おそらく佐原先生にはプライドがない
ついていない、そういう日はきっと誰にでもあるのだろう。そして、今日おおよそ俺はそのついていない日だった。
俺は日直日誌を書き終えると席を立った。もう、教室には誰もいない。
本当に災難だった。特に午後からは。
最もたる災難は、もちろん麗華と同じ班になってしまったことだ。家だけの関係ならまだしも、学校行事まで一緒になってしまうのは正直厳しい。
毎度のことだが、別に麗華を嫌いなわけではない。ただ、近くにいるということはそれだけで厄災が隣にいるのと同じになってしまう。
頼られるのは信頼の証というけれど、疫病神の信頼など別に欲しくはない。
他にも災難があった。それがこうして日直の仕事をしているということだ。
日直は日替わりで一人がこなすので仕方がないといえば仕方がない。これで、いつもより仕事の量が多くなかったりしなければ。
今日はいつにも増して、仕事が多かった。というより、押し付けられた。
通常の黒板を消したり、号令をかけたりするのはもちろん、佐原先生の配り忘れた資料の配布、佐原先生が忘れていった荷物の配達……。って、あの先生なにやってんだよ!
俺は日誌と荷物を持ち、教室を出ようとした。
我が校はそれなりの進学校でもあるため二、三年生は放課後居残って勉強に勤しんでいるが、一年生にはまだ実感の湧かない話であり、教室を一番遅く出る日直が教室の施錠をするようになっている。
ドアを開ける寸前、曇りガラスに人の影が写り、一歩下がって相手が開けるのを待った。
「おお、長谷川! いいところに来た」
ガラガラ、という音とともに扉を開けたのは佐原先生だった。
ここでいういいところとはおおよそ悪いところという意味である。ソースは世間。ていうか、来たのはそっちだろ。
「何ですか? 俺もう帰りたいんですけど」
「まあそう固いことを言うな。きっと、悪い話ではないぞ」
「まあ、聞くだけなら」
「よし、そうと決まれば!」
そう言うと、佐原先生は強引に俺の腕を引き歩き始めた。ふわりと、大人の女性の香りが俺の鼻へ届く。ちょっと待って、俺聞くだけならって言ったよな。なんで強制連行されてるんでしょう。
「ちょ、教室の施錠とか、日直の仕事残ってるんですけど!」
「そんなのはもういい、あとで私がやっておく。君は私の言うことだけを聞いていればいいのだよ」
佐原先生はニヒルな笑みを浮かべてそう言った。うわー、そのセリフ絶対悪役のやつだ。
俺は佐原先生に引かれ、ずるずると廊下を歩かされた。てか、話聞くだけって言ったんだけど、何で俺は連行されてるんでしょうね。
「よし、着いた。今からここが君の部屋だ!」
「……は?」
俺が連れてこられたのはパソコンが何台も置いてあるコンピュータルームだった。
他の教室とは違う緑のマットが敷かれていて、それだけでこの部屋に特別感が生まれていた。
何台ものパソコンに、精密機械のために用意された完璧な空調。うん、ここが部屋でも悪くないかもしれない。
「君に頼みたいのは、これなんだよ」
そう言って佐原先生は俺を一台のパソコンの前に歩かせた。
乱雑に置かれた資料の数々、ビシッと全体に赤でなにやら書かれているプリント、極め付けに、エクセルが開かれている。嫌な予感というのはこういうことを言うのかもしれない。
「長谷川ならエクセルは使えるだろう?」
「いや、はぁ。ある程度なら使えますけど……」
俺は麗華の頼みもとい、わがままに散々振り回されたこともあって多少のことは平均より少しできる自信がある。エクセルもその一つだった。ただ、ここで重要なのは使えるからといって、使いたいわけではないということだ。
「では、林間学校のしおりに不備があったから訂正用のプリントを作ってくれ」
「普通に嫌なんですけど」
話を聞くとは言ったがそれはそうでも言わないと先生が諦めてくれなさそうだったからであり、やるなんて一言も言っていない。
先生の個人的頼みである以上、俺にも断る権利くらいあるはずだ。
「なっ! ……そうか、中坂との関係をクラスメイトに話してもいいと」
「うわ! 卑怯だ。最低だ。最悪だ。教師としてとかだけじゃなくて人として最低だ」
「むぅ……そこまで言わなくてもいいじゃないか」
佐原先生は先ほどまでとは打って変わりどこまでもしおらしくなってしまった。瞳が少しうるっとして見えるのは気のせいなのだろうか。
それに、むぅってなんだよ。いい年した大人が出す声じゃねえよ。むしろ、ちょっと痛い。でも、これ以上言えば佐原先生が本当に泣いてしまいかねないのでそれは心の中に留めておく。
「では、現代社会の成績で手を打とうじゃないか」
結局やってること似たようなもんじゃねえかよ。職権濫用とか言われても文句言えねえぞ。
「わかりました。やればいいんでしょ」
とはいえ、俺も勉強が得意というわけではない。苦手なわけでもないが、成績がもらえるならやらない理由もないだろう。
それに、この先生俺がやるっていうまで諦めなさそうだし。それならいっそ俺が諦めた方が早い。自慢じゃないが、俺は諦めの早さには定評があるし。本当に自慢にならねえな。
「聞き分けのいい子は好きだぞ」
「はいはい。で、訂正箇所ってどれですか」
「あぁ、これだ。とりあえず、ページ数と内容だけをまとめてくれればいい」
そう言って渡されたのは、あの赤でびっしりと文字が書かれていたプリントだった。
誤字脱字だけならともかく、タイムスケジュールまで綺麗にずれていたりする。おい、こんなに直したら最初のしおりと内容がほとんど変わるんだけど。
俺は作りの甘さに思わずため息を漏らした。
「なんで、こんな訂正量多いんですか? 最初のやつ作ったの馬鹿ですか? 俺でももっとましに作れますよ」
俺はプリントから視線を外し、佐原先生に向ける。
佐原先生の瞳から一粒、水滴が零れ落ちた。やべ、これ完全に地雷だった。
「いや、私も言ったんだぞ。こういうのは苦手だと。それでも、仕事だから苦手でもやらなきゃいけないんだ」
悔しそうに、辛そうに佐原先生は鼻をすすりながら話した。うわー、大人の涙とか見てられねえ。
「あ、いや。でもこのしおり俺はすごい好きですよ。この挿絵とかもかわいいじゃないですか」
「それは生徒が書いたものを貼ったものだよ」
「あ、いや。他にもほら……えっと」
「もういい長谷川。褒めるところが挿絵くらいしかないことで大体君がどう思っているのかわかる」
「……その、なんかすみません」
そろそろこの人が可哀想に見えてきた。
「フォントとかに縛りとかはなしですか?」
「あぁ、君の好きなようにやってくれればいい。最後に少し私が確認するくらいだ」
「了解です。先生も、まあ頑張ってください」
色々な意味も込め、俺はそう言った。
佐原先生はそれを聞くと背を向け、後ろ手に手を振った。その姿はさながら、名を告げずに立ち去るヒーローのようだ。やっていることは生徒の誘拐だけど。
俺は先生が出て行くのを見計らい、パソコンへ向かってキーボードを打ち始めた。
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