001:光のチョウ
その日、彼は大学のサークル仲間と共に、福島県岩木市の夢浜海岸を訪れていた。そこには長い長い砂浜があって、その端の海に突き出た丘の上に白い灯台が見える。夏の短い期間だけ海水浴場として賑わう夢浜海岸だが、今はもう秋。人の数はまばらだ。
と言っても、人が全くいない訳ではない。実際、家族連れが何組か見られるし、若い男女のカップルもちらほらと目に付く。だけど、一番に多いのは、彼や彼の仲間達と同じサーファー連中だった。
この岩木市の海岸は外海で、常に白波が立っているのがデフォルトなのだが、今日は台風が来ていることで特別に波が高い。台風が来ているとは言っても、遠い南海上の事なので、天気は多少雲が多くて風が強い程度。少なくとも今日一杯は、雨が降るとの予報はない。要するに、最高のサーフィン日和という事だ。
もっとも、目的がサーフィンであれば、千葉や茨城の海でも良いっていや良いんだろうが、今回もまた、「たまには遠くに足を延ばしたって良いじゃん」という最上級生の鶴の一声で決まってしまった。その彼は、「オレ、たまにはハワイアンズに行ってみたいんだよなあ」とも言っており、明日の日曜は、その知る人ぞ知る巨大アミューズメントプールに、朝から行く事になりそうだった。
ともあれ、今は午後十時になろうかといった時刻。彼は同じサークル内の彼女を連れて、そっと宿での飲み会を抜け出し、昼間いた海岸に再び来ていた。もちろん目的は、ロマンチックな夜の浜辺でエッチな事をする為である。
この計画を同期の友人に打ち明けた際、「夜中は、カップルを狙った不良連中が出没しそうだから、気を付けろ!」と忠告されていた。だけど彼は、『こんな田舎に、そんな連中がいるとは思えん』と一笑に付してしまった。
実は、その友人の忠告は正しくて、夏は海岸通りをバイクで爆走する若者グループが行き交うポイントだったりもするのだが、既に秋も深まった頃合いだったのが幸いした。ところが……。
「ねえ、何か寒くない?」
「風が強いんだから、しょうがねえだろ。これ貸してやっから、ちょっとだけ我慢してな」
「ふふっ、やせ我慢なのは、武藤くんの方なんじゃないの?」
「ほっとけ……。ううっ、寒っ!」
彼らがいたのは、砂浜に無造作に置かれたテトラポットの影。少しでも風を防ごうと思った訳だが、それでも完全に潮風が防げる訳もない。
そもそも、こんな風が強い日に彼女を呼び出すべきじゃなかったのだ。これじゃあ、全然、彼女の気を引く事なんて出来ないじゃないか!
夜になって波は更に高くなっており、ゴーという波の音がやたらと煩い。
彼が、「やっぱ、帰ろっか……」と言い出した時だった。突然、彼女が彼のシャツの袖を引っ張って、「武藤くん、あれって何だろうね?」と尋ねた。
彼女が示した方に目をやると、海上に銀色の光が見える。
「漁船とかじゃねえの?」
「私もそう思ったんだけど、どう見ても海面から浮かんで見えるんだよね。それに、なんか、こっちに来てない?」
「そういや、そうかも。てことは、ドローンだとか?」
「ドローンなら、あんなに光ってないと思うよ。あれ?」
「……?」
彼らの声は、そこで途切れてしまった。銀色の光が急に大きくなったかと思うと、それが不思議な形を取り始めたからだ。
それは、丸みを帯びた大きな翅だった。というか、巨大なチョウの形に見えた。だけど、翅の動きはゆっくりで、強風にも関わらず真っすぐに近付いて来る。
この状況は、マズくねえか?
彼は、急に怖くなった。本当は逃げるべきなんだろうけど、彼には逃げ切れる気がしない。隣の彼女はと言うと、腰が抜けて立ち上がれそうにない状態に見える。
そうこうするうちに巨大な「光のチョウ」は、どんどんと近付いて来る。最初は銀色に見えていた二対の翅は、近くで見ると薄い紫だった。外側に向かって黒の細い翅脈が無数に広がっており、翅の周囲は淡い光に包まれている。
やがて、テトラポットの手前、つまり、彼らのすぐ近くに背を向けて降り立った「光のチョウ」を見た彼は、更に身体を震わせることになった。光り輝く翅のサイズが、彼の予想を遥かに上回る程に巨大だったからだ。
翅を広げた状態の左右の長さ、確か「開長」とか言っただろうか? その長さが、十メートルくらいありそうだ。
だけど、彼を本当に驚かせたのは、その後だった。
目の前に降り立った「光のチョウ」は、ゆっくりと翅を前後に二回動かすと、急速に光を失って行く。すると、そこにはキラキラ光る銀粉が待っており、その中に人影が現れたのだ。
最初は、ぼんやりとしたシルエットが、徐々に女性の形を取り始める。たぶん、若い女だ。後ろから見た彼女は、肩に掛かるくらいの金髪だった。そのボリュームのある髪はクルクルとカールしていて、思わず息を飲む程に美しい。
上はゆったりサイズのパーカーで、下は紺のジャージ姿。背格好は、細身で思ったよりも小柄だ。
その時、一際強い風が吹いた。慌てて髪の毛を両手で押さえた彼女は、やはり寒いのか、身を屈めて耐えている様子。しばらくして風が弱まってから、おもむろに立ち上がった彼女は、サッと左右に目を走らせる。そして、再び徐々に光を纏い始めた。
華奢な身体全体が光に覆われた時、背中から紐状の突起が二本、勢いよく左右の斜め上空に伸びたかと思うと、クルっと丸くなって翅の輪郭を形作る。次の瞬間には、既に巨大な薄紫の翅が出来上がっていて、それを彼女は試すかのように、ゆっくりと前後に動かした。
すると、次第に身体が砂浜から浮がび上がる。その際、何故か砂が舞い上がったりはしない。彼女は、地上十五メートルくらいで数秒ホバリングした後、一気に夜空へと上って行った。
見る見るうちに小さくなって、遂には光の点になった後、砂浜に残されたのは光り輝く銀粉と、それから……。
「ねえ、武藤くん。これって、ラベンダーの香りじゃない?」
「ラベンダーって、確か、ハーブの……」
「そうよ」
どうやら、「光のチョウ」がいなくなった事で、ようやく彼女も再起動してくれたようだ。しかも、さっきまで怯えていた反動なのか、無駄に饒舌だったりする。
「でも、変ね。どこにもラベンダーなんて無い筈なのに、すっごく不思議」
「それを言ったら、さっきの出来事全部が不思議なんじゃないか?」
「ふふっ、そうかもね。ちょっと怖かったけど、でも、不思議な経験ができて、逆に、なんか得した気分だわ……。あ、そういや、スマホで動画とか撮っとけば良かったかも」
「仕方ねえだろ。あの状況で、スマホなんか操作できる奴なんて、普通いねえわ」
「そっか……。ううっ、寒い。そろそろ、宿に戻りましょうか?」
「そうだな」
あんな事があったのだ。彼も当初の目的なんて、もはやどうだって良くなっていた。
二人は立ち上がると、お互いに手を取り合って砂の上を歩き出す。
堤防の上に立った時、彼はチラッと振り返って海岸の方を見た。
「どうしたの、武藤くん?」
「あ、いや、何でもない」
海岸には、何も無い。
彼は、再び彼女の手を引いて歩きだす。
「そういや、さっきの女の子の顔、見たか?」
「えっ、さっきの女の子って?」
「さっき見た『光のチョウ』、女の子だったじゃん?」
「うーん、私的には、とても人間だとは思えなかったんだけどー」
「……まっ、それもそうだな」
「うん。天使だとか、妖精って感じなんじゃない?」
そんな会話を交わしながら、二人は海岸通りを横切って宿へと向かう。宿の所まで来た時、またもや彼が口を開いた。
「なあ、さっきの事、俺らだけの秘密にしねえか?」
「ふふっ、そんなの当然じゃん。話したって、誰も信じちゃくれないよ。頭おかしい子だって思われちゃう」
彼女の言葉に頷いた後、彼は彼女の手を引いて宿の中へと入って行く。
最後に彼の頭に浮かんだのは、ほんの一瞬だけ見た金髪少女の眉目秀麗な横顔だった。
END001
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
本日は、二話を続けて投稿させて頂きます。
できましたら、次話も引き続き宜しくお願いします。
尚、ここに登場する「福島県岩木市」および「夢浜海岸」は、架空の地名です。
★★★
もし、ご興味ありましたら、以下の別の作品も宜しくお願いします。
【本編完結】ロング・サマー・ホリディ ~戦争が身近になった世界で過ごした夏の四週間~
https://ncode.syosetu.com/n6201ht/




