112:勿来のパン屋さん
◇2040年2月@福島県岩木市 <矢吹天音&菅波凪斗>
菅波杏樹が「ムシ」になった後、菅波家とは、彼らの息子一家も含めて、矢吹家も樫村家も家族ぐるみの付き合いとなった。地上での移動の場合、矢吹家からも樫村家からも菅波家のある勿来までは、それなりの距離があるのだが、そんなのは関係ないとばかりに、菅波海斗の平屋建ての古い木造家屋を訪れては、女性は一緒に料理を作り、男達はサケを酌み交わす。
更に、矢吹涼子と樫村沙奈は、週末の昼間、それぞれの娘の天音と沙良を連れて、パン屋の飲食コーナーに集まっては、お茶をする関係になっていた。
実は、菅波凪斗と笙子が経営するパン屋には、かなり広めの飲食スペースが設置されていて、本職のパン屋と同様に地域の人気スポットとなっているのである。
元々パン屋の方は、手作り無添加であるのと、豊富な総菜パンのバラエティーが人気の秘訣だったのだが、そこに飲食コーナーの設置を勧めてくれたのは、常連客達だった。
周囲は山々に囲まれた長閑な田園地帯。敷地には充分な余裕があった事もあり、その飲食コーナーの為に普通の飲食店並みのスペースを確保するのは、比較的容易だった。
その結果、市街地からは離れているにも関わらず、わざわざ遠くから足を運んでくれる人達が増え、特に若い男女のカップル客が増えたのは嬉しい誤算だったそうだ。
「しかし、ここに来るといつも落ち着くわね」
「ここの造りって、山小屋風で洒落てますもんね」
「天音の言う通りだわ。それに、この辺りって、昔から喫茶店とかが少なかったじゃない。だからこそ、有名なコーヒーチェーンの店が進出してきた時は、異常な混雑だったりしたんだけど、前から私は、こういうお店をやれば流行るって思ってたのよ」
「私も涼子さんの言う通りだと思うんだけど、このハーブティーのバラエティーが豊富なのも良いわよね」
「ふふっ、そのハーブのほとんどは、自家製なんですよ。特に最近は、カモミールを増やしてるんです」
「なるほど。杏樹ちゃんの匂いですもんね」
「あの、こっちに凪斗さんまで来てしまって、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。僕はパン作りが専門ですから。接客の方は笙子の担当ですし、そっちも今日はバイトの子を多めに手配してるんで、全然、問題ないです」
「そうなの? 悪いわね」
「いやいや、沙良ちゃんに杏海の相手をしてもらうだけでも、うちは大助かりですから……」
今日も沙良は、店の奥で杏海に絵本を見せているのだそうだ。ほとんど耳が聞こえず、そのせいで喋る事ができない杏海だけど、何故か杏樹とだけは普通に意志の疎通が出来ていて、そこに今は沙良が加わったような感じなのだ。
沙良も「ムシ」になる前は難聴だったから、ひょっとすると、その事が影響しているのかもしれない。
店長の菅波凪斗は、その後もしばらくの間、涼子、沙奈、天音、杏樹との会話に付き合った後、「杏海の事で相談があるから」と、天音と杏樹だけを呼んだ。天音達が連れて行かれたのは、沙良と杏海がいる奥のリビングだった。それから、凪斗は杏海の面倒を杏樹に代わらせて、二人を子供部屋へ移動させた。
残された天音と沙良は、隣り合わせにソファーに座る。すると、向かい側に凪斗が腰を下ろした。
「ごめんね、君達だけを呼び出しちゃって」
「いや、別に構いません。杏樹ちゃんの事なんですよね?」
「ああ。こないだ、杏果さんと笙子の方から、杏樹のこれまでの事を話したって聞いてね。僕の方からも、杏樹に関する事を話しておきたいって思ったんだ……」
それから菅波凪斗は、姉の美帆と義兄の柴崎聖人の事、そして姪の杏樹の事を長々と語り出した。
★★★
菅波凪斗は、菅波海斗と杏果の二人目の子供として生を得た。二人の最初の子は、菅波美帆。彼女は凪斗よりも四つ年上で、小さい頃は凪斗にとって自慢の姉だった。
凪斗の家族は、皆、小柄だ。凪斗は百六十ニセンチだし、親父の海斗も同じくらい。美帆は母の杏果よりも少し小さくて、ギリギリ百五十センチあるって感じだ。
その姉は、生まれ付きの茶髪で色白。その上、手足がすらっと長くて小顔。その顔が芸能人並みに整っており、小学生の時から「可愛い」と評判だった。
中学に上がると、美帆はますます男子からちやほやされるようになり、それに連れてプライドが天井知らずに高くなって行った。その一方、茶髪なのが災いし、先生方の受けは良くなかった様子。だけど美帆は、「私が綺麗で人気者だから、先生に目を付けられるのは仕方が無いわね。まあ、有名税みたいなもんよ」と、あまり気にしていない感じだった。
そんな姉の美帆が高校に入学して、ようやく決まった彼氏と付き合い出した時は、正直、凪斗は少しホッとした。中学校の時の美帆は、告白こそ何度もされていたのに、付き合っても長続きしないパターンが続いていたからだ。
その姉の彼氏は、柴崎聖人という名前だった。あのプライドの高い姉と付き合っていられるんだから、本当に「聖人」みたいな人なんだろうと凪斗は思っていた。やがて、聖人は度々凪斗の家を訪れるようになり、凪斗も何度か顔を合わせる事ができた。その彼は思った通りにカッコ良い人だったけど、姉に負けず劣らずプライドが高そうだったのが気になった。それに、姉と一緒にいる時とかにも、時々貧乏ゆすりをしている事がある。『案外、気の短い人なのかも』と凪斗は思ったのだった。
そんな姉の美帆が高校三年生になってすぐの時、お腹に赤ちゃんがいると分かった事は、凪斗にとっても凄くショッキングな出来事だった。
当然、家中が大騒ぎ。しかも既に中絶が難しい時期に入っているらしく、美帆自身も「絶対に産むから」と言い出す始末。
今の時代、高校側は割と協力的で、妊娠イコール退学とはならないのが救いだった。ところが、妊娠が発覚した時点で美帆は悪阻に苦しめられており、既に学校に行けない状態だった。高校側は留年してでも卒業する事を勧めてくれたのだが、結局、美帆が「もう勉強は嫌」と言い出して、中退する事になってしまった。
その次に起こった問題は、結婚である。
とはいえ、こんなに悪阻が酷い状態で式を挙げるのは現実的でないし、その後も、お腹が目立ってしまって難しい。それに七月生まれの美帆に対して、そもそも聖人は早生まれの為に、未だに未成年。結婚が可能なのは、十八になってからだ。更に、新郎が高校生というのも体裁が悪い事もあって、式を挙げるかどうかは出産後に考える事になった。
ただし、入籍だけは、聖人が十八歳の誕生日を迎えると同時に済ませる事で、双方の家が合意。幸いにも、聖人と美帆は共に結婚の意志を固めており、その点で揉めなかった事は僥倖と言えた。
★★★
ところで、姉の美帆の妊娠が発覚した時点の凪斗はと言うと、中学二年生の非常にデリケートなタイミングにあった。つまり、思春期真っ盛りという事で、男女のあれこれに興味深々だった訳である。
姉の妊娠のゴタゴタがようやく収まり掛けた頃、弟の凪斗は、日に日に大きくなっていく姉のお腹を見ながら複雑な心境でいた。
いったい何をやったら、こんな風に妊娠したりするんだ? いや、そんなことは当然、知ってる。保健の授業でだって習ったし……。でも、この姉が、そんなことをやってただなんて、どうしたって信じられないっていうか……。
思春期の男の子としては、考えると眠れなくなることが一杯あって、なかなかに大変なのである。
ところが、秋も深まって、近くの裏山の木々が間もなく色付き出すといった頃、はち切れんばかりのお腹になった姉の美帆が急に産気づいた。その姉は、一晩中苦しんで、ようやく明け方に女の赤ちゃんを産んだという事だが、もちろん、病院にすら行っていない凪斗には、そこら辺の事は知る由もない。
凪斗が姉と生まれたばかりの姪っ子を見たのは、その翌日の夕方だった。その時の姉は疲れ切った顔をしており、赤ちゃんの方はというと、正直、あんまり可愛くはなかった。
だけど、それから一ヶ月もしないうちに、その赤ちゃんが凪斗にとっても、可愛くて仕方がない存在になったのだから不思議だ。それまでの凪斗の複雑な思いなんて、その杏樹の愛らしい姿を見る度に、どうだって良くなってしまったのだ。
たぶん、生意気な姉しかいなかった凪斗にとって、それだけ妹という存在に憧れていたんだろう。
それからの凪斗は、学校から帰ると必ず杏樹のいる部屋に駆け込んだ。眠っている事も多かったけど、起きていて機嫌の好い時は、まさに天使のような笑顔に出会う事ができる。すると、学校での嫌な出来事や次のテストについての不安なんかが、一瞬で吹き飛んでしまう。
だけど、時には姉の授乳の最中に出くわしてしまったりして、それなりにハラハラしたりもするのである。
「ふふっ、杏樹のオジサンは、エッチで困っちゃいますねえ」
「ちぇっ。姉ちゃんのおっぱいなんか見たって、興奮しないっつーの」
「あら、そうなの? そんあら、ちゃんと見てみなよ。今だけは、あたしでも結構、巨乳だと思わない?」
確かに、今まで貧乳だと思って居た姉の胸が、なんか凄く大きくなっていたのには驚いた。だけど、ちっともエロくないのって、何でなんだろう?
どうやら女には、まだまだ僕の知らない不思議な事が、いっぱいあるのは間違いない。
この時、中学二年生だった凪斗は、姉の美帆を少しだけ尊敬の眼差しで見ていたのだった。
END112
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
次話も菅波凪斗の閑話で、「凪斗と笙子」です。
できましたら、この後も、引き続き読んで頂けましたら幸いです。宜しくお願いします。
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(ジャンル:パニック)
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