戦時国際法を遵守するゴブリン
「くっ……」
薄暗い森の中、一人の女騎士が、腕を背中で縛られ地面に座らされていた。
女騎士の周囲には、緑の肌と尖った耳を持つ小柄なゴブリンたちが槍や剣などの軽武装で立っており、女騎士を監視している。
彼女は悔しそうな声を漏らす。
森の中にはゴブリンと人間の遺体があちこちに転がっており、魔法が使われたのか炎や氷の跡も残っている。だが、剣戟の声はもう聞こえない。
戦闘は完全に終結していた。
交易路の安全を確保するという名目で自らの領土を拡大するべく、魔族たちの支配する森へと攻め入った人間たちは、奇襲攻撃を仕掛けたゴブリン族によって瞬く間に壊走させられたのだ。戦闘を終えたゴブリンたちは、人間の残した荷車を漁って武器を鹵獲し、敵味方問わず倒れた兵士たちの遺体を回収している。
女騎士はその様子を眺めながら、唇を噛んだ。
美しく長い金髪を泥と血で汚し、月明かりを反射する銀の鎧をその身に纏った女騎士の姿は、捕虜に堕ちてなお高潔そのものだった。
しばらくして、三角帽と黒の軍服を着用した立派な身なりのゴブリンが現れる。
女騎士は深い青色の瞳で、そのゴブリンを睨みつけた。
「大佐、こちらが捕虜ですぜ」
女騎士を監視していた貧相な身なりのゴブリンが、立派な身なりのゴブリンへと報告した。
「そうか、ぐっふっふ」
立派な身なりのゴブリンは、下卑た笑いを浮かべながら女騎士へと近づく。
「大佐、そいつは強いですぜ。気を付けてくだせぇ。もしかしたら拘束を解いて襲ってくるかも知れねぇ」
「分かっておる、ぐっふっふ」
大佐と呼ばれたゴブリンはそう言うと、女騎士に向かい合った。
「くっ……。殺せ!」
女騎士は叫ぶ。
「ぐっふっふ」
ゴブリンは笑う。
「くっ……」
自分の運命を想像した女騎士は、少し怯む。
魔族に囚われた人間がどんな目に遭うのか、女騎士は幼い頃から様々な物語を通じて学んできた。
だが、彼女は高貴なる神聖騎士団の騎士だ。穢れたゴブリンに臆することなど許されない。女騎士はキッとゴブリンを睨みつけた。
「氏名、階級、生年月日、所属部隊を答えるんだ。ぐっふっふ」
「なっ! なぜそんなものを答える必要がある!」
女騎士は戸惑ったように言う。
「なぜ……? 戦時国際法で定められているからだ」
立派な身なりのゴブリンは、当然のことを語る口調で言う。
「?」
だが、女騎士は状況が飲み込めていない様子だった。
「大佐、人間は戦時国際法に未批准なんですぜ」
貧相な身なりのゴブリンが、そう助言した。
「なんだと! 追加議定書には未批准だと聞いたのだが……。そもそも戦時国際法自体に未批准だったのか……」
立派な身なりのゴブリンは、驚いた様子だった。
「そもそも大佐、人間は戦時国際法なんて守ったことないですぜ。つまり我々は……」
貧相な身なりのゴブリンは下品な笑いを浮かべ、女騎士に嫌な目線を送りながら言う。
「わ、私に何をする気だ!」
「我々は守らねばならないですぜ。批准しているんで」
「分かっておる」
立派な身なりのゴブリンは、咳払いをした。
「第三篇第一七条によれば、正当な回答をしなかった捕虜に対してはその権利の一部が制限されることになる。ただし、君が捕虜として正しく振舞うならば、我々は第二篇に従い君の身柄を確実に保護する義務を負う。衣食住はもちろん医療も受けることができる。また、第二部第五章に基づいて君が信仰の自由を奪われることもない。ただ……。君の場合は神聖騎士団の所属か」
「そうですぜ。あの鎧は神聖騎士団で採用されているものですぜ」
立派な身なりのゴブリンに対し、貧相な身なりのゴブリンは、どこからともなく取り出した書類をパラパラと眺めながら言う。
「この場合はどうするんだ? 宗教要員として扱うのか? それとも軍人として扱うのか?」
「まあ戦時国際法を杓子定規に解釈するのであれば軍人扱いですが、宗教要員としての権利も認めた方が良いと思いますぜ。後々に禍根を残すような扱いをすると面倒なことになりますぜ。それに、この女騎士はおそらくそれなりに立場のある人物であると思われるので、下手な扱いをすると外交問題に発展しかねませんぜ」
身なりの良いゴブリンに質問された貧相な身なりのゴブリンは、淡々と答えた。
「そうか。とりあえず必要な資料の作成を頼む」
「了解ですぜ。ただ向こうの身分証明書を確認」
「おい、私にも分かるように話せ」
女騎士は二人の話を遮って、そう言う。
態度は高潔そうなままだったが、その表情には混乱が見えた。
「君は質問に答える。そうすれば捕虜として扱われる。質問に答えない場合は君に捕虜として与えられる権限は制限されるが、最低限、人道的な扱いを受けることはできる。つまり拷問されたりとかはない。ぐっふっふ」
身なりの良いゴブリンは笑いながら言う。
「……つまりどういうことだ?」
「……」
ゴブリンは閉口する。
「君は殺されず、大切に扱われる。ぐっふっふ」
身なりの良いゴブリンは、乾いた笑いを浮かべながら言った。
「大切……? まさか!」
女騎士は、何かを悟ったように目を見開く。
「え?」
「くっ……、殺せ!」
「なんか初めに戻ったんだが!?」
「大佐、頑張ってくだせぇ」
ゴブリンと人間が分かり合えるようになるのは、まだ先らしい。
END