ただし、八方美人にも弱点はある
「おい、起きろ」
俺は八方美人と呼ばれているその顔だけはきれいな女に向かって声をかける。
「おーい、おーい」
また、声をかける。
「おーい!」
返事はないただの屍のようだ。
といって、見捨てるわけにもいかず、俺はその見た目からでもよくわかる柔らかな頬に優しく触れ、何度か軽く叩いた。
断じてこれはやましい行為などではなく、ただ人という生物は衝撃を与えると目が覚めるなどなんだの言っていたのでそれに従っているだけである。
むしろ、頬なだけましだと思ってほしい。主に理性とか理性とか、とにかく理性とかが大変なこっちの気持ちも知ってほしい。のんきに寝ていて起きないんだから何されても文句言えねえぞ。
「んんー。」
寝ぼけているのか麗華は俺の手を払いのけた。こいつ、起こしてもらってる立場のくせに。
一度は帰ろうとしたけれど、学校が終わった後何を言われるか分かったもんじゃないので、仕方なくもう一度頬に触れた。
決して、その感触が気持ちよかったからもう一回触ったとか、そんなんじゃないから。多分。
「そろそろ起きろよ。八方美人が遅刻とか笑えねえぞ」
俺が何度言ってもこいつに起きる気配はなく、「ううんー」だの、「んんー」だの唸るだけ。マジで帰ってやろうか。
そう思ってドアの方に向かおうとした瞬間、さっきまで頬に触れていた俺の手が握られた。そしてそのまま、なされるがままに手を引かれた。こいつ寝ぼけてんのか。
「綾人も、寝よ?」
寝ぼけているせいか、麗華の声は、いつもより甘く生々しい。おい、もしかしてこれ誘惑されてる?
寝ぼけた麗華の攻撃はやむことを知らず、半分スペースを開け、俺に入るよう行動で催促した。おいおい、これはまさかこういうやつですか。ついに俺も幼馴染と......。
なんて、一般人なら思うだろう。しかし、俺は精錬された幼馴染だ。この程度の状況で屈したりはしない。というか、この状況がどういうことかを知っている。
「起きてんだろ。さっさとしろ」
麗華はちっと舌打ちをした後、だるそうに体を起こした。おい、舌打ちしたぞこの女。自分が起こしてもらってるって立場わかってねえのかよ。
「なんでわかったの?」
麗華は眉間にしわを寄せながら、不満そうに尋ねた。
なんでこんなに不機嫌そうなんですかね。俺これでもかれこれ十分以上こいつを起こすために使ったんですけど。
むしろここは「起こしてくれてありがとう!」っていいながら抱きついてくれるくらいのご褒美があってもいいんじゃないかと思うのですが。
いや、それはこいつにされるとちょっと引くな。
「いまのはやりすぎだ。手を握るまでならまだしもあんなにはっきり話されたらさすがに気づく」
「なーんだ、せっかく布団に入ってきたら綾人のママに言いつけようとしたのに」
「お前、起こしてもらってるんだぞ? 明日から来なくていいんだな」
「……うぅ、それは」
この八方美人にも弱点と呼べるものがある。
見ての通り朝が弱いのだ。きっと、俺が起こしに来なければ、昼過ぎまで眠った挙句、「あっ、もう間に合わない!」とか言って学校に熱がひどくて行けませんとか言うんだろうな。
周りの奴らはそんなこともつゆ知らず、麗華ちゃん風邪大丈夫かなとか心配しだすのだから納得いかない。
俺なら絶対ズル休みって言われてるぞ。
「ま、そういうことだから明日からはおばさんに起こしてもらえよ」
「いや、ママに悪いし」
ちなみに、麗華の家は共働きだけど、おばさんのパートは朝遅くからなのでこの時間はまだ家にいる。
それなのになんで俺が起こしに行っているかというと、それが習慣化されてしまったからに他ならない。
小学生の頃、麗華を起こしに行った日に「偉いね」だの「優しいね」だの声をかけてもらった。
そこで俺はなにを血迷ったのか、これからは毎日起こしに行く! と高らかに宣言してしまったのだ。アホだ、ただのアホだった。
こうやって褒められるとつい、バカなことを引き受けてしまうんだから、人は褒めて伸ばすのもなんだとしみじみ学びました。失ったものは大きいけれど。
「おい、それ俺ならいいって言ってんのかよ!」
「うん、そうだよ」
麗華はきょとんとした顔で小首を傾げた。
なに当然でしょみたいな顔で言っちゃってくれてんの? 俺たちって幼馴染じゃなかったの? 対等な関係だと思ってたんだけど?
「ああ、じゃあもう明日から起こしにくるのやめよ」
「じゃあ、私もみんなに綾人にストーカーされて朝から手握られて、ベッドに押し倒して来たって言っちゃお!」
「おい、やめろ。事実無根ってか、やりかけたの全部麗華の方だけど周りが聞いたら絶対俺の弁明なんか聞いてくれないからやめろ」
「今の時代、女子が訴えたら大抵勝てるからね。煮るも焼くもやりたい放題だね」
これが最近SNSで話題になってる害悪フェミニストとやらか。男尊女卑はおかしいとか言っときながら結局行動が女尊男卑に寄っているとかいうブーメラン集団みたいな感じだな。
「そういう、女子贔屓みたいな考え方良くないぞ。いずれ痛い目見る羽目になる」
因果応報という言葉があるくらいだ。やったことには報いが来る。天罰だとかは言う気は無いけど、痛い目を見るくらいなら最初からしない方がいいに決まってる。
「大丈夫。私なら許されるから」
前言撤回、全国のフェミニスト様、本当にすみません。滅ぶべきはあなた方ではありません。こいつ一人が滅びればそれで万事解決です。
「よし、もういい。お前は一度恥をかこう。そうすればその態度も改まるはずだ」
「やだやだ、綾人起こしに来てよー。綾えもんお願いだよー」
「誰だ、その青い耳のない猫型ロボットみたいな名前のやつ」
結構リアルにタイムマシンが欲しい。そしたら、過去の俺に絶対麗華と関わることのないように教えるのにな。
「そういう綾人のツッコミ嫌いじゃないよ」
「そう? って、そんな話はしてねえよ!」
全く、こいつといるとすっかりペースを崩される。そもそも崩されるようなペースがあったのかは定かではないけど。
「とにかく、私は綾人に感謝してるよ。いつも起こしに来てくれてありがとう」
今度はちゃんとした、真面目な顔で、麗華は礼を口にした。真面目な顔だからこそ、その綺麗な肌に自然と目がいく。
「最初からそう言えばいいんだよ」
「ちょっとかわいい顔したからって綾人チョロすぎ」
麗華から顔を逸らして、そう呟いた。きっと、こいつ俺に聞こえてないと思ってるんだろうな。
「おーい、心の声ダダ漏れなんだけど? 起こしに来なくていいってことだよな?」
「え? あっ、嘘?」
「本当。チョロくて悪かったな」
「あ、いやこれはその。なんて言えばいいのかな? 綾? そう言葉や綾だよ、言葉の綾人だよ」
こいつ、この期に及んでボケを入れてきやがった。まさかこいつそんな風に言って許されるとでも思ってんのか。
「どさくさに紛れてボケを入れても無駄だ。せめて誠意を見せるんだな」
「誠意って……。ダメだよ。私たちまだ未成年だし。その、今はママもいるから……」
麗華は頰を赤らめ恥ずかしそうに俯いた。
「誰もそんなの頼んでねえだろ! 第一男の前でそんな顔すんな。勘違いされても文句言えねえから!」
「綾人以外にこんな顔しないよ」
こいつはまた、平気な顔でそういうことを言う。まじで勘違いするからやめろよな。
「はいはい、そういうのはいいから」
「……本当だし」
珍しく、麗華は拗ねたようにむくれていた。さすがにちょっと言いすぎたか。
「ま、そんなことより時間ねえから早く用意しろよ」
俺は麗華の部屋の壁掛け時計を指差した。まだ遅刻するような時間ではないけど、麗華は仮にも八方美人を気取ってる。
制服の着こなし、軽い化粧、そんなのも含めると男の俺よりは時間がかかる。一応早めに起こしにきてやってるけど、こんな茶番のせいでその気遣いも台無しだ。
「え、もうこんな時間! 綾人早く出てって!」
「んだよ、起こしてやったのに」
「今から着替えるの! それとも綾人は私の下着姿を見たいわけ? あーあ、みんなに言おーっと!」
「ああ、もうわかったよ。出てけばいいんだろ」
俺は自分勝手な麗華に腹を立て、部屋を出ようとした。我ながら、なんでこんな自分勝手な奴のために、動いてんだろう。
「……ありがとね」
ドアを閉める直前、麗華は小さく呟いた。まったくもってずるい奴だ。そんな風に言われたら、明日も起こしに行ってやってもいいかもしれないとと思ってしまう。
もしかしたら誰よりも麗華に手玉に取られているのは俺なのかもしれない。
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