111:杏樹の昔話
本日の二話目です。
◇2040年1月@福島県岩木市 <矢吹天音>
矢吹天音と樫村沙良が、改めて夜間に菅波杏樹の家を訪れた日の翌日の夕方、再び彼女達は一緒に居た。ただし、今夜の場所は杏樹の祖父、菅波海斗の家、つまり、古い木造平屋建ての大きな家の二十畳はありそうな広い座敷だった。そこに座卓を三つ並べて、その上に多くの料理が載せられていた。
要するに、今日は菅波家、矢吹家、樫村家の人達全員が集まっての宴会という訳だ。菅波家は杏樹の祖父母と叔父夫婦が一緒なので、大人達は八人、子供は天音、沙良、杏樹、杏海の四人で、計十二名だ。
最初は、こういった場での司会に慣れている樫村沙奈が、「茶髪の子の保護者会」についての説明を行い、次に天音と彼女の父の正史が、これまで「ムシ」達の周囲で起こった様々な事柄をかいつまんで説明して行った。
そのうち食事が終わると、男性四人が車座になって焼酎のお湯割りを飲み始め、女性四人と女の子四人は座卓の上を片付けて、ケーキを食べながらのお喋りが始まる。だけど、ケーキを食べ終えた時点で、沙良が杏海を連れて部屋の隅の方に行って、二人で積み木遊びを始めてしまった。
そして、六人が残った座卓では、菅波笙子が杏樹と彼女の両親との確執についての話を、長々と語り出したのである。
★★★
菅波杏樹の両親、菅波美帆と柴崎聖人は、高校の同級生。二人は地元の高校に入学し、しばらくして交際を始めたのだが、高三になってすぐに美帆の妊娠が発覚。既に中絶が難しい時期に差し掛かっており、聖人も同意の下で出産を決意。美帆は高校を中退し、その年の十月に杏樹を出産した。
その後、二人は聖人の高校卒業を待って入籍。二人は正式に夫婦となり、自分達で安アパートを借りて一緒に暮らし出す。
その頃の聖人は、工場で真面目に働いており、美帆もまた杏樹が一歳になる頃には、昼間だけ実家に娘を預けて、夫とは別の工場へパートに出ていた。当時の二人は、誰が見ても仲睦まじい夫婦だったのだ。
しかし、そんな家族にも、やがて変調が訪れる。直接のきっかけは、杏樹が強度の弱視だと判った事だった。だけど、その頃の聖人は、残業続きの工場勤務の大変さと人間関係の煩わしさが限界にきていた。一方の美帆もまた、家事の大変さと何も手伝ってくれない聖人に対する不満だとか、短時間とはいえ、パートでのオバサン達の余計なお節介によるイライラだとかが募っており、二人の関係がギクシャクし出したのだ。
当然、それは幼い杏樹にも伝わる訳で、ちっとも言う事を聞かずに駄々をこねる娘の事が、次第に煩わしくなってくる。つまりは悪循環なのだが、もはや娘の不機嫌の原因が自分にある事など思いもよらない彼らは、逆に幼い娘に当たり出す始末。そして、それが娘への育児放棄や虐待へと繋がるのに、それほど時間は掛からなかった。
杏樹にとって幸いだったのは、祖母の杏果が身近にいてくれた事だ。平日、美帆は工場のパートに出ている間、杏果の下に杏樹を預けていたし、土日のどちらかは、実家に里帰りしていた。そんな状態だったから、杏果には孫の杏樹の体調が手に取るように分かるのだ。
「最近、杏樹ちゃんの様子がおかしいんだけど、あんた、何か知らない?」
「別に普通だと思うよ。朝、ちゃんとご飯を食べなかったり、夜はピーピー泣いて煩いけど、前からそうだったから同じだと思う」
「あんたねえ……」
杏果は、美帆と聖人の不仲にも早い時期から気付いていた。それで、もっと夫に対して気遣いをするように美帆を促してもいたのだが、彼女には全く伝わらない。あまりの危機感の無さに、夫の海斗を通じて聖人に働き掛けてもらったのだが、逆に、それ以降は杏果の所に顔を出さなくなってしまった。
そうやって手をこまねいているうちに、聖人がアパートに帰らない事が頻発するようになり、杏樹が三歳の誕生日を迎える直前に、とうとう出て行ってしまう。
さすがに慌てた美帆は、夫の勤務先の工場に連絡を取ったのだが、何ヶ月か前に退職しているとの事。夫の実家に連絡しても、息子の居場所は分からないとの返事だった。
一ヶ月後、聖人は飲み屋で知り合った女と駆け落ちしていた事が判明。その女とは旅先でケンカ別れして、結局、彼は自分の実家に戻ったのだった。
ところが、その時点で、もはや二人の関係は冷え切っており、やり直しなど有り得ない状態だった。その為、二人は住んでいたアパートを解約。美帆は杏樹を連れて実家に戻った。
それから少しの間、柴崎聖人の実家も巻き込んでのゴタゴタが続き、最後は家庭裁判所にもつれ込む形で離婚が成立。杏樹の姓が母親の美帆と一緒に、「柴崎」から「菅波」へと変更になった。
実家に戻った美帆は、ちゃんとした仕事を探すも、中卒ではどこも雇ってはくれない。仕方なくスナックで働き出したのだが、どうやら彼女には合っていたようで、店で重宝されるようになる。
その一方、杏樹の世話はますます杏果任せになり、その内、一週間に一度も顔すら見ない程に関心を失くして行く。この頃になると、「あたし、子育てには向かないみたい」と公然と嘯くようになり、杏果も敢えて娘に子育てを強要しなくなって行く。
そして、杏樹が四歳になって少しした頃、とうとう美帆は一人で家を出て、スナックで知り合った男の下に行ってしまった。
それによって杏樹は、父親に続いて母親からも見捨てられたのである。
★★★
杏樹が両親に捨てられたのは、彼女が生まれつき強度の弱視だったからだった。共働きでも食べて行くのがやっとの収入しか無い彼らにとって、障碍を持つ子の存在は重すぎた。それは精神面だけでなく、金銭面でも大きな痛手だったのである。
そもそも二人の家計は、双方の実家からの援助なしに成り立たないような状態だったのだ。
とはいえ、そんな状態がいつまでも続かないのは、いくら勉強が苦手な二人にだって分かる。「最悪、障碍を持つ子の面倒を一生見なければならない」というプレッシャーが、まだ若い二人を絶望の淵に追い込んだであろう事は想像に難くない。元々精神的に未熟で知識も乏しい二人の前に、この試練はあまりに高い壁として立ちはだかったという訳だ。
そうして怯え切った二人は、本来、助け合うべきパートナーに自らの不安をぶつけ合い、お互いを貶し合ってしまう。挙句の果てに彼らが取った選択肢は、現実から目を逸らして、そこから逃げ出す事だったのである。
彼らが取った行為は、当然、非難されるべきものだが、この時代、このような結末を迎える若い夫婦は、割と普通に存在した。
その原因として、出生率の低下に歯止めを掛けたい政府が、結婚年齢の引き下げをガムシャラに進めようとした結果、若い世代の結婚を後押しする風潮を作り上げたからだと言われている。彼らは、マスコミを通じて、「まだ十代の男女が、結婚して幸せになる」という内容のアニメやドラマを流行らせたり、SNSを活用して、「十代での結婚はカッコ良い」だとか、「好きになったら、即結婚しちゃえ!」といった意見を吹聴する事で、若者達を扇動したというのだ。
ところが、そうしたブームに乗るのは、自己を強く持たない連中で、彼らは総じて学歴が低く低所得者層に該当する。つまり、「本来は結婚など出来る筈のない若者が、ブームに踊らされて結婚して無計画に子供を作った結果、経済的理由で破局へと向かう」といったパターンが、当然のように頻発した訳だ。
一方で最近の政府は、高止まりとなった高齢化と、それに伴う経済の衰退で深刻な財政難にあり、若年層への公的な援助など望むべくもない。
要するに、そうした若者達は、「縦割り行政の弊害による、政府の矛盾した政策の被害者」と言えなくもないのだが、それでも一番に悪いのは、踊らされた側の彼ら自身であるのは間違いない。
そして、最大の被害者は、「貧困家庭で親の虐待に遭った挙句、路頭に迷う事になった子供達」なのである。
とはいえ、菅波杏樹の場合、両親に見捨てられたと言っても、それほど酷い事にはならなかった。それは、生活面だけでなく精神面においても同様で、幼い杏樹が負った心の傷は、意外と軽いものだったのだ。
幼少時から杏樹の世話を焼いていたのは祖母の杏果であり、母親の美帆ではなかった。杏樹は祖父母の愛情を受けてすくすくと育ち、物心がついた時には既に両親はいなかった事で、自分が「親に見捨てられた」といった類の心の傷を負わなくて済んだ。
医師には「強度の弱視」と判定された杏樹ではあったが、そのハンディキャップは彼女にとって、それほど深刻ではなかった。その障碍が彼女の行動や学習の妨げとなる事は、ほとんど無かったからである。
そもそも杏樹は強度の弱視とはいえ、それほど周囲の人達の手を煩わせてはいない。祖母の杏果に「杏樹ちゃんは、まるで普通に目が見えてるみたいね」と言わせる程に、ごく自然に行動する事ができる。
つまり、本当を言うと、美帆と聖人は、杏樹の将来を悲観する必要など無かったのだが、彼女が初めての子であった事、二人とも医師の言った事を鵜呑みにし、杏樹の行動をきちんと見ようとはしなかった事で、彼らは誤解してしまった訳だ。
そうは言っても、祖母の杏果でさえ、杏樹の不思議な振舞いを、「この子は特別に勘の良い子なんだよ」で済ませてしまっており、杏樹に「何故、そんな事が出来るのか?」を、きちんと考える事は無かった。そして、杏樹が小学校に上がる時、単純に「文字が見えないから」と、彼女を特別クラスに入れる事に合意してしまう。
だけど、それは杏樹にとって、決して悪い事ではなかった。と言うのは、特別クラスに隔離されていた事で、イジメの被害に遭うことがほぼ皆無だったからである。
純粋な日本人にも関わらず金髪碧眼の杏樹は、イジメまでは行かずとも、普通は心ない子らの揶揄いの対象になるものだが、そういった事もほぼ皆無だった。そうでなくとも、見るからに美少女の杏樹の気を引きたい男子は大勢いる筈で、そうした子にちょっかいを出された事すら、ほとんど無い。杏樹が通う小学校の特別クラスの児童は、それだけ徹底して守られていた訳だ。
そういう訳で、物心がついた後の杏樹は、他人から理不尽な攻撃を受けるような経験をしないまま、健やかに成長してきたのである。
★★★
菅波杏果の話を聞いて天音が思ったのは、主に彼女のお陰で、杏樹が優しくて素直な子に育ったという事だ。普通、両親に見捨てられたような子は、どこか性格が歪んでいるものだが、そうした部分が杏樹には見られない。
後になって杏樹は、「癒やしのクイーン」と呼ばれて多くの「ムシ」達から慕われる事になるのだが、それも、きっと祖母の杏果の影響なんだろう。
更に、杏樹が変異を解いた時に残す光の粒とカモミールの香りが、身体のエネルギーを活性化して、病気やケガの治癒や体力の回復を早める効果がある事も、後世では彼女の優しさの表れとされている。
ともあれ、こうして天音は、高萩の樫村沙良のマンションとの中間点、そして自宅アパートから僅か十五分少々の距離に、また一人、信頼できる「ムシ」の仲間を得たのである。
END111
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
次話は、「勿来のパン屋さん」です。
できましたら、この後も、引き続き読んで頂けましたら幸いです。宜しくお願いします。
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