第3話 慟哭 5 ―立ち向かえるのは英雄だけだ―
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数時間前、勇気と麗子が乗る車は《輝ヶ丘の大木》が立つ山を走っていた。
「ここを左よねぇ」
「違うよ、母さん。右だよ……」
「あら、そうだったかしら?」
「そうだよ……何年通ってるんだ」
「そんな事言わないでぇ。だってママ、方向音痴じゃない」
山には分かれ道があり、その分かれ道を左に曲がれば大木の立つ高台へ行け、右に曲がれば勇気の父の墓がある十文字寺が建つ風見の山へと入れる。
息子に辟易と行く道を教えられた麗子はハンドルを右に切った。
そして、分かれ道を通ってから暫くすると、勇気と麗子はあるものを見付ける。
それは『検問中』と書かれた看板と、一台のパトカーと数人の警官達だった。
「こんなところで検問なんて珍しいわねぇ、何かあったのかしらぁ」
「事故か?」
そう口にしてみて勇気はすぐに気が付いた。『事故なのであれば、警官が行う仕事は"検問"ではないのではないか?』……と。
― じゃあ……なんだ?
勇気は首を傾げるが、その疑問の答えは、車を止めた後にすぐに判明した。
麗子が愛想の良い笑顔を浮かべて窓を開けると、まだ初々しさを残す若い警官が業務的な挨拶と共にチラシの様な紙を渡してきたのだ。
「昨日発生しました誘拐事件の重要参考人が現在逃走中なのですが、この人物に見覚えはありませんか?」
「あらら、誘拐事件ですか」
「誘拐……?」
麗子が手渡された紙はチラシではなく、手配書であった。
その手配書を勇気が覗くと、そこには顎が太くて目が細い、面長の男の似顔絵が描かれていた。
似顔絵の横には『逃走中!! 犯人逮捕にご協力お願いします。』と書かれているが、何故か『逃走中!!』の部分だけが赤字で丸ゴシック体のフォントを使っていて、書かれている文言が持つ緊張感とは真逆のポップさがあった――その歪さを不気味に思いながら、勇気は警官に問い掛ける。
「あの……もしかしてこの男、この山に逃げ込んだのですか?」
勇気は『何故こんな山の中で検問を行っているのか?』という疑問を得られた情報から推理してみたが、この推理は警官からすぐに否定された。
「いいえ、情報収集の為に輝ヶ丘の各地で検問を行っているだけですよ。ご安心してください」
そう言うと警官は手配書の隅を指差して「現在情報を募っていますので、何かありましたら、こちらの番号にお電話をお願いします」と告げて、車を進める許可を出した。
麗子は警官達に手を振った。それから車が発進されると勇気はダッシュボードに置かれた手配書に手を伸ばし、考え始める。
― 昨日の起こった誘拐事件……か。これは希望くんが巻き込まれた事件だよな。町内で一日に二件も誘拐事件が起こるなんて有り得ないし……という事は、この似顔絵の男は希望くんを誘拐した人物ってことか。しかし『逃走中!!』なんて、何でそんな事に……危険だな。一応、正義に知らせておこうか。この男に逆恨みでもされていたら襲われる可能性もあるからな
勇気は黒いコートからスマホを取り出した。が、すぐに思い出す。
― あっ……そうだった、アイツのスマホは壊れてるんだったな……
そして、勇気は左腕にはめた腕時計を見た。英雄に選ばれた者に与えられる文字盤の大きな腕時計である。
― こっちで連絡を取るしかないか。だが、母さんがいるからなぁ……母さんの前でこの腕時計を使う訳にはいかない。仕方がない、桃井に伝えてもらおうか……
結局勇気はスマホを開いた。
それから愛に送る文章を打ち始め、残り三文字になった時だった。
「おっ……と、な、何だ?」
突然、麗子がクラクションを鳴らしたのだ。
車が走る場所は、なだらかなカーブが多い輝ヶ丘の山では珍しい急カーブを曲がったばかりの所だと勇気は知っていた。『何事だ?』という思いでスマホから顔を上げて母の顔を見ると、何故だろう麗子の顔は蒼白になっていた。「あら……あらあら、ちょっと!」と取り乱した声も発している。
「母さん、どうした?」
と、問い掛けながら麗子が視線を向ける正面へと勇気が顔を向けた直後、
「止まってくださいぃぃーーー!!」
麗子が叫び、再びクラクションを鳴らした。
鋭く尖った警告音が勇気の耳から脳へと届いたのとほぼ同時、フロントガラスの向こうの景色が勇気の目にも映った――そこには男が居た。男は何を考えているのか、勇気達の車に向かって走って来ている。
「母さん! クラクションじゃない、ブレーキだ!! ブレーキ!!!」
男との距離はそう無い。『このままでは轢いてしまう』そう思った勇気は麗子に向かって叫ぶが、麗子は既にブレーキを踏んでいた。しかし車はすぐには止まれない。目の前に男が迫る。
この時、事は起こった――
男を轢いてしまう……と思われた瞬間、突然男は走るのを止めて、横振りに手を振ったのだ。
その手振りは力無く、軽く振った様にしか見えなかった。だが、ガタンッ!!! っと音が鳴り、車は大きく揺れた。
「うッ!!」
車内に居る勇気も同じだった、横から押された様な強い衝撃を感じ、勇気の体は激しく揺れた。麗子も同様だ。そして二人が衝撃を認識し、何が起こったのかを理解をするその前に、新たな衝撃が二人を襲った。
車の軌道が変わっていたのだ、林道の脇に設置されたガードレールに車は正面から衝突してしまった。
「うぅ……」
ガードレールにぶつかった事で衝撃が緩和されたのかエアバッグは作動されなかった。
勇気はダッシュボードに頭を強く打ち。鋭い痛みが稲妻かの様に走った。
「クッ……クソッ!!」
この痛みを感じた時、勇気の脳はやっと現状を理解するまでに追い付いた。男の登場からのガードレールに衝突するまでの全ては余りにも一瞬の出来事であり、勇気が一つを理解する前に次の事態が既に起こっていたせいだ。脳が現状を理解すると、同時に疑問も浮かんできた。
「あの男、どこかで……見たような……」
車が揺れたために警官から渡された手配書は足元に落ちていた。手配書を拾い上げ、書かれた似顔絵を睨み、勇気は「やはり……」と呟く。
「こいつか……だが、いったい何だ、あの男は、いや、あの力は……人間業ではないぞ」
男は単に手を振っただけの動作で車の軌道を変えさせた。新たな疑問が浮かぶも答えはわからないまま、勇気は手配書を握り潰し、母を見た。
頭を打ったせいで視界は揺れている。その中に傷付いた麗子の姿が映った。勇気は唇を噛み、シートベルトを外す。
「母さん……ちょっと待っていてくれ、俺はあの男を捕まえてくる――」
「誰を捕まえんだよ……」
「!!!」
背後から声がした。
勇気が咄嗟に振り向くと、車の軌道を変えた男がそこに居た。
「なぁ、この嫌な臭いはお前か?」
「な……ッ!!!」
男は車のドアを開き、車内を覗き込んでいた。
勇気は不思議に思った。『ドアのロックは掛けていた筈だ……』と。だが、この疑問の答えはすぐに出た。『男は片手を振っただけで車の軌道を変えられる男だ、ドアを壊すなんて容易なのだろう……』と。
「おい、この臭いはお前かって聞いてんだよ」
「臭い……何の話だ」
男は顔をしかめて聞いてくるが、勇気は意味が分からない。『臭い』なんて、勇気は感じていないからだ。
「それより、お前は一体何者だ――うッ!!」
「黙れ!! 質問をしているのは俺だ……臭いだよ、臭いッ!! 俺を苛つかせる臭いはお前かって聞いてんだよッ!!」
男は車内に腕を伸ばしてきた。
男の力は尋常ではない。腕を掴まれた勇気は、車外へと引き摺り出されてしまう。
「おい……答えろよ、この臭いの出所はお前なのかどうなんだよ!!」
男は鼻をひくひくと動かしながら、林道に倒れた勇気に向かって唾を飛ばす。
勇気は「何の話だか、俺には分からん!!」と怒鳴るが、胸倉を掴まれてしまう――男は無意識でなのか、それとも敢えての丁寧さなのか、勇気の胸倉を掴んだ手とは反対の手で自分が壊した車のドアを勢い良く閉めた。その力は強く、麗子が残された車はガタンッと音を立てて揺れ、ガードレールの先にある渓谷に向かって傾いていく。
「臭いだよ! 臭いッ! どうなんだ、答えろよッ!!」
「な、何を言っている!! ……離せ!!!」
勇気は掴まれた手から逃れようと抵抗するが、男の力は強い。英雄の力を持たぬ勇気では、男に対抗する事は不可能だった。
「何故分からない、この……人を苛つかせる嫌な臭いが!!」
「臭いなんて、俺には……」
「お前なんだろ!! お前じゃねぇのかよ!!」
男は勇気を立たせ、首筋に鼻を近付けた。
まるで犬かの様にニオイを嗅いでくる。
男の背は高い。180cmある勇気よりも更に5cmは高いだろう。男が首筋に鼻を近付けると、勇気の顔にも男のうなじが近付いた。香水だろう、むせ返る様な濃くて甘い匂いが鼻を突き、吐き気を呼んだ。
「チッ……」
舌打ちだ。男は突然、ゴミを投げ捨てる様な手付きで、勇気の胸倉から手を離した。
「なんだ……お前じゃねぇのかよ。お前、どちらかと謂うと昨日のクソガキみたいな臭いがするなぁ……じゃあ、一体誰なんだ!!」
「さっきから、何の話をしている――ッ!!」
地面に膝をついた勇気は男に言い返すも、遮られてしまう。
男が無言で勇気の顔面を蹴ったからだ。
「ごちゃごちゃ質問ばかりするな、これ以上俺を苛つかせるんじゃねぇ!! 俺は探してるんだよ、この大嫌いな臭いの出所を!!!」
更に男は、背中から倒れた勇気の顔面を踏みつけてくる。
「ク……ソッ……」
勇気は屈辱を感じた。男にしたいようにやられる無力な自分が悔しくて堪らなかった。
しかし、勝者はやはり敗者には目もくれないのか。勇気が屈辱を感じているとも知らずに、男は鼻をひくひくと動かしながら辺りを見回し始める。
「お前じゃないなら、じゃあ誰なんだよ ……ん?」
すると、男は何かに気が付いた顔をして勇気の顔から足を退かした。
「もしや……こっちか?」
男が視線を向けるのは最前に勇気達が通った急カーブだ。
「そうか、こっちか……こっちだったのか!!」
男は嬉しそうに目を細め、急カーブに向かって歩き始める。
「濃い……濃いぞ、これは確定だ! こっちだ、嫌な臭いの奴等が居るぞ!!」
「待て……待てよ……」
勇気は思う。『この男を逃がしてはならない』と。男の力は明らかに異常であった。男の行動もまた異常であり、野放しにして良い存在ではないと理解出来る。
勇気はふらつく足で立ち上がり、男を追い掛け始めた。
「フハハハハハハハッ!! 間違いない、間違いないぞ!! この臭いの奴等、全員纏めてぶち殺してやる!!」
男は高笑いを上げると走り始める。そのスピードは人間にしては常識外れな速さがあった。
車並みのスピードで、急カーブを駆け下りていく。
「あの男……やはり普通の人間じゃない……」
勇気は確信した。だが、傷付いた体では全うに走る事は困難だ。男とは正反対に勇気の走りは遅かった。それでも『男を野放しにしてはならない』という気持ちで勇気は足を回した。
頭を強く打ち、更に顔面を蹴られ、そして踏まれた。勇気の意識は朦朧としている。視界も霞み、目眩で揺れる。
気力だけで男を追い掛けるも、勇気が急カーブを下りると男の姿は既に無かった。
「あの男……何故、笑っている……」
遠くから聞こえる男の高笑いを目指し、勇気は足を踏み出す。
「何がそんなに可笑しいんだ……」
一歩踏み出す度に頭が激しく痛む。それでも勇気は止まらない。痛みに耐えながら必死に追い掛けた。
そして、
「……?」
男の声が何処かで止まった。遠退き続けていた笑い声が一歩踏み出す度に近くなっていく。
男の声に近付くと共に別の声も聞こえてくる。
それは複数の声。男を制止させようとしているのだろう、叫んでいる。
「フハハハハッ!! そうか、お前等の臭いだったのか!!」
「やめろっ!!」
「動くな!!」
「止まるんだ!!」
三回目に聞こえた声に勇気は聞き覚えがあった。
「この声は……あの人か」
それは、検問で出会った若い警官の声だった。
「やめろ! 大人しくしろ!!」
若い警官は感情を爆発させて怒鳴っている。
「あの男、わざわざ自分から警官達の所へ行ったのか……」
男が何処に居るのか、その答えは出た。
「そうか警官なら――」
勇気は一瞬『警官なら男を任せても大丈夫か』と考え、足を止めた。だが、すぐに自分自身に向かって首を振る。
「俺は馬鹿か……あの男は普通の人間じゃない、警官だって危険なのは変わらない! 俺が逃げる訳にはいかないだろ!」
未だに力を持てなくとも、勇気は『自分は英雄だ』という自負がある。
「奴に立ち向かえるのは……英雄だけだ!!」
勇気はふらつく体にスイッチを入れる様に己の脚を強く叩くと、再び走り出した。




