第1話 約束の日は前途多難 11 ―今だッッ!!―
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リュックの中のタマゴは息を殺して待っていた。
リーダー格の男が本性を露わにした時に少年は言った。『まだだ……まだ動くな』と。
だからタマゴは待ち続ける、少年の合図を。『今だッッ!!』という合図を。
―――――
「ねぇ、ちょっとお兄さん、この部屋寒くない?」
少年は咄嗟に喋り出した。
「はぁ?」
「俺、凍えちゃいそうだよ! 暖房効いてるの? ウォーって音してるけどコレ壊れてんじゃないの?」
喋りながら考える、『これからどうするか?』と。
「おいッ! 何勝手に喋ってんだッ! 黙ってろよッ!!」
少年のヘラヘラとした態度が癪に触ったのか、ボンはギリギリと歯軋りをする様な表情で少年の胸ぐらを掴んだ。
「あぁー! ちょっ……ちょっと待って! 寒いって言ってるだけじゃん!」
「なんだよお前急にッ! うッせーなッ!」
「ちょ、ちょっと待ってって殴らないで! ほらほら、よく見てよ! 俺ってさ、よく見ると可愛い顔してない?」
少年は首をぐいと前に出して、胸ぐらを掴むボンに自分の顔を近付けた。
「はぁあ? なんだ急にッ!!」
「売れるところには売れると思うんだよな~! これ以上、痣を作っちゃったら台無しじゃない? あっ……それに、勝手したら兄貴が黙ってないんでしょ?」
「おい……オイオイオイッ! 黙ってろって言ってるだろッ!」
少年の挑発はボンの逆鱗に触れた。
ボンは胸ぐらを掴んだ手はそのままに「兄貴なんか関係あっかよッ!!」と、もう片方の手を振り上げる。
「うわっ!!!」
ボスッ………
振り下ろされた拳は、乾いた音を立ててソファの背もたれに沈んだ――顔面目掛けて飛んできた拳を少年が咄嗟に避けたのだ。
「テメェッ! なに避けてんだよッ!」
「うわっ……とととと、怒んないでって! ……へへっ!」
「何を笑ってんだッ!」
「やっぱりねっと思って!」
「あぁ? 何がだよッ!」
少年は笑みを浮かべたまま、激昂するボンにこう言う――
「やっぱりボンさん、あの兄貴ってのに不満タラタラなんだ……あっ! ちょっと待って!」
鬼の形相のボンが再び殴りかかろうとしていると察した少年は急いで止める。そして、
「取り引きしよう! 取り引き! だから殴んないで!」
「あぁ?!」
「だ・か・ら、取り引きですよ! 取り引きっ! お金っ! 俺、自転車に隠してるんすよ! さっき、タバコも買えないって言ってたよね? 何十万……ってのは無いけど、数万ちょっとなら持ってるんだ! 嘘じゃないですよ、こう見えても旅人なんで何かあったときの為にって隠し持ってるんだよ! ボンさん達、兄貴に大分虐げられてますよね? ちゃんとお金貰えてます? 数万円じゃ少ないかもしれないけど、でも俺の金、まだ兄貴は気付いてないっす! もし兄貴に見付かったら、また取られちゃいますよ! 良いんすか? 兄貴が気付くその前に……ね?」
少年はボンに止められぬよう、矢継ぎ早に話した。
『ね?』と投げかけられて、ボンはゴクリと唾を飲み込んだ――この仕草から見るに少年の誘いはボンにとっては禁断の果実と同じなのだろう。"手を出してはいけないモノ"と分かっているのだ。
「なぁ……ボン、ねぇ、ボン?」
「なんだよ……」
話し掛けてきたチョウの顔をボンは見ない。額に深い皺を寄せて、少年を睨み続ける。
「ねぇ……この誘い乗っちゃおうよぉ、俺、お金欲しいよぉ」
子供が我儘を言う様にチョウは言った。
リーダー格の男に虐げられているのはチョウも同じだ。ボンにとっての禁断の果実はチョウにとっても同じもの。
「チョウ……黙れ、静かにしろ……」
そんなチョウに漸くボンは視線を向けた。が、チョウを一睨みするとボンは少年の耳に顔を近付け、囁く。
「ソレ……どこにあるんだよ」
――"手を出してはいけないモノ"、ソレは裏を返せば、"手を出したくて仕方がないモノ"でもある。少年の誘いにボンは乗ってきた。
「兄貴のトラックの荷台に俺の自転車が積まれてます。それの後方に左右に二つ、サイドバックがあります。その中です。確か、右の方に入れたかな……」
少年の声はボンに合わせて囁く形だった。
言い終わると少年の喉もゴクリと鳴る。
「なるほど、分かった……おい、チョウ」
少年が答えるとボンは顔を上げた。そして、チョウの顔を再び睨む。
「おい……チョウ、ボーッとすんな」
「へっ?」
「へっ……じゃねぇ、金だよ、金が欲しいんだろ? 兄貴のトラックの荷台にあるコイツの自転車の後ろ、サイドバッグの中だ、分かったか」
「あ……う、うん。そっか」
チョウはボンの言葉の意味を本当に理解したのだろうか。鼻の下を伸ばした間抜けな顔で返事をしただけ。動こうとしない。
「馬鹿野郎ッ……お前は本当に馬鹿だなッ! 行けッ! 取ってこいって言ってんだよッ!」
ボンは殴る様な仕草でチョウの右斜め後ろにある扉を指差した。その扉は工場の内部に繋がる錆びついた扉ではない。部屋の右方にあるもう一つの扉だ。
「あっ……そっか! う……うん!」
薄く黄ばんだ白い扉を指差され、チョウはやっと理解した様子。長い手足を車輪の様に振り回して扉に近付くと内鍵を回して外に飛び出した。カン、カンと階段を降りていく音が聞こえ、その音はすぐに遠退いていく――そして、室内にはボンと少年が残された。
「本当なんだろうな?」
ボンは少年の胸ぐらから手を離した。
少年の頭はソファの上へと落ちる。
「はい……」と少年は頷く。その顔からは笑みは消えた。逆に暗く、額には玉の様な汗が吹き出ている。汗は額だけじゃない。縛られた手も、靴下の中も濡らしていた。嘘なのだ、自転車に金なぞ入れていないのだ。
『のるかそるか……』と少年は考えた。『ボンとチョウのどちらか一方と二人っきりになれないか……』と。
相手はどちらでも良い、それは天に任せるしかなかった。どちらにすれば良いのかの答えを求めたくても、その時間はボンに話し掛けられた事で失ってしまった。『兎に角、どちらか一方と二人っきりになる為に男達を誘導する』、それが少年が出せた精一杯の答えであり、いま彼が出来る精一杯の行動だった。男達を誘導する為の材料は少なかった。そこで鍵になったのがボンのリーダー格の男への怒りだった。『その怒りを爆発させ、ボンかチョウの欲望を刺激し、どちらか一方と二人になる切っ掛けを作る』、少年はそう考え、言葉を紡いだ。
考えながらで咄嗟に喋り始めたにしては思う様に上手く事が進んだ。
作戦成功の安堵と共に、少年の体には一気に汗が吹き出ていた。
「で……取り引きってなんだよ?」
全身を濡らした少年にボンが聞いてきた。
ボンは神経質そうに下唇を噛みながら、チョウの様子が気になるのか外へと繋がる扉を見ている。
「えっと――」
少年の視線はボンからリュックがある方へと移る。
リュックと少年との間には四つ足のテーブルとボンが居る。特にボンが邪魔をしてリュック自体は今は見えない。
が、少年は友達の存在をボンの向こうに確実に感じていた。リュックの中に居る、友達の存在を。
「――俺のリュック、俺のリュックの中に入ってる物を持ってきてもらえないっすか?」
「ん? リュックの中? 何だ、それだけか?」
「はい……」と、少年は頷いた。
「俺の大事なものが入ってるんです。近くにいてくれればとっても心強くって。持ってきてもらえないっすか?」
「なんだ、そんなのかッ。逃がしてくれとか言うのかと思ったッ。まぁ言われたら流石に断るつもりだったがな。その程度なら、あぁ……分かった。ちょっと待ってろッ」
『お安いご用だ』とでも言う様に、ボンは鼻を鳴してリュックに向かって歩き出した。
テーブルを回りリュックの真横に立ったボンは屈み込む。少年の目にはチクチクと毛が伸び始めているボンの頭頂部がよく見えた。
リュックは左側だけが開き、半開きの状態だ。その中をボンは覗き込んだ。
だが……
「おい、なんだよこれッ? この白いタマゴみたいのか? これなら無理だよ、デカ過ぎる、こんなの渡したら兄貴にバレちまうッ!」
リュックの中をチラリと覗いたボンはタマゴの姿を見るとすぐに頭を上げた。
「あ……」
少年は吐息を漏らしかける。が、すぐに次の手に出る。
「その下です! そのタマゴみたいなのの下にあるんです!」
「この下?」
「はい! 持ち上げてみて下さい」
「はぁ……仕方ねぇなぁ……」
ボンは面倒臭そうに再び屈み込むと、ファスナーの右側の引き手を取ってリュックを全開にした。
それからリュックの中に両手を突っ込む。
薄い芝生の頭頂部が再び少年に向く。
この時だ、少年は大きく息を吸い込み――
「今だッッ!!」
第1話『約束の日は前途多難』 完