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作者: 白蛇奮迅

 無が有を吐き出した、その先端から無が有へと逆流する。両者の対決は、ほぼ一瞬で決着がついた。意識的に発生した白い光は、黒に押し戻され。黒を分解しながら進んできた光も、やがて自壊し霧散した。異変は訪れた直後だけだったが、威力としては申し分ない。周囲の大気を余波で吹き散らした一点を中心にして、床のそこかしこに亀裂が走る。

 つまり、それだけだ。部屋が破壊される様子もなければ、人が傷つく様子もない。ただ周囲の床に傷が入っただけ。そしてそれは、無の侵食がそこで終わったことを意味していた。光を押し戻された有は、しかしそこで終わりはしなかった。その身を再び光へと戻し、元来た道を引き返していく。

 そうして、光は消えた。後には、何も残らない。白と黒の入り混じった空間も元通りになり、そこにはもう何の痕跡も見出せない。

 その空間の中央で、黒い闇と白い光がぶつかって消えた場所。そこに、もぞもぞと蠢くものがあった。

もぞもぞという動きは見る間に大きくなり、体を起こすところまで辿り着く。その動きによって、闇の一部がばさりとめくれ上がった。

 その中には、ひとつの人影があった。かなりの長身だ。身長は二メートル近くあるだろう。だがそれ以上に目につくのがその体躯だ。肉のつかないところはとことん肉が付いていない体形で、その度合いは極端なものだった。手足は細く、肉と皮の間にはわずかの隙間もない。肩幅も狭く、肌の色も白いというより青白い。長い髪が垂れて顔の半分近くを覆っているが、隙間から見える顔立ちは女を思わせるものだった。その人影の全身は、黒と白の二色で塗り分けられた服に包まれている。それはまるで影を人の形に切り取ったかのようでもあり、あるいは闇を固めただけのようにも見えた。

 人影は、ゆっくりと辺りを見回した。そこは、白と黒に塗り分けられた空間だった。白い床と黒い壁は遠近感が狂わされるほどにまで続いており、天井に至っては闇に溶けている。

 人影は、その空間の中にいた。そして彼はその景色を目にして、ぽつりと呟く。それは彼の地声だったが、男とも女ともつかない奇妙な響きをしていた。だが少なくともそれは日本語ではなかったし、まして英語や独逸語でもなかった。彼が口にしたのは、この地方で用いられる言語のひとつだ。聞き取る分には他愛ないが、発音が非常に難しい方言である。少なくとも英語や独逸語以上に聞き取りにくいその発音を、彼は簡略ながらも流暢なものへと変えていた。ここが未知の世界ではない限り、それはこの世界での彼の母国語だ。

 そして、その言語で彼は呟く。それは、彼の名だ。そして、彼は思う。ああ、またか、と。

 彼は、夢を見ているのだ。それも、同じ内容の夢を。その夢の中で、彼はいつも同じ場所にいる。今のように、見渡す限りの白と黒の空間だ。床と壁の区別はなく、天井と地平線の区別もない。

その景色は、彼の記憶の中に深く根を下ろしたものだった。

 それは、彼がかつていた世界の記憶だ。だがその記憶を、彼は夢の中にしか持ち出すことができない。現実の彼はその記憶を失っているからだ。いや、それすらも正確ではない。彼には過去の記憶がない。自分を自分と規定する過去を持たない。過去だけでなく、今現在も彼は記憶を何も持っていなかった。自分が何者なのかも分からないまま、彼はこの世界を流離っていた。

 この夢を見始めたのは、いつからだっただろうか。もう、はっきりと思い出すこともできないほど昔からだ。それは彼にとっての日常であり、もはや疑問に思うこともない。ただ、ひとつだけを除いては。彼は、いつも待っている。ただ独りで、目覚めが訪れるのを待っている。だがその目覚めが、いつ訪れるのかも彼には分からない。この夢の中では、時間は意味を持たないからだ。だから彼は、夢の終わりを待ち続ける。そして、待ち続ける。夢の終わりを。あるいは、夢の続きを。

 朝の光が差し込む部屋の中で、彼はゆっくりと目を開いた。カーテンの隙間から差し込んでくる朝の光に、天井の照明は点いていない。枕元の時計に目をやると、まだ七時になったばかりだった。今日は平日だが、仕事があるわけではない。別にいつまで寝ていることにも支障はないのだが、この時刻に起きることが彼の習慣になっている。目が覚めてからゆっくりと寝返りを打ち、光に背を向ける。その姿勢のままで、彼はしばらくの間夢のことを思い返していた。

 彼は、いつも同じ夢を見てきた。それは夢と呼ぶにはあまりにも長く、そしてあまりにも現実感の伴ったものだった。夢の舞台は見渡す限りの白と黒の空間。そしてその空間には、一人の人間が登場するのだ。彼はその人間を、ずっと以前から知っているような気がした。見知った相手であるはずなのに、はっきりと思い出すことができない。夢の中の彼は、いつもその人物に対して強い違和感を覚えていた。その夢を見るたび、彼は思う。自分はこの場所をよく知っているはずだと。そこには忘れ得ぬほど深い関わりがあったはずだと。しかし、それがどのような関わりだったのか。彼はどうしても思い出すことができない。

 夢はいつも同じところで終わる。その夢の世界において、彼はいつも独りだ。どれほど足搔いても、彼の周りには常に誰もいない。孤独な夢の中で彼はいつも、待ち続ける。やがて訪れるはずの目覚めを、ただじっと待つ。だが、その日は訪れることがない。目覚めたいと願いながら、目覚める日は永遠に来ない。そんな夢を、彼は見続けてきた。

 その夢を見始めたのは、いつの頃からだっただろうか。もうはっきりと思い出すこともできないほど昔から、彼はそんな夢を見続けてきた。そして、そんな夢を見続けることに疑問を抱くこともなかった。彼には過去がない。いや、過去の記憶がないと言うべきか。彼は今現在自分が置かれている状況を、生まれたときからここにいたのだと考えることに何の疑問も抱いてこなかった。まるで脳に刻まれた本能であるかのように、彼はそう信じていた。

 彼には自分の年齢すら分からないが、多分十八歳前後だろうと考えている。自分がいつどこで生まれ、どうしてこの年齢まで生きてきたのかはまるで分からない。だが彼の記憶の中の最後の光景は、確か十歳になるかならないかという頃のことだ。

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