行間の「彼女」
傘を忘れて困っていたところへ、雨宿りにと入った町の本屋で見つけた一冊のハイネ詩集。何の気なしにめくったその中にいた「彼女」――ちょっと昔にはやった、白いビキニ姿が麗しいソバージュヘアのモデル写真入りの販促しおり――に出会って以来、講義終わりの僕はカフェによるでもなく、ラーメンをすするでもなく、「彼女」見たさにその本屋へと足しげく通っていた。
不思議なことに、しおりに刷られた版元の名前で調べてみても、同じ画像や、あまつさえモデルさんの情報などがまるで出てこない。だからなおさら、マナー違反を覚悟で書店にある現物を見るより――つまり立ち読みの格好で眺めるよりほかにすべがないわけである。
本当は詩集ごと買ってしまえば早いのだけれど、ハードカバーの流麗本で、なおかつバイトの給料日前でサイフの中身のさびしいところではそれも叶わない。そんなことを二、三日繰り返しているうちに、背中越しに刺さっていた店の親父の強烈な視線にもすっかり慣れてしまった。
そして、明後日がいよいよ給料日、しおりを詩集ごと入手できるとなった段で僕はおかしなことに気付いた。
細いヤシの木に背中を預けてこちらを向いていたはずの「彼女」の顔の向きが少し右斜め、言ってしまえばそっぽを向きかけているのである。
――こんな格好だったっけ?
中間レポートの仕上がりが悪いのを教授に責められた帰りだったので、単なる記憶違い、疲れているだけだろうとさほど気にも留めなかった。そして運悪く、ゼミの雑務やら、アルバイト先の先輩に泣きつかれてのシフト交換やらで四日ばかり、僕は「彼女」から引きはがされることになってしまい、そのことは記憶の隅から消えつつあった――。
そして迎えた今日。四日間のブランクを超えて、「彼女」を迎えるべく講義をフケて書店へ向かった僕は、くだんのハイネ詩集の九二ページを意気揚々とめくった。すると、
「そ、そんな……!」
「彼女」と目の遭った瞬間、僕の記憶違いと思っていたものがそうではないと分かった。水着姿で澄ましていた「彼女」の表情が、きつい目線をこちらに向けて、今にも飛びつきそうな勢いでにらむものへ変わっているのである。
足元に力が入らず、肩にかけたリュックがずり落ちそうになる。昼間でも薄暗い趣のある本屋の片隅で、僕はしおりの彼女に目を奪われていたが、
「……もしもし、お客さん」
背後から呼ばれた優しげな女性の声に振り返ったとたん、僕はさらなる恐怖のドツボへ落ちこんだ。そこにはなんと、写真の彼女と瓜二つな女性が、はたきを持って立っているではないか――。
「す、すいませんでしたあああっ」
平積みの本の上へハイネ詩集を放り投げると、僕は一目散に店を後にした。振り向けば最後、この世の者ならざる相手が追いかけてくるような、そんな気さえした――。
さて、そのころ件の本屋では……。
「――ちょくちょくやってくる厄介な立ち読みの客には、恐怖の日替わりしおりで応酬するに限るね。まさかわざわざ、閉店後に写真の違うものと差し替えてたとは思わなかったろう」
「でもひどいわ、パパったら私の若い時の写真を勝手に使って……。見る影ないの、自分が一番よくわかってるから恥ずかしいのにぃ」
「何言ってるんだ、ママは昔と全然変わらないよ。――さあて、あのお客はしばらく来ないだろう。ママ、悪いがしおりを一番最初のやつに取り換えておいてくれるかい」
「はいはい、わかりましたよ。――あら?」
「どうかしたのかい?」
「やだわ、私ったら今日の分のしおり、挟まずにエプロンへ入れっぱなしだったのよ。――それじゃ、あの人どうしてあんなに驚いて出て行ったのかしら……」
※本作はX(旧Twitter)にも掲載しています。