めていた。

理由は分からない。

けれど、胸の奥に小さなざわめきがある。

誰かが、何かに触れた。

そんな気がした。


吹くはずのない風が、髪をかすめる。

凪は静かに空を見上げた。

まだ誰にも見えないはずのものが。

少しずつ、近づいてきていた。


風を祀る村。


その一文が頭から離れなかった。

真尋は図書館で見つけた話を手がかりに、さらに資料を漁った。

郷土史。

民話集。

古い新聞の記録。

いくつか、それらしい記述は見つかった。

風を呼ぶ。

雨を願う。

季節の変わり目に行われる行事。

けれど—

「……ない」

真尋は小さく呟く。


決定的なものが。

“祭りとして残っている村”が、どこにもない。

どの記録も共通していたのはひとつだけ。

『夏の始まりを告げるもの』

それだけ。


風は祀られていたわけじゃない。

ただ、季節の象徴として扱われていた。

(……じゃあ、あの話は?)

あの一文だけが、浮いている。

作り話か。


それとも、消えたのか。

真尋はノートに書き足す。

―風の祭り、実在不明。

―記録は断片的。

―信憑性低。

ペンが止まる。

「……でも」

それでも、あの風は確かにあった。


気づけば、視点は別の方向に向いていた。

「……直接、調べるか」

真尋は小さく呟く。

対象はひとり。

凪。


数日かけて、下校ルートを調べた。

やっていることは、自分でも分かっている。

(これ、普通にストーカーだよね)

苦笑しながらも、足は止まらない。

目撃情報を頼りに、道をなぞる。

「あっちの角を曲がってた」

「商店街の方に行くの見たよ」

断片を繋ぐ。

歩く。

探す。

そして。

「…え」

見つけてしまった。

偶然だった。

本当に、ただの偶然。

静かな住宅街の一角。

少し古いけれど、手入れの行き届いた家。

門の前に、小さな鉢植えが並んでいる。

その庭先に——

凪がいた。

しゃがみこんで、何かをしている。

近づいてよく見ると、猫の餌皿だった。

ああ、やっぱり。

真尋は納得する。

体育館裏だけじゃない。

ここでも、同じことをしている。


その日はそれ以上近づかなかった。

代わりに、少し離れた場所で聞き込みをする。

「すみません、この辺に住んでる凪って子……」

最初に声をかけたのは、買い物帰りらしい女性だった。

「ああ、あの子ね」

すぐに分かったようだった。

そして—

「いい子よ」

迷いなく言った。

「気が利くし、よく手伝ってくれるの」

別の人にも聞く。

「あの子? 挨拶がちゃんとしてるよね」

また別の人。

「料理上手らしいよ。聞いたことある」

「うちの娘にも見習ってほしいくらい」

さらに。

「お嫁さんに来てほしいくらいだわ」

冗談混じりの声。

でも、嫌な意味はまったくない。

どの言葉も、同じ方向を向いていた。

—評判がいい。

それも、かなり。

真尋は少し戸惑う。

学校で聞いた印象とは、まるで違う。

静かで、目立たなくて、誰とも関わらない人。

なのに。

ここでは違う。

ちゃんと人と関わっている。

ちゃんと見られている。

「…なんで?」

思わず漏れる。

さらに聞く。

「ご家族って、この辺の人なんですか?」

「ああ、そうよ」

返ってきた答えはあっさりしていた。

「生まれも育ちもこの街」

「今の家は、お父さんの実家だったはずよ」

特別な背景はない。

普通の家庭。

普通の生活。

普通の—

「……普通、か」

真尋は小さく呟く。


その帰り道。

夕方の風が、少しだけ強くなる。

髪が揺れる。

制服の裾がなびく。

真尋は足を止めた。


「…違う」


ぽつりと漏らす。

全部が普通なら。

あの風は何だったのか。

あの違和感は何だったのか。


「普通じゃない」


確信に近い何かがある。

でも、証明はできない。

だから——

真尋はポケットから小さなメモノートを取り出す。

ペンを走らせる。


―凪

―周囲評価:極めて良好

―家庭:地域密着型、特異性なし

―結論:外面は完全に“普通”

そして、その下に書き足す。


―しかし、内部に異常あり(未証明)


書いてから、ふっと笑う。


「…やっぱり面白い」


完全に、対象は決まった。

調べる価値がある。

追う理由がある。

そして何より——

知りたい。


その頃。

家の中で、凪はふと手を止めていた。

台所。

包丁の音が止まる。

胸の奥に、わずかな違和感。

風が、揺れる。

誰かに触れられたような。


そんな感覚。


凪は静かに窓の外を見る。

夕方の空。

風は、ただ吹いているだけのはずなのに。


「…気のせいか」


そう呟いて、また手を動かす。

けれど。

見えない何かは、確かに近づいていた。

昼休みの体育館裏は、相変わらず静かだった。

人の気配は少ない。

風と、猫と—

そして、凪。

しゃがみこんで餌を置いている。

その背後に、足音を忍ばせる影がひとつ。


「ねえ」


声をかけた。

凪は振り返らない。


「キミに興味がある」


間を置かず、続ける。


「部活に入部して」


沈黙。

一拍。


「丁重にお断りします」


即答だった。

振り返りもせず。

まるで、来ることが分かっていたみたいに。


「早くない?」

真尋は眉をひそめる。


「話くらい聞いてよ」

「聞いた」

「聞いてないでしょ」

ようやく凪が振り返る。


その目は、相変わらず静かだ。

「聞く前に分かる」

「何それ」

「面倒そう」

「ひどい」

即答に即答で返される。

会話は成立しているのに、距離はまったく縮まらない。


でも—

(やっぱり、この人変だ)

真尋は確信する。


「じゃあさ」

ポケットから小さなノートを取り出す。


ぱら、と開く。


「これ、聞いてくれる?」

凪がわずかに眉を動かす。


真尋はそのまま読み上げた。

「『料理上手』」

ぴく。

「『まめに挨拶をくれる』」

ぴく、ぴく。

「『よく手伝ってくれる』」

「——ちょっと待って」

「『うちのお嫁さんに来てほしい』」

「ストップ!!」

凪が勢いよく立ち上がる。


そのまま真尋の口を手で塞いだ。

「それ以上ダメ!」

顔が赤い。

明らかに動揺している。


「どこで聞いたの、それ……!」


真尋はもごもごと喋る。

口を塞がれているので、うまく聞き取れない。

「……んぐ、んー、んー」

「分かんない!」

「んー……ご、きん……」

「……え?」

凪の手が少し緩む。

「ご近所さん、たち」

ようやく聞き取れた。


数秒の沈黙。

「……最悪」

凪は顔を押さえた。

耳まで赤い。


「なんでそんなこと……」


「調べたから」


あっさり言う。


「……何それ」

「キミ、不思議だから」

まっすぐな言葉。


躊躇いがない。

凪は少しだけ目を細めた。


「普通だよ」

ぽつりと言う。

「さっきの通り」

「普通の人が、あんな風に消えたりしないよ」


風が少しだけ強くなる。

猫の耳が動く。

「消えてない」

「じゃあなんで見えないの?」

「見てないだけ」

淡々とした返答。

でも、その言葉の奥に何かがある。


真尋は一歩近づく。

「じゃあさ」

じっと見上げる。

「これも“普通”?」

凪の足元にあった空き缶を指さす。

その瞬間。


ふわ、と風が揺れた。

缶が、ほんの少しだけ転がる。

誰も触れていないのに。


沈黙。

猫が一匹、のんびりとあくびをする。

もう一匹は寝転がったまま動かない。

まるで何も起きていないみたいに。


「…気のせい」

凪が言う。

少しだけ早口で。

「今の、見たよ」

「見間違い」

「見てた」

「たまたま」

言葉が重なる。

でも。

視線は逸らされる。


真尋は、ふっと笑った。

「やっぱり」

ノートを閉じる。

「面白い」

その一言に、凪の眉がわずかに動く。


「入らなくていいよ、部活」

真尋は言う。

「でも」

少しだけ身を乗り出す。

「観察は続ける」

「断る」

「もうしてる」

「やめて」

「無理」

即答同士。


風が吹く。

今度は、少しだけ強く。

凪の髪が揺れる。

真尋の服がなびく。

猫たちは気にせず伸びをする。

自由に。

いつも通りに。


凪は小さく息を吐いた。

「…好きにすれば」

半分、諦めたように。


真尋は笑う。

「うん、そうする」

その目は、完全に“観測者”のそれだった。


この日。

二人の距離は、少しだけ変わった。

隠す者と、追う者。

その関係はまだ変わらない。

けれど——

もう、無関係ではいられない。

最近、変わったことがある。

凪は、廊下を普通に歩いていた。

以前のように気配を消すことも、見えないように動くこともない。

理由は単純だ。

「ねえ聞いてる?」

横にいるから。


真尋は、当然のように隣を歩いていた。

距離が近い。

というより、離れない。

朝も。

休み時間も。

帰り道も。

「ねえ」

「聞いてない」

「まだ何も言ってないんだけど」

「言う前から分かる」

「ひどいなあ」

そんな会話が、もう何度目か分からない。


真尋は、まるで独り言のように話し続ける。

けれど内容は、ちゃんと凪に向けられている。


「この前見つけた昔話なんだけどさ」

凪は無視する。


「風を祀る村の話」

足は止めない。

「せっかく跡地の位置まで調べたのにさ」

一瞬だけ、凪の歩調がズレた。

ほんのわずかに。

真尋は見逃さない。


「……君とは無関係で、がっかりだったよ」

わざとらしくため息をつく。


数歩、沈黙。

「……今の話」

ぽつりと、凪が言う。

真尋の口元が少し上がる。

「ん?」

「君とは無関係でがっかりだった、って話?」

「違うよ」

即答。

「昔話の村の話」

凪が足を止めた。


廊下の空気が、少しだけ変わる。

窓の外は穏やかで、風もほとんどない。

それなのに、わずかに揺れる。

見えない何かが、引っかかったみたいに。


「……場所、分かるの」

凪が言う。

声は低い。

警戒している。

真尋は、にやっと笑った。

「知りたい?」

「…別に」

視線を逸らす。

分かりやすい。


真尋はポケットから紙を取り出す。

ひらひらと揺らす。

「入部するなら教えてもいいかも」

そこに書かれているのは——

入部届。


「……やだ」

間髪入れずに返す。

「即答だね」

「面倒そうだから」

「楽しいよ?」

「絶対嘘」

「ひどい」


ひらひら。

紙が揺れる。

風もないのに、少しだけ長く揺れた。

凪の視線が一瞬だけそこに落ちる。


「ほらほらー」

真尋は一歩前に出る。

凪の進行方向を塞ぐように。

「ここにサインして、担任に提出したら——」

紙を差し出す。

距離が近い。

「教えてあげる」

にこ、と笑う。


沈黙。

廊下の向こうから、誰かの話し声が聞こえる。

日常の音。

普通の風景。

その中で、ここだけ少しずれている。


「……なんでそこまで」

凪が小さく言う。

「興味あるから」

即答。

迷いがない。


「不思議なんだよ、君」

真尋は続ける。

「普通なのに、普通じゃない」

「……」

「証明したい」

その言葉だけ、少しだけ真剣だった。


凪はしばらく黙っていた。

入部届を見る。

真尋を見る。

そして—

ふっと息を吐いた。


「…条件」

「おっ」

真尋の目が輝く。

「聞こうじゃないか」


「入らない」

「えー」

「でも」

少しだけ間を置く。

「その場所は教えて」


真尋は数秒考えて、

にやりと笑った。

「却下」

「……は?」

「それじゃ意味ないでしょ」

紙をひらひらさせる。


「観測対象は近くにいた方がいいんだよ」

さらっと、とんでもないことを言う。


凪は額を押さえた。

「……最悪」

「褒め言葉?」

「違う」


また沈黙。

けれど今度は、どこか軽い。


風が吹く。

廊下の窓から、やわらかく。

紙がふわりと浮く。

ほんの少しだけ。

誰にも気づかれない程度に。


真尋は、それを見逃さなかった。


「……ねえ」

小さく呟く。

「やっぱりさ」

凪は答えない。


「君、面白いよ」


その一言に、凪は何も返さなかった。

けれど——

完全に無視もできなかった。

この一週間。

変わらないことがある。

「ねー、サインまだ?」

変わらない声。

変わらない距離。

変わらない紙。


真尋は、飽きもせず入部届をひらひらさせていた。

朝。

休み時間。

放課後。

場所も時間も関係なく現れる。

「書くだけでいいんだけどなあ」

「書かない」

即答。

もう何度目か分からないやり取り。


けれど、変わったこともある。

周囲の視線。

小さな声。

「……あの子、また一緒にいる」

「可愛いけどさ、男なんだよね」

「ちょっとしつこくない?」

笑い混じりの声。

軽い言葉。

でも—

「だからああなるんじゃない?」

「階段のやつでしょ?」

「可哀想だけど、自業自得っぽいよね」


真尋は、歩きながら何も反応しない。

聞こえていないみたいに。

いつも通りの顔で。

「ねえ、ほんとに書かないの?」

「書かない」

変わらない調子で。


けれど、その全部を——

凪は聞いていた。


昼休み。

体育館裏。

いつもの場所。

風は穏やかで、猫たちは自由だ。

一匹は寝ている。

一匹は転がっている。

もう一匹は、真尋の膝の上。

「ほら、こっち」

真尋が笑う。

猫に向けた声。

さっきまでの空気とは違う。

やわらかい。


少し離れた場所で、凪はそれを見ていた。

何も言わず。

ただ、見ている。


「…ねえ」

ぽつりと声をかける。

真尋は振り返らない。

「何時もあんな事言われてるの?」

手が止まる。

猫の耳がぴくりと動く。


「……」

返事はない。

「ねぇ」

少しだけ近づく。

「聞いてる?」

「何の事かな」

ようやく返ってきた声は、いつも通りだった。

軽くて、明るい。

「何も聴こえないよ」

笑う。

いつもの顔で。


でも。

そのほんの少しだけ。

影が落ちていた。


凪は黙る。

しばらく、風の音だけが流れる。


「…あの日」

凪が言う。

真尋の肩が、わずかに揺れた。


「階段から落ちたのって」

言葉を選ぶ。

少しだけ、慎重に。


「…誰かに、突き落とされたから?」


沈黙。

猫が一匹、真尋の膝から降りる。

地面に着地して、そのまま伸びをする。


「…いいの」

小さな声。

今度は、誤魔化さない。


「悪いのは、わた…」

一瞬、言い淀む。

「…僕だから」

言い直した。


「君も、嫌なら」

少しだけ顔を伏せる。

「逃げていいよ」


風が、止まる。

さっきまであった流れが、消える。

空気が重くなる。


凪は少しだけ目を細めた。


「…別に」

短く言う。


「嫌じゃない」


それだけ。

それだけなのに。


真尋は、少しだけ驚いた顔をした。


風が戻る。

やわらかく。

猫の毛を揺らすくらいに。


「…そっか」

小さく呟く。

それ以上は何も言わない。


でも。

さっきまでより、少しだけ空気が変わっていた。


凪は猫の方を見る。

一匹が近づいてきて、足元にすり寄る。

そのまま、自然に撫でる。


真尋もまた、猫に手を伸ばす。

その距離は、前より少しだけ近かった。


言葉は少ないまま。

でも。

何かが、確かに変わり始めていた。

放課後の体育館裏。

風は穏やかで、空は少しだけ赤く染まり始めていた。

猫たちはいつも通り、自由に過ごしている。

その中で——

真尋は、いつもと違っていた。


「ねえ」

小さな声。

凪が顔を上げる。


「昔、昔の話」

真尋はそう言って、空を見上げた。

夕焼けの色が、瞳に映る。

そのまま、少しだけ黙る。


そして。

ぽつり、と。

涙が一筋、流れた。


「男なのか、女なのか」

静かな声。

「自分でも分からない子がいた」

風が、止まる。


「その子はね」

ゆっくりと続ける。

「何度も、人生をやり直してた」

凪は何も言わない。

ただ、聞いている。


「全部、覚えてるの」

「短いと、五歳」

「長くて、十歳くらい」

言葉が淡々と続く。

でも、その奥にある重さは消えない。


「病気で死んで」

「事故で死んで」

「事件に巻き込まれて」

一つ一つ。

数えるように。


「何度も」

少しだけ声が揺れる。


「何度も、何度も」


風が、わずかに震えた。


「…それでも」

真尋は空を見たまま言う。

「やっと」

ほんの少し、息を吸う。


「長く生きられる世界に来れた」


沈黙。

猫の鳴き声だけが、小さく響く。


「その世界はね」

少しだけ笑う。

でも、どこか遠い。


「平和で」

「ゆったりしてて」

「ちゃんと時間が流れる世界」


そこで、ようやく視線が落ちる。

凪を見る。


「君は、信じる?」

まっすぐな問い。

逃げ場のない目。


「僕が私が」

少しだけ言葉を選ぶ。


「何度も転生して」

「生きて、死んでを繰り返してきたって言ったら」


風が、止まる。

完全に。


凪は、少しだけ目を見開いた。

驚きはある。

でも—

混乱ではない。


数秒。

考える。


そして。


「信じるよ」


短く、言った。


真尋の目が揺れる。


「…え?」


「私も」

少しだけ間を置く。


「転生してきたから」


その一言で。

空気が、変わった。


風が、一気に流れ出す。

強くはない。

でも、確かに。


猫たちが顔を上げる。

耳が動く。

空気の変化に気づいたみたいに。


真尋は、言葉を失っていた。


「……ほんとに?」

かすれた声。


凪は少しだけ視線を逸らす。


「たぶん」

「夢みたいな記憶だけど」

「でも」

ほんの少しだけ、真尋を見る。


「風の感覚は、覚えてる」


沈黙。

でも今度は、重くない。


真尋の手が、わずかに震える。


「……そっか」

小さく呟く。


「やっと」

笑う。

今度は、ちゃんと。


「見つけた」


風が、やわらかく吹く。

夕焼けの中で。

二人の間を通り抜ける。


もう。

ただの“観測者”と“対象”じゃない。


同じものを知る者同士。


見えないはずのものが、

確かにそこにあった。

夕焼けが、ゆっくりと色を深めていく。

体育館裏。

静かな場所。

風は穏やかで、猫たちは少し離れたところで丸くなっていた。


真尋は、まだ少しだけ目を潤ませたまま立っていた。

さっきまでの言葉が、空気の中に残っている。


凪は、ゆっくりと歩み寄る。

何も言わずに。

距離を詰める。


そして。

そっと、手を伸ばした。


真尋の頭に、やわらかく触れる。

撫でる。

優しく、包むように。


「……今が」

凪が言う。

声は小さいけれど、はっきりしている。


「嬉しくて」

「楽しくて」

「幸せ……だったんだね」


風が、ふわりと揺れる。


「……ここまで」

少しだけ間を置く。


「頑張って来たんだね」


真尋の肩が、わずかに震えた。


「……うん」

小さく頷く。

それだけで、言葉は足りていた。


しばらく、静かな時間が流れる。

風と、夕焼けと、二人。


やがて。

凪は、少しだけ距離を取った。


「君が見たかった私の秘密は」

軽く息を吸う。


「これかい?」


その瞬間。

風が、動いた。


最初は、ほんのわずか。

足元の空気が揺れる程度。


次の瞬間——

ふわり、と。

周囲にあった花びらが舞い上がる。


見えない手にすくい上げられるように。

やさしく。

やわらかく。


くるり、と回る。

光を受けて、きらきらと輝く。


そして。

ゆっくりと。

空から降るように。


花びらが、舞い落ちてくる。


「……あ」

真尋が息を呑む。


夕焼けの光の中。

風に乗った花びらが、踊るように降りてくる。


その中で。

真尋の頬を伝っていた涙が——

消えていた。


「…これは」

凪が静かに言う。


「この世界で言う、“魔法”だよ」


「…魔法」

真尋が繰り返す。


「そう」

少しだけ笑う。


「おとぎ話に出てくる魔法」


花びらが、まだゆっくりと舞っている。


「私の前世の力の……」

ほんの少しだけ視線を落とす。


「ほんの一欠片しか使えなくなったけどね」


風が、少しだけ弱まる。

花びらも、静かに地面へと戻っていく。


「……皆には秘密だよ」


そう言って。

凪は、にこりと笑った。


さっきまでの静けさとは違う。

少しだけ柔らかい笑顔。


真尋は、少しだけ呆けたように見ていた。


やがて。

ふっと、笑う。


「……うん」


つられるように。

自然に。


同じように笑った。


風が、もう一度だけ吹く。

今度は、ただの風。


でも。

その中には、確かに何かがあった。


見えないけれど。

確かに、そこにあるもの。


それを、二人は知っている。

花びらは、すべて地面に落ちた。

さっきまでの輝きが、静かに余韻だけを残している。


真尋は、その場に立ったまま動けなかった。

手のひらを、そっと見る。

何も残っていない。

でも、確かに感じた。


「……きれい」

小さく呟く。


凪は何も言わない。

ただ、少しだけ目を細めていた。


その沈黙の中で。

ふと、違和感に気づく。


笑っているのに。

明るく振る舞っているのに。

どこか、無理をしている。


(……誤魔化してる)

凪は思う。


「ねえ」

静かに声をかける。


真尋が顔を上げる。

いつもの笑顔。

でも——

少しだけ、揺れている。


「…死は、怖いものだよ」

凪が言う。

ゆっくりと。

言葉を選びながら。


「君は、それを何度も経験してる」

風が、わずかに止まる。


「しかも全部、覚えてる」


真尋の指先が、ほんの少しだけ震えた。


「私は」

凪は続ける。


「死ぬ直前のことは覚えてないけど」

少しだけ視線を落とす。


「……たぶん、怖かったと思う」


沈黙。

夕焼けが、少しだけ色を深める。


「だから」

凪は顔を上げる。


「いいよ」


短く、言った。


「無理に明るくしなくていい」


真尋の目が、わずかに見開かれる。


「……」

何か言おうとして、言葉が出ない。


凪は、そのまま続ける。


「ほら」

軽く顎で示す。


「それ、出してごらん」


真尋の手。

そこには——

くしゃっと握られた紙。


入部届。


無意識だったのかもしれない。

ずっと、握ったままだった。


凪は、それをそっと取る。


「……え?」

真尋が小さく声を漏らす。


凪は何も言わない。

そのまま、ペンを取り出す。


さら、と。

紙の上に音が走る。


名前を書く。

迷いなく。


書き終えて、紙を戻す。


「はい」


真尋は、しばらく動かなかった。


視線が、紙に落ちる。

そこに書かれた文字。


現実。


「…いいの?」

小さな声。


「うん」

凪はあっさり答える。


「観察、されるんでしょ」


少しだけ間。


「近くにいた方が楽」


それは、いつもの軽い言い方。

でも。


「……それに」

ほんの少しだけ、言葉を足す。


「一人じゃない方がいい」


真尋の呼吸が、止まる。


風が、そっと吹いた。


今度は、何も起こらない。

ただの風。

でも、やさしい。


真尋は、ゆっくりと顔を上げる。


目は、まだ少し赤い。

でも。


ちゃんと、笑っていた。


「……ありがとう」


その言葉は、小さかったけれど。

今までで一番、まっすぐだった。

凪は、少しだけ視線を逸らす。


「別に」


短く返す。


でも。その横顔は、少しだけ柔らかかった。


ー回想ー


「ほら、サインしたんだから教えてよ」

凪が言う。

少しだけ不機嫌そうに。


「え?」

真尋は一瞬きょとんとしてから、すぐに思い出したように頷いた。

「ああ、昔話の村の話だね」

指先を口元に当てて、考えるように視線を上げる。


「この街の駅から、二時間くらいかな」

「電車で?」

「うん。それで降りてから—」

少しだけ間。


「徒歩一時間くらい」


「…遠いね」

凪が素直に言う。


「バス停もないから、ひたすら山道だけどね」

さらっと付け足す。


凪は無言になる。


その様子を見て、真尋はにやっと笑った。


「次の土曜日、朝から案内するよ!」

ぱっと顔を上げる。


「駅前の木の下、6時30分集合!」

明るく、決定事項のように言い切った。


ー回想終わりー


「6時22分……」

凪はスマホの画面を見て、小さく呟く。


「約束は30分だから、さすがにまだ来てないよね」


駅前の広場。

大きな木が一本、中央に立っている。

その下には、いくつかのベンチ。

待ち合わせにはちょうどいい場所だった。


今日は動きやすい格好にしている。

山道と聞いたから。

スニーカーに、動きやすい服装。

いつもより少しだけ軽装。


(……朝、早い)

空気がまだひんやりしている。

風も静かだ。


凪はベンチの方へ歩く。

その時。


木の向こう側のベンチから、足が見えた。


「……?」

少しだけ首を傾げる。


近づく。

覗き込む。


そこには—

真尋がいた。


すやすやと、気持ちよさそうに眠っている。


つばの広い帽子。

半袖。

丈の短めのスカート。

スニーカー。

初夏らしい、軽い服装。


その隣には、小さなピクニック用のバスケット。


「……」

凪はしばらく黙って見ていた。


そして。


人差し指を、そっと伸ばす。


ぷに。


頬に触れる。


「……ん?」

少しだけ感触を確かめる。


「私の肌より柔らかいかも」

小さく呟く。


「ん……んがっ……」

真尋がもぞもぞと動く。


「え……ここ……は?」

ぼんやりとした声。


「寝ぼけてないで、起きて」

凪が言う。


「こんな可愛い子が、無防備に寝てるの良くないよ」


「…え?…ん?」

一瞬、止まる。


「…は!」

飛び起きた。


「おはよう」

凪はあっさり言う。


「何時から待ってたの?」


「ん〜…」

まだ少し眠そうに考える。


「5時半?」


「今、何時!?」

急に焦る。


「今が約束の時間」

凪はスマホを見せる。


「6時30分」


「ほらー!」

真尋は勢いよく立ち上がる。


「わたし時間にルーズだから、さすがに女の子を待たせないと思って早めに来たの!」


「ルーズかは知らないけど」

凪は少しだけ呆れたように言う。

「無理せず、約束の10分前くらいでいいと思うよ」

「なるほど……!」

真尋が真剣に頷く。


「勉強になります!」


凪は小さく息をついた。

「それで」

視線を横に向ける。


「その荷物は?」

「あー!」

真尋が思い出したように声を上げる。


「これはお弁当!」

バスケットを軽く持ち上げる。


「だって、あっちにはコンビニも自販機もないから……!」

ぐっと親指を立てる。


その顔は、どこか誇らしげだった。


凪は少しだけ目を細める。


「…準備いいね」

「でしょ?」

にやっと笑う。


朝の風が、やわらかく吹く。


これから向かう場所。

昔話の村の跡地。


まだ何があるかは分からない。


でも。


「行こうか」


凪が言う。


「うん!」

真尋が頷く。


二人は並んで歩き出す。


日常から、少しだけ外れた場所へ。


風が、静かに背中を押していた。

駅の改札口が見えてきたところで——

「あ〜!待って!待って!」

真尋が急に慌てだした。


「電車の切符、買うから!」

そう言って、小走りで券売機の方へ向かう。


凪は少し遅れて後を追う。

人はまだまばらで、朝の駅は静かだった。


そのまま改札へ向かうかと思った、その時。


「こっちこっち!」

真尋が手招きする。


向かった先は、駅員のいる窓口だった。


「すみませーん」

慣れた様子で声をかける。

「はい、これ」

真尋が差し出してくる。

切符。

そして。

ポケットから、小さな手帳を取り出した。


「これ、お願いします」

手帳と切符を一緒に差し出す。


駅員は軽く中を確認し、頷いた。


「はい」


ぱちん、とスタンプの音。

そして、切符に小さな穴が空けられる。


返ってきた切符を、真尋は丁寧に受け取った。


凪はそれを見て、少しだけ首を傾げた。


「…今のは?」


真尋は一瞬だけ目を泳がせる。


そして、にこっと笑った。


「切符が安くなるおまじない!」


「……」


凪は無言で見つめる。


「ほんとほんと!」

少しだけ早口になる。


「便利でしょ?」


「……そうなんだ」

納得していない声。


真尋はそのまま、くるっと背を向ける。


「行こっか!」

明るく言う。


その手帳を、大事そうに閉じる。

そして。

切符を、その間にそっと挟んだ。


まるで、なくさないように。


(……おまじない、ね)

凪は少しだけ目を細める。


風が、ほんのわずかに揺れた。


何かを隠している時の空気。


それでも、凪は何も言わなかった。


今は、追及しない。


それよりも。


これから行く場所。


昔話の村の跡地。


そっちの方が、ずっと気になる。


「ねえ」

歩きながら、凪が言う。


「どんな場所なの」


真尋は少しだけ振り返る。


「うーん」

少し考えて。


「たぶん」

少しだけ、笑う。


「何もない場所」


その答えは、軽かった。


でも。


風だけが、少し違っていた。

手帳に切符を挟む、その一瞬。

ほんのわずかに見えた。


「子供料金」


凪の視線が、ほんの少しだけ止まる。


(……あ)

すぐに理解した。


さっきの窓口。

あの手帳。


(福祉手帳…)


理由は分からない。

けれど、それ以上は考えなかった。


真尋は何も言わない。

いつも通りの顔で、先を歩いている。


凪も、何も言わなかった。


それはきっと。


(“秘密”なんだろうな)


そう思ったから。


触れない方がいいこと。

踏み込まない方がいいこと。


誰にでも、ある。


風が、そっと流れる。


改札を抜け、ホームへ。

電車がゆっくりと滑り込んでくる。


「こっち!」

真尋が手を振る。


二人は並んで座席に座る。

窓側に真尋。

その隣に凪。


発車の音。

電車が動き出す。


街の景色が、少しずつ流れていく。

建物が遠ざかり、空が広がる。


しばらくは、静かな時間だった。


がたん、ごとん。

規則的な音。


その中で、真尋がふと顔を上げる。


「もう少ししたらね」

少しだけ楽しそうに言う。


「海が見えるんだよ!」


凪はわずかに目を細める。


「来たことあるの?」


「うん、一回だけ」

真尋は頷く。


「下見」

少しだけ得意げに笑う。


電車は進む。

景色が変わる。


建物が減り、緑が増える。

空が広くなる。


そして—


「あ、ほら!」


真尋が窓の外を指さす。


凪も視線を向ける。


そこにあったのは—


海。


光を受けて、きらきらと輝いている。


青い水面。

広い空。

その境界線は、どこまでも続いているように見えた。


遠くには、いくつかの影。


「貨物船かな」

真尋が言う。


「あと、漁船も」


ゆっくりと進む、小さな点のような船たち。


波は穏やかで、風もやわらかい。


電車の窓越しに見る景色なのに。

どこか、現実感が薄い。


「…きれい」

凪が小さく呟く。


真尋は、少しだけ満足そうに笑った。

「でしょ?」

その声は、いつもより少しだけ軽い。


さっきの手帳のこと。


何も言わなかった。

何も聞かなかった。


でも。


それでいい気がした。


風が、窓の外で揺れている。

これから向かう場所。

何もないかもしれない場所。


でも——


何かがある気もしていた。


電車は、ゆっくりと進んでいく。


規則的な揺れ。


窓の外には、まだ海のきらめきが残っている。


(……少し、お腹空いたかも)

凪はぼんやりと思う。


朝が早かったからかもしれない。


その時。

隣で、ごそごそと音がした。


真尋が、バスケットを開けている。

何かを探しているようだ。


「……?」


凪がちらりと見る。


「はい!」


満面の笑みで差し出された。


ラップに包まれた、黒い塊。

それと、小さな緑茶の缶。


「……何これ」

「見て分かるでしょ!」


少しむっとした顔。


「お・に・ぎ・り!」

一文字ずつ区切って言う。


凪は手の中のそれを見る。


黒い。

完全に黒い。


「……毒殺?」

「失礼な!」


真尋が声を上げる。


「おにぎりです!」


「見たら分かるでしょ、もぉー……」


頬を膨らませる。


凪は少しだけ無言になって。


ラップを剥がした。


中から現れたのは、海苔に包まれたおにぎり。


ただし。


三角でも、丸でもない。


「……球体?」

完全な、丸。


(握り方どうなってるの)


少しだけ考えつつ。


一口、かじる。


海苔は味付き。


少しだけしっとりしている。


二口、三口と食べ進める。


「……あ」


中身に当たる。


ミートボール。

そして、赤ウインナー。


(市販じゃない)


すぐに分かる。


味が違う。


「……美味しい」


ぽつりと呟く。


真尋の顔がぱっと明るくなる。


「良かった!味見しないで作ったから、ちょっと心配だった……」


自分の分も頬張る。


「もぐもぐ……」


凪は一瞬、手を止める。


「……毒味役にした?」


「……してない」


少しだけ目を逸らす。


「多分……」


「してるでしょ」


「してないってば!」


軽い言い合い。

でも、どこか柔らかい。


凪は残りを食べ終える。


そのまま、緑茶の缶を開ける。


一口。


「……合う」


おにぎりの余韻に、ちょうどいい。


真尋はそれを見て、満足そうに笑う。


電車は変わらず進んでいく。


窓の外。

流れていく景色。


その中で。


「ねえ」


真尋が言う。


「ちゃんと食べないと、山で倒れるよ?」


「……そのためのこれ?」


「そう!」


得意げに頷く。

凪は少しだけ目を細める。


「……準備いいね」

「でしょ?もっと褒めてもいいよ!」


軽いやり取り。

いつもの調子。


でも。

少しだけ、違う。

ただ一緒にいるだけじゃない。


同じ時間を、分け合っている。


風が、窓の外で揺れる。

これから向かう場所へ。

静かに、導くように。


電車は、少しずつ速度を落としていく。

窓の外の景色も、変わっていた。

建物は消え。

緑が増え。

いつの間にか、完全に山の風景になっていた。


「あと10分くらいかな?」


真尋が言う。


少しだけ身を乗り出して、外を確認する。


「すぐ降りれる準備しとかないと!」


そう言うと、さっと動き出す。


食べ終わったおにぎりのラップ。

空になった缶。

きちんとまとめて、バスケットにしまっていく。


無駄がない。

慣れている動き。


(……世話焼きなのかな)

凪はぼんやりと思う。


真尋はさらに、バスケットの中を探る。


取り出したのは—

小さなデジカメ。

フィルムカメラ。

そして、小さなポシェット。


慣れた手つきで身につける。


「よし!」

ぱん、と軽く手を叩く。


「準備万端!」


凪はその様子を静かに見ていた。


やがて。


電車が、ゆっくりと停車する。


扉が開く。


外に広がっていたのは——

小さな、無人駅。


人の気配は、ほとんどない。

誰も降りる様子もない。


それでも。

ホームはきれいに整えられていた。


誰かが、ちゃんと手入れしている。

そんな気配だけは残っている。


「着いたね」

真尋が軽く言う。


二人は電車を降りる。


電車はすぐに発車して、去っていった。


音が消える。


残るのは、風と、山の静けさだけ。


その時。


「あっ、そうだ!」

真尋が思い出したように言う。


「この先、本当に何もないから」

少しだけ真剣な顔になる。


「行くなら、今のうちに行った方がいいよ」


「ん?」

凪が首を傾げる。


「何が?」


一瞬の間。


真尋は少しだけ言いづらそうにして——


「女の子に、その辺でしてって言うのは…さすがに」


「…あ」


理解した瞬間。

凪の顔が、ほんのり赤くなる。


「……じゃあ、行っておくよ」


「うん」

真尋が頷く。


「わたしも行ってくる!」


くるっと背を向けて、小走りで離れていく。


「終わったら、駅前でね!」


「……うん」


凪は小さく頷いた。


静かな駅。


少しだけ気まずい空気。

でも。

どこか、自然だった。

風が、やわらかく吹く。

これから先は、本当に何もない場所。


だからこそ。


準備は、大事だ。

駅の小さな建物から出ると、空気が変わった。


少しだけ湿った土の匂い。

風はやわらかいけれど、街とは違う。


凪はゆっくりと周囲を見渡す。

本当に、何もない。


その中で——


「……」


真尋はすでに外にいた。


駅前に立つ古い柱時計。

その前で、カメラを構えている。


小さなデジカメ。

両手でしっかり持って。


パシャ。


静かな音が響く。


もう一枚。

角度を少し変えて。


パシャ。


「……写真、撮ってるの?」

凪が声をかける。


真尋は一瞬だけ視線を外して——

すぐにまたファインダーへ戻した。


「うん」

短く答える。


「この、寂しい感じが……好き」


その言葉は、少しだけ静かだった。


誰もいない駅。

古びた柱時計。

止まっているように見える時間。


「……」

凪は何も言わない。


真尋は数枚撮り終えると、ふっと息をつく。


そして。


くるり、と振り向いた。


その瞬間。


パシャ。


「…え?」


一拍遅れて、凪が反応する。


「えへ」

真尋が笑う。


「一枚、撮っちゃった!」


満面の笑み。

さっきまでの静けさとは違う、いつもの顔。


凪は少しだけ眉をひそめる。


「…勝手に撮らないで」

「いいじゃん、記念だよ」

「何の」

「これからの」


さらっと言う。

凪は言葉を失う。


「ほら!」

真尋が一歩近づく。


そのまま、手を取る。


「行こ行こ!」


引っ張られる。


凪は一瞬だけ抵抗しようとして、やめた。


そのまま歩き出す。


山へ続く道。

舗装は途中で途切れている。


「ねえ」

歩きながら、凪が言う。


「さっきの、あとで消して」


「やだ」

即答。


「…なんで」

「いい顔してたから」

凪は少しだけ黙る。


風が、ふわりと吹く。

どこか、少しだけ強く。

山の奥から来る風。


(…変な感じ)


ほんの少しだけ、違和感。


でも、それよりも——


手を引かれている感触の方が、強かった。


温かくて。

離れない。


真尋は前を向いたまま歩く。


その背中は、いつもより少しだけ軽い。


「ねえ」

振り返らずに言う。


「どんなの撮れたか、あとで見せてあげるね」


凪は小さく息を吐いた。


「…別にいい」


そう言いながらも。

ほんの少しだけ。


気になっていた。

山道は、思ったよりも細かった。


踏み固められてはいるけれど、ところどころ草が伸びている。

完全に人の手が入っていないわけではない。

でも、頻繁でもない。


そんな道を、二人は進む。


「ちょっと待って」

真尋が立ち止まる。


カメラを構える。


パシャ。


また少し歩いて。


パシャ。


一定のリズムで、景色を切り取っていく。


その合間に。

ポシェットから小さなメモノートを取り出す。


ぱら、と開いて。

何かを確認する。


「でね」

歩きながら話し始める。


「約30年くらい前には、この辺の村から人がいなくなって」

凪は黙って聞く。


「最後にいた人も、今どこにいるのか分からないみたい」


風が、少しだけ強くなる。


「……なるほど」

凪が短く返す。


そのまま、また歩く。

「そろそろのはずなんだけど……」

真尋が周囲を見渡す。


そして。


「あっ、ほら!」


指をさす。


その先にあったのは——


石段。


苔むしている。

長い年月を感じさせる色。


けれど。


「……」

凪は足を止めた。


(……変だ)


階段だけが。

妙に、きれいだった。


苔はある。

でも、踏み面だけは新しい。


まるで、最近誰かが手入れしたみたいに。


「ここだよ」

真尋は気にした様子もなく、カメラを向ける。


パシャ。


「上で祀ってたらしい」


そう言いながら、軽い足取りで登り始める。


「ちゃんと足元見ないと危ないよ」

凪が言う。


「平気平気!」


一段。

また一段。


「……おっと!」

踏み外す。


身体が傾く。


その瞬間。


「ほら」

凪が手を伸ばす。

背中を支える。


ぐらり、と揺れた身体が止まる。


「…危ないでしょ」


「えへへ…ありがとう」

真尋が照れたように笑う。


「気をつけて」

「うん!」


今度は少しだけ慎重に。

一段ずつ、確かめるように登る。


凪もその後を追う。


風が、少しだけ変わる。

下とは違う。

流れが、集まっているような感覚。


(……ここ)

何かがある。


そう感じる。


やがて。


石段を登りきる。

そこにあったのは—

小さな社。


古い。

けれど、崩れてはいない。


そして。


その手前に置かれていたもの。


バケツ。

ホウキ。

ブラシ。

チリトリ。


生活の道具。


「……」


明らかに。


誰かが、ここに来ている。


最近。


真尋も、それに気づいた。

「……誰か、いるね」

小さく呟く。


凪は答えない。


ただ。


風の流れを、感じていた。

風が、ふわりと流れる。


その中に。


かすかに、匂いが混じっていた。

「……?」

凪が足を止める。

(……焼けた、匂い)

木が焦げたような。

乾いた煙の匂い。


「ねえ」

小さく声をかける。


真尋も気づいたように、顔を上げた。


「……あっち」


視線の先。

木々の隙間から、細く立ちのぼる煙が見えた。


二人は顔を見合わせて、そちらへ向かう。

少し進むと。


開けた場所に出た。


そこにあったのは——


焚き火。


まだ火は生きている。

ぱち、と小さな音を立てて燃えている。


その横には、大きなジョウロ。


「……」

誰かがいる。

そう思った、その時。


「あらまぁ」


後ろから、声。


「珍しいわねぇ」


二人が振り向く。

そこに立っていたのは、一人の女性だった。


「こんな辺鄙な場所に、若いカップルが来るなんて……迷子かしら?」

くすり、と笑う。


年齢は……四十代か、もう少し上か。

でも、どこか柔らかい雰囲気を持っている。


「こんにちは!」

真尋がすぐに声を上げる。


「お姉さんは、こんな所で何してるんですかー?」


「いやぁねぇ」

女性が軽く手を振る。


「こんな六十のおばさんに、お姉さんだなんて」

少し照れたように笑う。


「いえいえ!」

真尋が一歩近づく。


「どう見てもお姉さんですよ!」


「いいなー、若さの秘訣は?」


「そうねぇ……」

女性は少し考えてから、穏やかに答える。


「毎日歩くことかしら」


「もちろん、日焼け対策も」

「寝る前のスキンケアも大事よ」


「なるほど……!」

真尋が真剣に頷く。


そのやり取りを見ながら、凪は少しだけ目を細めた。

(……うまいな)

自然に距離を詰めている。


「私、真尋って言います!」


「私は風間」

女性が微笑む。


「ここはね、うちが代々守ってきた場所なの」

凪の視線が、わずかに動く。


「この社も、最後の代になっちゃったけど」


「こうして、時々掃除に来てるのよ」


視線の先。

バケツやホウキ。

さっき見たものと、繋がる。


「ねぇねぇ!」

真尋が身を乗り出す。


「ここで、風を祀るお祭りがあったって本当ですか?」


風間は少し驚いたように目を細める。


「あら……」


「そんな話、まだ残ってたのね」


少しだけ遠くを見る。


「そうね……」


小さく息を吐く。


「もうやってない風習だし」


「話しても、問題ないわね」


その顔は、少しだけ寂しそうだった。

風間は焚き火の前にしゃがみこむ。

落ち葉や枝を、静かに火へくべる。


ぱち、と音が弾ける。


「昔はね」

ゆっくりと語り始める。


「ここで、何人か代表を選んで——」


「“風お越しの儀式”をやっていたの」


「風お越しの儀式?」

真尋が首を傾げる。


「そう」


火を見つめたまま、続ける。


「風を呼ぶの」


「春から、夏へ変えるために」


風が、少しだけ強くなる。


「まぁ、簡単に言えば」


「家の窓を開けて、空気を入れ替えるみたいなものね」


「へぇ……」


真尋はすぐにメモノートを開く。

さらさらと書き留めていく。


「不思議なのはね」


風間の声が、少しだけ低くなる。


「必ず、祭りの後に雨が降ること」


凪の目が、わずかに動く。


「その日か、翌日には」


「土砂降りの雨」


焚き火の煙が、ゆっくりと揺れる。


「そのあとね」


ほんの少し、笑う。


「空に、大きな虹がかかるの…橋みたいにね」


「……」


「私は、その瞬間が好きだった」

火の音だけが、静かに響く。


「とても、きれいで」


「とても、静かで」


「……でも」

言葉が止まる。


「ある年を境に…祭りは、なくなった」


風が、止まる。


「旦那がね」


ゆっくりと続ける。


「最後の祭り主だったの…その最中に……心筋梗塞で亡くなってしまって」


真尋の手が止まる。


「継ぐ人が、いなくなったのよ」


小さく笑う。


「私たちにも、子どもは授からなかったしね」


焚き火の火が、小さく揺れる。

その場に、静けさが落ちた。

風だけが、そっと流れている。


凪は、何も言わない。


ただ—


その風の流れを、じっと感じていた。

「そういえばね」

風間がぽつりと呟く。


「今日が、その祭りの日なのよ」


真尋の手が止まる。


「え?」


「もうやらなくなって、ずいぶん経つけど……」


焚き火の向こう、社を見つめる。


「もう一度だけ……」


小さく、笑う。


「もう一度だけ、あの虹の橋が見たいわね」


その声は、風に溶けるように静かだった。


その頃。


凪は、一人。

社の前をゆっくり歩いていた。


足元に視線を落とす。


石畳。


古い、はずなのに。


「……これは」


足を止める。


わずかに彫り込まれた線。

円。

交差する紋様。


(……やっぱり)


凪の目が、わずかに細くなる。


「風間さん」

静かに声をかける。


「その祭りで、舞や踊りのようなことはしましたか?」


風間が振り向く。


「あら?」


「彼氏さんかと思ったら、女の子だったのね」

くすりと笑う。


「ええ、踊ったわ」


「代表者が輪の中に入ってね」


「決まった型はなくて、好きなように」


「一生懸命、踊るのよ」


「……なるほど」


凪は小さく頷く。


「でも、よく分かったわね」


「なんとなくです」


それ以上は言わない。


風間は少しだけ空を見上げる。


「もし、もう一度見られるなら……」

ふっと笑う。


「この社も、この土地も」


「叶えてくれた人にあげちゃうわ」


冗談めかした口調。

でも、どこか本気だった。


「さて、と」

軽く手を叩く。


「もう少し掃き掃除しなきゃね」


「社の中、好きに入って座ってていいわよ」


「あっ!」

真尋が手を挙げる。


「わたし、手伝います!」


「あら、助かるわ」


「なんだか、可愛い孫ができたみたい」


二人は笑いながら、社の裏へ向かう。


その背中を見送って——


凪は、ゆっくりと石畳の中央へ歩く。


円の中心。


静かに、立つ。


「…やっぱり」


小さく呟く。


「どうして、この世界に……」


視線を落とす。

刻まれた紋様。


「魔法陣」


指先でなぞる。


「これは……“コントロールウェザー”」


空気が、わずかに震える。


「しかも、風と雨の嵐……」


「時間差は……魔力量か」


凪はゆっくりと目を閉じる。

周囲を確認する。


誰も見ていない。

風間も、真尋も。


今は、ここにいない。


「……少しだけ」


手を、わずかに開く。


風が、集まる。

見えない流れが、掌へと吸い寄せられる。


それを。

そっと、地面へ流し込む。


魔法陣へ。


空気が、変わる。


ひやりとした感覚。


温度が、落ちる。


湿り気を帯びた風。


山の上を、ゆっくりと覆っていく。


「……」


凪は動かない。


ただ、流す。

必要な分だけ。

静かに。


空を見上げる風間。


「あれま……」


さっきまでの青空が。


ゆっくりと、曇り始めていた。


「急に……空が」


雲が集まる。

風が変わる。


「雨が降る前に、一度社に避難ね」


風間は慌てて動き出す。

集めた落ち葉を抱えて、焚き火へ入れる。


ぱちぱちと、火が強くなる。


その時。

ふと。

視線を、社の方へ向ける。


「……?」


見えたのは石畳の中央に凪が、立っている。


目を閉じて微動だにせず。


まるで


何かを、しているように。


「……あの子」


風が、強くなる。


違和感。

ただの風じゃない。

そう思った瞬間——


「風間さーん!」


真尋の声に

はっと我に返る。


「あ、はいはい!」


風間はすぐに振り返り、声の方へ向かう。


その間も。


空は、ゆっくりと変わっていった。

空が、変わっていく。


さっきまでの青は消え。

重たい雲が、山の上を覆い始める。


風が冷たい。

湿り気を帯びて、肌にまとわりつく。


ぽつり。


最初の一滴が、落ちた。


「……あ」

真尋が空を見上げる。


ぽつり、ぽつり。


やがて、それは数を増やし

雨になる。


「あらあら」

風間が少し困ったように笑う。


「本格的に降り出したわね……」


雨粒が、地面を叩く。

葉を打つ。

石を濡らす。


次第に、音が強くなる。


ざあああ、と。


一気に降り出す。


「ひっ……!」


真尋が小さく声を上げた。

肩をすくめて、両手で耳を塞ぐ。

「……っ」

身体が小さくなる。


その様子を見て、風間がすぐにそばへ寄る。


「よしよし」


優しく頭を撫でる。


「大丈夫よ、怖くないですよー」


雷鳴。


ゴロゴロ、と遠くで響く。

びくっ、と真尋の身体が震える。


凪は、その様子を静かに見ていた。


そして。


「……あと10分くらいで、やみますよ」

落ち着いた声で言う。


雨音の中でも、不思議と通る声。

風間がちらりと凪を見る。


「……あら?」


その言い方。

まるで、分かっているかのような。


「そういえば、あなた——」

言いかけた、その時。


ドンッ!!


空を裂くような雷鳴。


真上に落ちたかのような轟音。

「きゃっ……!」


真尋がさらに縮こまる。

風間も、思わず言葉を止めた。


まるで——


それ以上、聞くなと言わんばかりに。


雷が、空を叩く。


ざあああと降り続く雨。

風は強まり、木々が揺れる。


その中心で。


凪は、ただ静かに立っていた。


瞳は、空を見ている。


(……ちゃんと、動いてる)


風。

雲。

気圧。


すべてが、繋がっている。


流れは、正しい。


あとは——


「……少しだけ」

小さく呟く。


誰にも聞こえない声で。


風が、わずかに応える。

遠くで、もう一度雷が鳴る。

けれど。


その音は、さっきよりも少しだけ遠かった。

雷鳴は、少しずつ遠ざかっていく。


重く垂れ込めていた雲も。

風に押されるように、ゆっくりと散っていった。


雨音が、弱まる。


ざああ……から。


しとしとへ。


そして。


静かに、止んだ。


「……さぁ」


凪が小さく呟く。


「雨があがった」


その声は、どこか確信に満ちていた。


凪は一歩、外へ出る。


空気が変わる。


さっきまでの重さが嘘のように。

軽く、澄んでいる。


遅れて、風間も外へ出る。

その後ろから——


「……っ」


腰が抜けたままの真尋が、よろよろと姿を現す。


まだ少し震えている。


けれど。


視線が、上へ向いた瞬間。


その動きが、止まった。


葉の先から、雫が落ちる。


きらり、と光る。


一滴。

また一滴。


まるで、世界が輝きを取り戻していくように。


木々の間を抜けた光が。

雨粒を照らす。


空気は、透明で。


遠くまで見渡せる。


その先に——


「……あ」


真尋の声が、漏れる。


凪も、風間も。

同じ方向を見ていた。


山の向こう。


広がる空。


そこに、架かっていた。


大きな、虹。


七色がはっきりと分かる。

濃く、くっきりと。


まるで。


空に、橋がかかっているように。


「……あぁ……」


風間の声が、震える。

一歩、前へ出る。


その目には、涙が浮かんでいた。


「これが……これが……」


言葉にならない。

ただ、見つめる。


「もう一度……観れるなんて……」


ぽろり、と涙が落ちる。


「ありがとう……ありがとう……」


誰に向けた言葉かは、分からない。


空にか。

風にか。


それとも…


凪は、何も言わない。


ただ静かに、その光景を見ていた。

風が、やさしく吹く。

どこか、満たされたように。


役目を終えたかのように。


虹は、そこに在った。

「あなたは一体……」


風間が、ゆっくりと口を開く。


視線は、まっすぐに凪へ向けられていた。

疑いではない。


確信に近い、何か。


「私は——」


凪が言いかける。

その瞬間。

「わたしたちは!」

声が、割って入った。


「不思議研究部です!」


真尋だった。


一歩前に出て、胸を張る。


「え……?」

風間が少し目を瞬かせる。


「不思議なことが大好きで!」


「気になることは全部調べる部活なんです!」


勢いよく、言い切る。

凪は一瞬だけ、言葉を止めた。

その横顔を、ちらりと見る。

真尋は、まっすぐ前を見ていた。


少しだけ強い目で。

(……そういうことか)


凪は小さく息を吐く。


そして。


「……そういうことです」


静かに、続けた。


風間は二人を見比べる。


少しの沈黙。


やがて。


ふっと、力が抜けたように笑った。


「ふふ……」


「なるほどね」


それ以上は、聞かなかった。


聞かないことを、選んだように。


「不思議研究部、か」

空を見上げる。


まだ、虹は消えていない。


「いいわね」


「こういう不思議なら、いくらでも大歓迎よ」

風が、優しく吹く。


その場の空気が、少しだけ軽くなる。

真尋はほっとしたように、肩の力を抜いた。


「でしょ!」


にこっと笑う。

凪は何も言わない。


ただ、ほんの少しだけ。


真尋の方を見て


「……ありがとう」


誰にも聞こえないくらいの声で、呟いた。


風が、その言葉をさらっていく。

虹は、まだ空に架かっていた。

気づけば、空はすっかり明るくなっていた。


さっきまでの嵐が嘘のように。

虹も、いつの間にか薄れている。


「……あ」


真尋が、はっとしたように声を上げる。


「お昼ご飯!」

その声で、少しだけ現実に引き戻される。


外はまだ、びしょびしょだった。


地面も、石段も、濡れて光っている。


「中で食べよっか」


真尋はそう言うと、バスケットを開ける。


中から取り出したのは、レジャーシート。

手際よく、社の中に広げる。

その動きは、どこか慣れていた。


「はい、どうぞ!」

ぱん、と軽く叩いて整える。


凪はその様子を見て、静かに座る。


続いて風間も、少し遠慮しながら腰を下ろした。


「いいのかしら……」

「もちろんです!」

真尋はにこっと笑う。


「今日は特別です!」


そう言いながら、再びバスケットへ手を伸ばす。


次に取り出したのは——


サンドイッチ。


そして、小さなタッパー。


「じゃーん!」


蓋を開ける。


中には、色とりどりのおかず。


卵焼き。

たこさんウインナー。

かにさんウインナー。

ミートボール。

唐揚げ。


「……」


凪は一瞬、視線を止めた。


(朝も、これ作ってたよね)


「いっぱい作っちゃった!」


真尋は少し照れたように笑う。


「食べきれるかなって思ったけど……」


「よかったら、一緒にどうですか?」


風間の方へ向ける。


「あら……」


一瞬、驚いた顔。


でも、すぐに柔らかく微笑んだ。


「いただこうかしら」


「はい!」


真尋は嬉しそうに頷く。

サンドイッチを配る。


卵。

ツナ。

トマトとレタス。


どれも、丁寧に作られている。

凪もひとつ手に取る。


一口。


「……美味しい」


小さく呟く。


「ほんと!?」


ぱっと顔を輝かせる真尋。


「うん」

短い返事。

でも、それで十分だった。

風間も、ゆっくりと味わう。


「優しい味ね」


そう言って、少しだけ目を細めた。


社の中。


外では、まだ水滴が落ちている。


ぽた、ぽた、と。


その音を聞きながら。


三人は、静かに食事をする。


さっきまでの嵐も。

虹も。


まるで夢だったみたいに。


でも。


確かに、ここに残っている風が、そっと吹き抜ける。


今度は、やわらかく。


穏やかな風だった。

「これなら、いいお嫁さんになれるわよ」

風間が、にこやかに言う。


「……お嫁さん……」


真尋の動きが止まる。


次の瞬間。


「えへへ……」


頬を赤く染めて、視線を逸らす。


(お嫁さん……)


(誰の……?)


頭の中で、ぐるぐると何かが回り始める。


凪がその様子をちらりと見る。


そして。


「……お婿さんでしょ」


ぽつりと、言った。


「……え?」


真尋が固まる。

風間も、一瞬だけ表情を止めた。


「……ん?」


凪は首を傾げる。

二人の反応の意味が分からない。


沈黙。


数秒。


「……あらまぁ」


風間が、まじまじと真尋を見る。


上から下へ。

もう一度、見直す。


「もしかして……」


「男の子、なの?」


「きゃっ!」


真尋が慌ててスカートを押さえる。


「ち、違っ……!」

顔が一気に真っ赤になる。


「ちが、違くはないけど……!」


「えっと……その……!」


言葉がまとまらない。


風間は一瞬ぽかんとして

「ふふっ」


吹き出した。


「ごめんなさいねぇ」


「でも、可愛いから全然分からなかったわ」


「むしろ、女の子より可愛いくらい」


「そ、そんな……」


真尋は完全に顔を伏せる。

耳まで赤い。

凪は、その様子を見て。


「……別にいいんじゃない」


あっさりと言う。


「似合ってるし」


「……っ!」


真尋の肩がぴくっと動く。


ゆっくりと顔を上げる。


「……ほんと?」


「うん」


短い返事。


でも、迷いはない。

真尋は少しだけ黙って。


「……ありがと」

小さく呟いた。


風が、やわらかく吹く。


さっきまでの神秘的な空気とは違う。

どこか、くすぐったいような。

そんな、やさしい時間だった。


「そうだ!」


風間が、ぱんと手を叩く。


「お二人さん!」

にこやかに笑う。


「手伝ってくれたお礼と、ご飯のお礼もしたいし」


「うちにいらっしゃいな」


ポケットから、車の鍵を取り出して見せる。


「こっちに車、停めてあるから」


「帰りは駅まで送ってあげるわよ」


「はい!喜んで!」


間髪入れずに、真尋が返事をした。

凪はその勢いに少しだけ目を細める。


「……即答だね」


「だって楽しそうじゃん!」

にこっと笑う。


外へ出る。


地面は、まだ湿り気を帯びていた。


けれど、水はほとんど引いている。


落ち葉や枝は、きれいに流されていた。


まるで。

さっきの雨が、すべてを洗い流したかのように。


凪はふと、社の方を振り返る。

静かに佇むの社。


どこか——


(……喜んでるみたい)


そんな感覚が、よぎった。


「こっちよ」

風間に導かれ、少し奥へ進む。


登ってきた石段とは別に。

もうひとつの道。


その先には、小さな広場があった。


車が、数台停まっている。


「へぇ……」


こんな場所に、きちんとした駐車スペース。


生活の気配が、そこにはあった。


「さぁ、乗って」


風間が車のドアを開ける。


「わーい!わたし助手席!」


真尋が元気よく乗り込む。


「お願いします」


凪も軽く頭を下げて、後部座席へ。


エンジンがかかる。


静かな山の空気に、機械音が混ざる。


車はゆっくりと走り出した。


山道を抜けて。


ほんの10分ほどで、見覚えのある道に出る。


「意外と近いね」


「でしょ?」

真尋が振り返る。


さらに数分。


駅前を曲がり。

住宅の並ぶ道へ。


そして。


「ここよ」


車がゆっくりと止まる。


敷地の中。

広めの庭。


その奥にあったのは—


小さな一軒家。


可愛らしい、落ち着いた佇まい。


「わぁ……!」


真尋が目を輝かせる。


「可愛いお家!」


「ドールハウスみたい!」


思わずはしゃぐ。


風間は少し照れたように笑う。


「古いだけよ」


「でも、落ち着くでしょ?」


凪は黙ってその家を見る。


どこか、懐かしい空気。

風が、静かに吹き抜ける。


山の風とは違う。


もっと、やさしい風だった。

「テラスと客間、どちらがいいですか?」


風間が穏やかに尋ねる。

「んー……」

真尋は少し考えて。


「優雅にテラス!って気持ちもあるけど……」


ふらり、と体が揺れる。


「……室内で……ちょっと疲れちゃった……」


そのまま、力が抜けるように笑った。


「あらまぁ」


風間が優しく目を細める。


「ソファあるから、お昼寝しますか?」


「うん……少しだけ……」


家の中へ。


木の香りが、ほんのりと漂う。


どこか落ち着く、やわらかい空間。


真尋は案内されるまま、ソファへと倒れ込むように座る。


そのまま、ごろんと横になる。


「……ふぅ……」


数秒も経たないうちに。

呼吸がゆっくりになる。


寝息。


「……早いわねぇ」

風間がくすっと笑う。


奥からブランケットを持ってきて、そっとかける。

肩に触れないように。

やさしく。


「ふふふ……」

そのまま、そっと頭を撫でる。


「本当に可愛い子ですこと」


「元気で、すぐ疲れて」


「ぐっすり寝て……」


まるで、孫を見るような目だった。

凪は、その様子を少し離れたところから見ている。


静かな時間。

時計の音だけが、ゆっくりと流れる。


「……そうそう」


ふと思い出したように、風間が立ち上がる。


「お礼だったわね」


棚の引き出しを開ける。


中から取り出したのは——

少し厚みがある、書類用の封筒。


「これを、受け取ってほしいの」


凪に差し出す。


その瞬間。


凪の脳裏に、あの言葉がよぎる。


―「この社も、この土地も、あげちゃうわ」


「……これは」


封筒を見つめる。


重い。


ただの紙じゃない。


「まさか……」


ゆっくりと顔を上げる。


「権利書、ですか?」


風間は、驚かなかった。

ただ、静かに頷いた。


「ええ」


その声は、軽くなかった。


「正式なものよ」


「土地と社の管理権……全部まとめてあるわ」


凪の手の中の封筒が、少しだけ重く感じる。


「……どうして」


自然と、言葉がこぼれる。


「どうして、私に」


風間は、少しだけ目を細める。


そして——


窓の外を見る。


さっきまでいた山の方角。


「……あの場所ね」


ゆっくりと口を開く。


「ずっと、止まっていたのよ」


「時間も、風も、全部」


少し間を置いて。


「でも、今日」


凪を見る。

まっすぐに。


「動いた」


その一言に、確信があった。


「だから、分かったの」


「任せていい人が来たんだって」


静かな部屋。

寝息だけが、やさしく響く。


凪は、封筒を見つめたまま動かない。


受け取るということ。


それは——


ただの“お礼”ではない。


風が、窓の隙間からそっと入り込む。


まるで。


答えを、急かすように。

「もう一つ、理由があって……」


風間は、静かに言葉を続けた。


「私にはね」


少しだけ視線を落とす。

「子どもも、親も、親戚もいないの」


穏やかな声だった。


けれど、その中にあるものは軽くない。


「それに……」


ほんの少しだけ、間を置く。


「そんなに長くないわ」


凪の視線が、わずかに揺れる。


「……それは、どういう意味で」


風間は、少しだけ困ったように笑った。


「癌なの」

あまりにもあっさりとした言い方だった。


「治療はするわよ?」


「でも……」


窓の外を見る。


「そんなに長くは持たないと思ってるの」


部屋が、静かになる。

時計の音だけが、やけに大きく響く。


「……」

凪は、何も言わない。

言えない。


風間は、すぐに表情を少し明るくする。


「だからね」


封筒を、もう一度そっと差し出す。


「万が一があったとしても」


「あなた達なら、あげてもいいって思ったの」

まっすぐな言葉。


迷いはなかった。


「それに……」


少しだけ、優しく笑う。


「お願いもあるの」


凪の目を見る。


「治療の間」


「家と社に、風を通しに来てほしいの」


その言葉は、不思議だった。


掃除でも、管理でもなく。


“風を通す”。


「もちろん、交通費は出すわ!」


少しだけ、明るく言う。


けれど。


その奥にある本音は、分かる。


(……風を、絶やしたくないんだ)


凪は、ゆっくりと封筒を見つめる。

手の中の重み。


それは紙の重さじゃない。


誰かの時間。

誰かの願い。


そして——


役目。


そっと視線を横へ向ける。


ソファ。


真尋が、静かに眠っている。


何も知らずに。


穏やかな寝顔で。


凪は、小さく息を吐いた。


「……分かりました」


静かな声で言う。


「受け取ります」


風間の目が、わずかに見開かれる。


そして。


ゆっくりと、やわらかく笑った。


「ありがとう」


その一言は、軽くなかった。


風が、静かに部屋を通り抜ける。


今度は、どこか温かい風だった。

ふわり、と。


甘い香りが、部屋に広がる。


紅茶のやさしい香りと。

焼きたての、ふんわりとした甘さ。


その匂いに。


「んー……?」


ソファの上で、小さく身じろぎする影。


「……あまい匂い……」


真尋が、うっすらと目を開ける。


まだ眠そうなまま、くんくんと鼻を動かす。


「甘いの……」


一拍。


「ケーキ!」


がばっと起き上がる。


ブランケットがずり落ちる。


「あら、起きたのね」


風間が、キッチンの方から顔を出す。


「ちょうどいいところよ」


にこやかに笑う。


「お礼のシフォンケーキ、焼きあがったわ」


「わーい!」


ぱっと顔が明るくなる。


「甘いの大好き!」


「ケーキ!ケーキ!」


さっきまでのしおらしさはどこへやら。

完全にいつもの調子に戻っている。


凪は、その様子を見て。


ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。


「元気だね……」


「だってケーキだよ!?」


真尋は当然と言わんばかりに言い切る。


「世界が終わりかけてても食べるよ!」

「それはどうなんだろう……」

凪が小さく呟く。


くすり、と風間が笑う。


「ふふ、いいわねぇ」


「そのくらいの方が、きっと元気に生きられるわ」


キッチンから運ばれてくる皿。


ふんわりと膨らんだシフォンケーキ。


きれいに切り分けられている。


湯気の立つ紅茶も一緒に。


「はい、どうぞ」


テーブルに並べられる。


「いただきまーす!」


真尋はすぐに手を伸ばす。


一口。


「……!」


目を見開く。


「おいしい……!」


心からの声。


「ふわふわ……!」


もう一口。

また一口。


幸せそうに頬張る。


凪も静かに口に運ぶ。


「……優しい味」


ぽつりと呟く。


風間は、それを聞いて少しだけ微笑んだ。


「よかった」


その言葉は、ケーキだけに向けたものではないようだった。


窓の外。

やわらかな光。

さっきの嵐が、嘘のように。

穏やかな午後が、流れていた。


けれど。


凪の手元には、まだあの封筒がある。

その存在だけが。

この時間が、ただの“日常”ではないことを。

静かに、示していた。

「さて」


風間が軽く手を叩く。


「おやつも食べたし」


「駅まで送っていくわね」


「はーい!」


真尋が元気よく返事をする。


再び車に乗り込む三人。


行きとは違う、少しだけ静かな車内。

窓の外には、見慣れた道。


けれど。


どこか、少しだけ違って見えた。

やがて駅に到着する。

車を降りる。


「あと少ししたら、電車来るはずよ」


風間が時刻表を覗き込む。


「ほんとだ……」


ちょうどいい時間だった。

ホームへ上がると。

遠くから、電車の音が近づいてくる。


ガタン、ゴトン——


タイミングよく、滑り込んできた。


「じゃあ、またね」


風間が、やさしく手を振る。


「はい!」


真尋が、大きく手を振り返す。


「きっと、また遊びに来ます!」


その言葉に、風間は嬉しそうに目を細めた。


「ええ、待ってるわ」


凪も軽く一礼する。


「では、また」


短く、けれど丁寧に。


扉が開く。

二人は乗り込む。


振り返ると。


風間は、まだそこに立っていた。

小さくなっていく姿。


そして——


プシュー、と音を立てて。


ドアが閉まる。


電車が動き出す。

窓の外。

風間の姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。


その時。


ふと。


真尋が、小さく呟いた。


「……ねぇ」


「ん?」


凪が視線を向ける。


真尋は、少しだけ真剣な顔をしていた。


「今日さ」


一拍、間を置く。


「……なんか、不思議だったね」


その言葉は、軽いようでいて。

どこか、核心に触れていた。

凪は、すぐには答えなかった。


窓の外を見る。


流れていく景色。

そして、ほんの少しだけ。


「……そうだね」


静かに、答えた。


電車は、次の駅へ向かって進んでいく。

風が、車内をすり抜けた気がした。

電車の揺れが、一定のリズムを刻む。


ガタン、ゴトン。


窓の外の景色は、ゆっくりと流れていく。

しばらく、誰も口を開かなかった。


「……ねぇ」


ぽつりと、真尋が呟く。


「ん?」


凪が視線を向ける。

真尋は、窓の外を見たまま。


「風間さんの匂い……」


小さな声。


「匂い?」


「うん……」


返事はある。

けれど、その表情は——

沈んでいた。


さっきまでの明るさはない。

どこか、遠くを見ているような顔。


「……シュンとしてるね」


凪が静かに言う。

真尋は、少しだけ目を伏せる。


「……ねぇ」


もう一度、同じ言葉。


「何か……聞いてない?」


その声は。

確信に近かった。

凪は、一瞬だけ視線を逸らす。


そして——


「……うん」


短く、答えた。


それだけで、十分だった。

「……そっか」

真尋は、それ以上聞かなかった。

聞けなかった、のかもしれない。


指先を、ぎゅっと握る。


「……あの匂い」


小さく、震える声。


「何度も経験した」


「……死の匂いがした」


凪は、何も言わない。


言葉が見つからないわけじゃない。


ただ——


今は、違うと思った。


電車の音だけが響く。


ガタン、ゴトン。


気まずさとは、少し違う。


けれど、軽くもない沈黙。


共有された何かが。


二人の間に、確かにあった。


風が、わずかに揺れる。


窓の隙間からではない。


もっと、近いところで。


凪はそっと、目を閉じた。


(……分かるんだね)


その事実が。


少しだけ、嬉しくて。


少しだけ、怖かった。

「……連絡先、交換したから」


凪が、静かに切り出す。


「一緒に……お見舞い、行こうね」


ほんの少しだけ、言葉を選ぶように。


それでも、まっすぐに。


真尋は一瞬だけ目を丸くして。


すぐに、笑った。


「うん!」


その返事は、いつもの調子だったけれど。

どこか、少しだけ優しかった。


電車が減速する。


ガタン、ゴトン……と音が緩やかになる。


見慣れた景色が、窓の外に広がる。


「着いたね」


ドアが開く。


二人は、並んでホームへ降りる。


夕方の空気。


ほんのりと、温かい風が吹いていた。


駅のざわめき。


いつもの日常。


けれど。


今日という一日は——


少しだけ、違っていた。


不思議な出会い。


不思議な出来事。


そして。


少しだけ、重たい約束。


「……じゃあ」


真尋が立ち止まる。


「またね」

「うん」


短いやり取り。

それでも。


確かに、繋がっている。


二人は、それぞれの帰り道へと歩き出す。


背中越しに、同じ風を感じながら。


その日。


少しだけ世界が広がったことを。


まだ、うまく言葉にはできなかった。

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