13車中泊(1)
カナコはトイレに入り、洗面所の前に行く。幸い、他には誰もいないようだ。
(……帰りたい。でも、近くに駅はないからひとりじゃ無理だし、何より大倉さんに迷惑掛けてしまう。とにかく目立たないようにしてやり過ごそう……)
透に気づかれているのは明らかだが、こちらがアクションしなければ、たぶん何事も起きないだろう。お互い大人なのだから。
「……」
カナコは鏡の前で何度も、ゆっくり呼吸を整えた。そしてスマホを取り出して、メッセージアプリをひらく。
(前に大倉さんが送ってくれた写真を見て、心を落ち着けよう)
カナコのために送ってくれた美しい自然の風景。そして短い言葉ながらも、自分の楽しみを分けたいという彼の優しい気持ちが伝わるメッセージ……。
それらを目にすると、冷たくなっていた手のひらが、ほんのりと温かくなってきた。
(うん、落ち着いた。私のそばには大倉さんがいるんだから、大丈夫)
彼のとなりにいて、なるべく透とSANAには近寄らないようにして――。
「……よし、戻ろう」
カナコは冷たい水で手を洗い、鏡に映る自分に言い聞かせるように、口を引き結んだ。
どうにか自分を取り戻したカナコはトイレを出て、みんながいた場所に向かって歩き始める。
戻ったらすぐに大倉のそばに行きたいが、彼はまだ社員たちと一緒なのかもしれない。それなら透たちとは距離を取った場所に移動して、大倉の用事が終わるまで待とう。
(大丈夫、大丈夫……)
心の中でそう唱えながら木陰に入った瞬間、唐突に声を掛けられた。
「あ、いたいた! 透くんの元カノさんですよね?」
「え……」
立ち止まって声のしたほうを向くと、そこにはカナコを見つめるSANAと透がいた。
心臓が有り得ないほどバクバクし、カナコの頭が再び強く痛んでくる。
「はじめまして。SANAと言います。透くんからお話は聞いてました。ずーっと前から」
「……」
声も出せないでいるカナコとは対照的に、SANAは長い髪を揺らしながら笑みを浮かべて挨拶をした。
「私もトイレに行きたくなっちゃって、付いてきてくれた透くんから聞いたんです。あなたが元カノだって」
「え……」
この状況はなんなのだろう。
カナコも透も、今日は自分たちが呼ばれたわけではない。大倉やSANAに付いてきただけという立場の人間だ。
大倉が勤めている会社と、食品メーカーと、そして雑誌社。この三社が交わる仕事の場で、おかしな空気を作らないために、お互い接しないようにするのが常識だと思っていたのに。
透はわざわざSANAに余計なことを言って、こうしてカナコに声をかけるSANAを止めもせずにいる。……最低だ。
「そんな怖い顔しないでくださいよぉ。私、あなたに謝りたかったんですから」
無言でいたカナコに、SANAがクスッと笑いながら言った。
「……謝りたかった?」
「ええ、そうです。透くんを奪っちゃってごめんなさい、って」
言いながら、SANAはカナコへ見せつけるように、膨らんでいる下腹部をゆったりと撫でている。
「お前さぁ、なんでこんなところにいんの?」
SANAの後ろにいた透が、一歩前に出て言った。
別れる前と何一つ変わっていない、カナコを見下す口調だ。
「どうせ俺のSNSを未だにチェックしてんだろ? それでこんなところまで来て、俺のこと待ち伏せしてさぁ……。未練たらしいにも程があるだろ」
透は大げさに肩を揺らして、溜息を吐いた。
何を言っているのか意味がわからず、カナコは彼を凝視する。
「そんで俺に見せつけるために、あの『ナギサ』って男に金渡して、自分の彼氏になってくれって言ったのか? じゃなかったら、お前にああいうタイプの男ができるわけないもんなぁ。そんなんで俺が嫉妬すると思うお前って、ほんと哀れな奴……」
「……は?」
思わず、低い声を出してしまった。
「とにかく、こっちは迷惑なんだよ。見ての通り、俺はこんなに幸せなんだから邪魔しに来るなよ。いくら俺のことが、まだ好きだからってさぁ」




