17しみっしみのおでん(1)
土日に凪沙との甘い旅行を堪能したカナコは、会社に出勤しても内心浮かれていた。
地に足がついていないというのは、こういうことだろう。
仕事はきっちりこなしたが、休憩する度に凪沙のことが思い浮かび、顔がほころぶのを止められない。
(しばらく凪沙の仕事が忙しくて会えないけど、隣に住んでいるんだもの。旅行の思い出だけで頑張れる……! とにかくニヤニヤするのを気を付けないと……)
そんな気持ちのままでいたのがいけなかったのだろう。
退勤する際に、後ろから来ていた気配に気づかなかった。
「渋谷さ~ん」
「え」
知っている声に驚いて振り向くと、会いたくない男がいた。
昨日の朝、いきなりメッセージを送ってきた日吉である。
「既読無視すらしない、未読無視かよ。さすがに傷つくなぁ」
そう言って、日吉はため息を吐いた。
彼は物腰柔らかく話すタイプだったと記憶している。先日の同期会でもそれは変わっていなかった。誰にでも愛想が良く、適度に面白いことを言い、気遣いが良く出来る。
しかし昔から、カナコにだけは違ったのを思い出す。
あからさまにむくれたり、思いっきり笑ったり、はしゃいだり、からかってきたり……。たぶんそれが彼の本来の姿であり、なぜかそれをカナコにだけ見せてきたのだ。
「営業お疲れ様です。それでは、お先に失礼します」
ツンと挨拶をして立ち去ろうとしたのに、目の前に回り込まれ、立ち塞がれた。
「もしかして俺、既にブロックされてる?」
「残念なことにしてないわよ。同期会のメンバーだから一応ね。でも」
カナコは肩に掛けていたバッグの持ち手を強く握りながら、日吉を睨んだ。
「また妙なこと言ってきたら、即ブロックするから」
「……困ってるんだよ」
目を伏せた日吉を見て、顔だけは本当に良い、としみじみ思う。
「助けて欲しいと思って連絡したんだ。渋谷じゃないとダメだから、頼むよ」
「どういうこと?」
理由が引っかかったので仕方なく聞くことにするが、ただ単にカナコに買い物に付き合ってほしいという、くだらないものだった。
「そんなの私じゃなくても、同期の男性たちと行けばいいじゃない。営業部の先輩でもいいでしょ。男同士で楽しく行ってきなよ」
「渋谷、俺にだけ冷たすぎない?」
「あっ、日吉さ~ん!」「日吉さん、やっと見つけた~!」
営業事務の女性たちの声が飛んできた。
「ほら呼んでるよ。とにかく私を誘わないで。じゃあね、お疲れ様」
「あっ、渋谷、待っ――」
呼び止められそうになったが、女性社員たちが日吉を取り囲んだので助かった。彼女らは、この後飲みに行こうと日吉を誘っている。
カナコはスタスタ歩いてオフィスのビルを出た。
(あー、本当にブロックしてやろうかな。でもそんなことしたら、同期会のメンバーに余計な気を遣わせちゃうか……、って、なんで私が悩まなくちゃいけないのよ)
とにかく無視するしかない。
(それにしても、私も覚えていなかったあんな昔の約束に、どうしてこだわっているんだろう。そもそも日吉って、私のことが苦手なんじゃなかったの?)
だからこそ、仲良くなってあと一歩という時に、カナコから離れたのではなかったのか。そして彼がカナコの前で自分をさらけ出してくるのも、カナコにどう思われてもいいからか、と思っていたのだが……。
「今さらなんなのよ……。あの頃、あんなに悩んでいた私が本当にかわいそうだわ」
日吉だけじゃない。透だってそうだ。
相手の気持ちなんておかまいなしに、自分の気持ちを押しつけてくる。
(その点、凪沙は……)
と、凪沙の笑顔を思い出した瞬間、胸がキューンと甘く鳴いた。
昨日、旅行から帰って夜に別れたばかりなのに、もう凪沙に会いたくてたまらない。
メッセージだけならいいよねと、駅に到着したカナコはスマホを取りだした。
凪沙のスマホにメッセージを送ると、帰宅後に返信が来た。
今すぐにでも会いたいけど、平日も土日も忙しすぎて無理だからつらい、というものだった。
「私もつらいよ~……。一瞬でもいいから、会えないかな。いや、見るだけでいいから……!」
日吉のことがあり、あんなにウキウキしていた心が、ずっとモヤモヤしているのだ。
――凪沙の顔をひと目でいいから見て、浄化されたい。チラッとその姿を拝みたい。
カナコはその気持ちに耐えられず、凪沙の帰りを待つことにした。
そして二十三時過ぎ。
食事やお風呂を済ませたカナコは、部屋のドアを開け放して、SNSを見たり、ネットで次のピクニック場所を探していた。
ふと顔を上げたその時。玄関ドアの向こうから足音が聞こえ、通り過ぎていく。
「凪沙だ……!」
ダッシュで玄関へ行くと、外で鍵を取り出す音が聞こえた。
そっとドアを開けて顔を出し、そこにいる愛しい人に声をかける。
「おかえり、凪沙」
と言ってから、やはり自分の行動はキモいのではと、ドアを閉めたくなる衝動に襲われた。
「カナコ!?」
驚いた凪沙が声を上げたので、カナコは慌てて手招きし、彼をこちらへ呼ぶ。
「凪沙、こっち来て」
「どうしたの?」
彼は鍵をポケットにしまって、こちらへ歩み寄った。夜も遅いので、外で立ち話は近所迷惑になる。
「ちょっとだけ、いい?」
「もちろんだよ」
驚きつつも、凪沙が笑った。
そして自分の玄関に彼を引き入れて、その顔を見上げる。
「待ち伏せなんてキモいことしてごめんね。どうしても顔が見たくて待ってたの、だから……うむっ!」
言い終わる前に、凪沙の胸に引き寄せられて、ぎゅぎゅーっと抱きしめられた。ほのかな彼の香水が鼻をくすぐる。
「キモいなんてことあるわけないじゃん。嬉しすぎるよ、俺も会いたくてたまらなかったから」
嬉しそうな凪沙の声が、カナコの心を温めてくれる。
(……待ってて良かった。凪沙の腕の中、本当に安心する……)
カナコも彼の背中に手を回して、ぎゅーっと抱きしめ返した。一瞬だけ会えればいいと思ってたのに、離れがたい。
しかし、お互い明日も仕事だ。特に凪沙は繁忙期だというので、これ以上引き留めるわけにはいかないだろう。
「ありがとう、凪沙。疲れてるのに、ごめんね。もう大丈夫」
「カナコに会えて疲れも吹っ飛んだよ。……あ、そうだ」




