愛はなぜ宗教になるのか
人間が何かに深く惹かれ、人生を捧げるプロセスは、本質的に宗教と同じ構造を有している。それは、理性が支配する現代において、私たちが「神(絶対的な価値)」と相まみえることを許された最後の聖域である。これは特定の人物に対する恋愛に限った話ではない。芸術、学問、仕事、あるいは己の信念。それらへ注がれる情熱――すべての愛は、この構造の変奏にほかならない。
あらゆる愛の始まりは、宗教における神秘体験に相当する。それは日常という地平の「最先端」で起こる、爆発的な認識の書き換えである。 脳内を駆け巡る高揚感は、対象が何であれ、それを神のごとき絶対的な存在へと仕立て上げる。この時、人は対象と自分が溶け合うような「錯覚」に陥り、既知の世界の外側へと押し広げられる。この押し広げる力こそが、人間の生命力を限界まで引き出し、自己を超越させる原動力となる。
しかし、神秘体験としての高揚は、その性質上、永続することはない。祭りの熱狂が去り、魔法が解け始めた時、私たちは愛というフェーズへと移行する。 愛とは、熱狂の残骸を日常へと繋ぎ止めるための「最後尾」の制度である。契約、日々の制作、あるいは終わりのない修練。これら生活に埋め込まれた枠組みは、いわば錯覚の尻拭いだ。衝動が霧散したあとの空白に対し、義務や慈しみ、あるいは積み上げた歴史という正当性を動員することで、かつての錯覚を愛という名の必然へと塗り替える。情熱を教義へと、初期衝動を戒律へと落とし込むことで、対象との関係性は永続的な形を得る。
かつて天命や運命という言葉で語られたあらゆる愛も、現代では効率やデータといった世俗化の波にさらされている。最短ルートで成果や快楽を求める合理性は、愛から魔法を奪い去った。 だが、すべてが計算可能になった果てに、必ず神秘主義への揺り戻しが訪れる。システムが提示する正解だけでは、空白を穴を傷を埋めることはできないからだ。人は何とも非効率で、根拠がなく、説明のつかない不合理な熱狂の中にこそ、生の実感があることを忘れている。
愛が宗教であるならば、私たちはその信仰に対して主体的な教祖であるべきだ。ただ恩恵を待つだけの信者としてではなく、自らの眼差しで対象を神格化し、ありふれた日常を神聖な物語へと書き換えていく。社会が規定する愛という既存の制度をただ借りるのではなく、自分と対象の間にしか通用しない、密教的な言語と意味を自ら創出すること。システムに回収されない「錯覚」を自ら設計し、その尻拭いすらも一つの芸術として引き受ける。その時、愛は単なる消費や執着を超え、不毛な現代を生き抜くための、”宗教”へと昇華されるのである。




