第3話 空が割れた日 2 ―亀裂……そして、震える心―
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「勇気くん?」
勇気の荒れた呼吸を聞いた愛は、瞼を開いて彼を見た。
「えっ……だ、大丈夫? どうしたの?」
勇気の顔は汗でびっしょりと濡れていた。
驚いた愛は勇気に向かって聞くが、勇気は答えない。ジャケットの袖で汗を拭い、厳めしい顔をして立ち上がる。
「桃井、立てるか?」
立ち上がった勇気は膝をつく愛に手を差し伸べた。
「う、うん」
その姿を見て、愛の中で謎が深まる。
『立てるか?』と手を差し伸ばす勇気の姿からは"精悍さ"しか感じられなかったからだ。何故勇気が叫んでいたのか、誰に向かって叫んでいたのか、現在の勇気の姿からは想像もつかない。
「どうしたの? 大丈夫なの?」
「あぁ、大丈夫だ。すまないな……少し取り乱してしまった。どうやら俺は幻覚を見ていたようだ」
勇気の力を借りて立ち上がりながら、もう一度愛が聞くと勇気は答えた。しかし、その答えは明確な答えとはいえないもので、愛は「幻覚……何それ?」と鸚鵡返しで聞くしかなかった。
「幻覚は幻覚だよ、そうとしか謂えないものだ……しかし、もう大丈夫だ。俺の心に"ヤツ"が取り憑く事はなかったからな」
「ヤツ? 取り憑く? だから、何それ??」
しつこく愛は聞くが、勇気は「細かい話はまた後にしよう」と返すだけ。
「どうやら"敵"は既に動き始めたらしい……俺達がお喋りしている暇はない」
そう言うと勇気は、最前に愛が下りてきた階段に近付いた。
階段のすぐ近くには非常ベルが設置されている。勇気は躊躇う事なくベルを鳴らした。
ビリリリリ……と甲高いベルが校内に響き渡る。
「桃井、今から皆を避難させるんだ。おそらく……いや、確実に、俺達以外にはまだ誰も今の状況を理解してる者はいない。急がないと、手遅れになる」
「あっ……そっか!」
愛は勇気の挙動の変化に戸惑っていたが、"やらねばならぬ事"を見失う彼女ではない。
「そうだね、みんなを避難させないとだ! それじゃあ、私達は二手に分かれた方が良いよね!」
戸惑いを捨てた愛が快活に答えると、勇気は「そうだな」と頷き、「桃井は下の階から頼む。俺は上の階から回って皆の避難を促す」と指示を出した。
この指示に対しても「うん、了解!」と愛は快活に答え、それから聞いた。
「それで、みんなを避難させた後は?」
「その答えは聞かなくても分かるだろ……向かうんだ。約束の場所に。輝ヶ丘の大木にな」
勇気は愛に腕時計を見せた。大きな文字盤を持つ腕時計を――
勇気は最上階まで駆け上がると教室内の生徒や教師に、または廊下の窓から空を見上げる者に避難を呼び掛け始めた。
「皆、避難しろ! 今すぐシェルターまで走るんだ! 説明をしている暇は無い! 死にたくなかったら走れ!!」
声を枯らす程の大声で避難を呼び掛ける勇気の姿を、多くの教師が意外な姿と捉えた。
勇気は誤解を受けやすい性質だ。愛の前ではよく笑う彼だが、親しくない人間からは『いつも冷静で、笑顔も見せず物静か。そしてどこか人嫌いな雰囲気のする奴だ』と誤解を受けている。
全ては人見知りなだけなのだが、この誤解、今日は功を奏した。
声を枯らす程の大声で叫ぶ勇気を見た一人の教師が思ったのだ。
『物静かな彼が大声で避難を呼び掛けている、これはただならぬ事態だぞ』と。
そして、教師は叫んだ。
「君たち、整列しなさい! 騒がないッ! 整列ッ!!」
轟音が鳴り響いたのは大防災訓練が始まる前の空き時間だった、大多数の生徒は光と轟音が消えると『いったい何だ?』と教室や廊下の窓から空を見上げていた。
そんな生徒達に教師は呼び掛けた。
更に、勇気に促されて危機を感じた教師は一人ではなかった。また別の教師も声を上げ始める。
「窓から離れなさい! クラスごとに分かれて整列して! 今からシェルターへ避難します! 先生の言うこと聞いて! そこ、笑わない!!」
大多数の生徒は訳の分からぬ轟音と光に、驚きと恐怖が綯い交ぜとなった表情を浮かべていた。だが、その中には――きっと"訳が分からなさ過ぎた"のだろう――轟音と光を『面白いもの』として捉えた生徒もいた。
しかし笑顔を浮かべていた生徒達も勇気の必死な呼び掛けと、それに同調した教師の声を聞いてやっと事態を把握した。
「え? 何? ヤバイやつ??」
「そうだよ、みんな! 先生達の言うこと聞いて!」
そして教師達があげた号令に協力し、共に避難を促す生徒も現れた。
――それは愛が避難を呼び掛けていた場所でも同じだった。
勇気と違って、愛の評判は良い。『優等生で真面目、しかも元気で明るい子』、上々な評判は人徳を生む、愛の呼び掛けにはすぐに賛同者が現れ、避難を呼び掛ける波は一斉に広がった。
勇気が生んだ波が最上階から下へ、愛が下層階で生んだ波がそれに加わった。
輝ヶ丘高校の生徒と教師は独自にシェルターへの避難に動き始めていった。
―――――
皆が避難に動き始めると勇気と愛は校庭に出た。そして校門に向かって走りながら空を見上げる。
「勇気くん!!」
「桃井!!」
見上げた空は一見すると朝から変わらぬ快晴が広がっていた。最前の光と轟音が嘘の様に思えた。
だが、
「あれか!!」
「うん!!」
空にはただ一点だけ、変化があった。
勇気と愛はその変化を見逃しはしない。
「『2月15日の17時、空が割れ、世界に破滅をもたらす王が現れる』……あの日、私達が約束を交わした日に、みんなで聞いたこの話……私、本当は今までずっと嘘であってほしいって祈り続けてた」
「俺もだ、"今日"の為の準備を進めながらも、結局は何事も起きずに明日を迎えたいと思っていた。だが、本当だったみたいだな」
勇気は拳を強く握った。空に生まれた"変化"を見詰める目付きは鋭く変わる。
空には奇妙な現象が起こっていた。
それは空の一部に浮かぶ、蜘蛛の巣状の不思議な模様。微かに、極々微かに、他の場所よりも少し色が薄いだけ、よく目を凝らさなければ分からないその模様が何かを、勇気と愛は分かっていた。
それは亀裂――
"今日"という日に何が起こるかを知らぬ普通の人々は『有り得ない』と言うだろう。
だが、本当なのだ。
空には亀裂があるのだ。
「王の出現を防ぐ為、俺達は"空が割れる兆候"が現れたその時に五人の力を合わせなければならない。空が割れてしまったら終わりだ……行くぞ、桃井!!」
「うん!!」
校庭を走り抜け、校門の前に立った勇気は長い手足を使って二メートル近い校門を勢い良く登った。
「桃井、さぁ!」
校門を乗り越えると、勇気はすぐに後ろを振り向く。
背の低い愛は勇気とは違い、校門を簡単には乗り越えられない。勇気は後ろを振り向くと校門の格子の間から手を入れ、よじ登ろうとする愛の体を下から押し上げてやった。
「勇気くん、ありがと!!」
「いや、それよりも桃井、ここから輝ヶ丘の大木まではどんなに急いでも十分以上はかかる。休んでいる暇はない、"今日"までちゃんと鍛えてきたか?」
「うん、勿論!!」
「そうか、心強いな!」
「ふふっ! そっちこそ!!」
校門を乗り越えた愛は勇気に向かって微笑んだ。
この時、愛は忘れていた。二回目の轟音が鳴り響いた時の勇気を。
瞼を瞑っていた愛には勇気に何が起きたのかは分からない。だが、声だけでも彼が動転していたと明らかだった。だがしかし、現在の勇気からは精悍さと頼もしさしか感じられない。だから愛は動転していた勇気を過去のものとして記憶の片隅に置いてきた。
そして、それは勇気も同じであった。
「さぁ、喋っている暇はない! 行くぞ、輝ヶ丘の大木に!!」
否、勇気は忘れてはいない。忘れようとしているだけ。自分自身に安心出来ていたから。
ー 俺は大丈夫だ……さっきの俺はどうかしていたんだ。大丈夫、いつもの自分でいれば良い。ただそれだけだ。俺は"今日"何が起こっても良いように、これまでずっと準備を進めてきたじゃないか。俺は英雄に選ばれたんだ。何も恐れる事はない。いや、英雄の俺が恐れを抱く筈がなかったんだ! 自分自身でいろ、やるべき事があるのだから! 幸いまだ時間はあるようだ。急いで大木に向かえば"空が割れる"その時までには間に合う。きっと今頃、黄島や緑川、"アイツ"だって大木に向かって走っている! 遅れる訳にはいかない、五人揃えば……俺達が五人が揃いさえすれば、"今日"は何も起きずに終われる。また明日を迎えられる。そしたらまた、皆で下らない話をしよう、なぁ、せい―――
「ん……なんだ?」
勇気の黙考は終わらされた。
ドドドドド………
大地が大きく揺れ始めたから。
「地震?」
愛が呟いた。
勇気は首を振る。
「いや……それだけではない! 桃井、よく聞け!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ………
何かが唸るような音が微かに聞こえた。
この音はすぐに強くなる。耳を凝らせと言われた愛が、音に対して意識を向け始めた時には凝らさなくても聞こえる程に。
「ヤバい……桃井!! 来る、来るぞ!!」
蜘蛛の巣状の亀裂を再び見上げた勇気の目は大きく開かれた。
まるで脈打つ様にドクン……ドクン……と、亀裂の奥で光が瞬き始めたからだ。
瞬く速さは脈を打つ度に速くなっていく。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
光を見る勇気の目は泳ぎ出す。
呼吸も乱れ始めた。心臓の鼓動は光の瞬きと同じく速くなっていく。
ー またかよ……どうしたんだ……どうなってしまったんだ俺は……
「ヤ……ヤバいぞ、桃井!! 行くぞ、さ……さぁ急ぐんだ!!」
愛を急かす勇気の声は震えていた。
震えは体にも現れる。手の震えは愛の目にも分かる程だった。
「ゆ……勇気くん? だいじょ――」
「何をしているんだ!!! は……早く!! 走るんだよ!!」
勇気は我を忘れ、震える手で愛の手を強引に掴んだ。
「う……うん!! あ、ちょっと勇気くん、ま……待ってっ!」
愛を掴む力は自分勝手に強く、勇気の走りは愛のペースも考えずに速い。そのせいで愛は足がもつれ転びそうになる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
愛が転びそうになっても勇気は気付かなかった。大粒の汗が額に吹き出て、目が血走る。
「はぁ……はぁ……はぁ………何ッ!!」
血走る視界の隅に、再び現れ始めた。
「嘘だ……またか……またなのか……」
それは"恐怖"、煙の様に浮遊する"闇の塊"。
「何で……何でだよ……」
"恐怖"が現れたと知ると、勇気は、一粒の、たった一粒の涙を流した。
その涙が頬へと落ちた時、再び、光が町を包み、轟音が鳴り響いた。




