影
ふと気がつくと、影は私の横にいます。
誰にも影はついて回ります。
影が私を見ているときがあるのだが、もちろんその影の正体はよくわからない。いるのは分かるが、誰も姿を見たこともないし、私自身だってその存在を見たことがない。だが、時折、私の頭をもたげるようにじっくりと現れるのを感じるのだ。
仕事が終わって車を走らせてるとき、私は信号の赤をぼんやりと眺めた。危険を意味する赤のLEDは張り付いたようにそこにある。フラストレーションや不満は日々私の心に張り付く。服が濡れるように張り付く。正直不愉快な感覚だ。ベタベタとした、真夏の炎天下を歩いたあとの服のようだった。
私は信号が青になった瞬間に、アクセルを踏み込んだ。後輪がアスファルトをなじり、車は前に押しやられる。シートに押し付けられる感覚が心地よい時は、あまりいい兆候ではない。
しばらく車を走らせていると、助手席にいつの間にか影が降りていることに気がついた。しばらくは気づかないふりをしていたが、影は私に執拗に話しかけた。
ステアリングを握る左手に手を添えたり、顔を近づけて鼻息を当ててみたり、あらゆる手で気を引こうとした。フラフラするステアリングを手汗の滲む手で必死に操舵しているのに気がつく。
やばい。これはやばい。
私は頭を振った。このままでは影に取り憑かれそうだった。早く帰らなければ。
家に帰れば影の影響はそこまで及ばないし、及んだところで対抗策はいくらでもあった。だが、ここはアウェーもアウェーで、少しでも気をやってしまえば私は一気に取り込まれてしまうし、この手立てが何もない状態の私は、格好の餌食だった。
甘い誘惑を逃れながら車を走らせなんとか家についた私は、ハイヒールを強く鳴らしながら、家のキーを探す為にカバンに手を入れたが、なかなか見つからない。いつもはカバンのここらへんに入れてるのに。と強く思ったところで、無いものは無いのだ。
アパートの外階段を上がると、影は少し後ろを歩いている。影は少し足が遅いのだ。
ドアを開けてハイヒールを脱いでジャケットを放り投だし、ストッキングを脱いでベッドの掛け布団の下に逃げ込む。本当はシャワーやお風呂に入りたいし、歯も磨きたいし化粧も落としたい。空腹もあるけれど、それは我慢できる。空腹よりもその影の影響のほうが強い。
いつもは家に戻ればある程度抗えるのに、今日に限って影はその存在感を強めている。私は掛け布団を少し開けて、今しがた自分が入ってきた玄関に目をやると、影は律儀に靴を脱ぐ仕草をして、ビルの間の路地に獲物を追い詰めた暗殺者のような余裕のある足取りで向かってくる。ゆっくりとじっくりと。
そして私が外を覗いている隙間を見つけた影が覗き込むと、私の耳に「すとん」という音が聞こえ、そして私は影に捕まった。
・・・
気がついたら朝だった。雀の鳴き声と、カーテンを閉め忘れた窓からは、大量の朝日の洪水が部屋を照らしていた。
体を起こして辺りを見ると、脱いでヨレヨレになったストッキングと、シワのついたジャケット。自分が履いているスカートもシワだらけだった。
ベッドから降りて顔を洗い、覚醒した頭で改めて部屋を見渡すと、そこ影あった形跡も何もなかった。
「影?」
私がそう口に出してみても、誰かが返事をするわけでもないし、何かが動くわけでもない。
カレンダーを見ると、今日は休日だった。あぁ、そうか。昨日は金曜日だった。
だから影は執拗に私を追ってきたんだ。
という結論に達して、私は服を脱いで洗濯機に放り込んでシャワーを浴びた。
──了──
答えはわかりましたか?