#3.5 眠れぬ夜の一幕
初瀬響月、18歳は。
「───眠れねえ」
先程の衝撃で完全に目を覚ましきっていた。
「なんで俺の名前知ってるんだよ…」
いや名前以外もかなり知られてる風だけど、と響月は頭の中で勝手に注釈を入れた。
───俺のプライバシー、ガバガバすぎる。
うーん。そういうの、良くない気がする。
響月は天井を見つめてため息をついた。
「…トイレでも行って落ち着くか」
こういう時、決まって彼は布団を出る。
布団の中で暗い天井を眺めていても、なんだか不安になるだけだから、と。
しかし。
「…トイレ、どこだ…?」
そういえば、ここに来てから1度として手洗い場に行っていない。緊張していて、特別行きたいと感じなかったからだろうか。
響月はとりあえず辺りを見渡す。
隣の部屋は目を覚ました、渚さん?という方の部屋。
その隣は、プライベートルームと書かれた金属の板がかかっている。
その前の部屋は、薄らと開いたドアの隙間からなにかが覗いているが多分トイレではない。なんとなく、触れてはいけない雰囲気を感じたので、触れないでおく。
───では、トイレは?
「…どこなんだよ…」
ううん、"ここに来てからトイレに行っていない"、と気づいてしまったからか、なんだかトイレに行きたいような気がしてきてしまった彼は大変困っていた。
誰かに聞くか?例えば渚さん…は忙しそうだったからちょっと聞き辛いな。
右京さん…は俺の名前を知っていてちょっと怖いから今日はひとまず…あ、左京さん?…は、右京さんと大体ニコイチっぽいから聞けないとして───
「…そんなところで、如何した」
「うわっ!?」
突如、背後から低い声で話しかけられる。
しまった、と口元を隠すがもう遅い。割と大きめの声で叫んでしまった。
「驚かせてしまったか…いや、すまないな」
声が急に柔らかく、謝罪をした。
恐る恐る後ろを振り返ると、見たことのある和服姿が。
「きみは…新入り殿か」
黒い髪。ゆるやかなウェーブがかかった、艶のある髪。
よく、"黒髪は、黒に見えて実は濃い茶色"と言うが、この人の髪は"黒"だ。そう言いきれる程に、漆黒だった。
眼は、木漏れ日に照らされる春先の新緑のように眩く、翠に染まっている。
「して、如何した?喉でも乾いたか?」
こてん、と首を傾げる様は少女のようにも見えて、不思議な感覚になる。
「あ、えっと…お手洗いを、探していまして」
「ああ、手洗い場ならこちらだ。ついておいで」
彼は肩に掛けられた紫のストールをひらりと翻し、響月を先導する。
あ、よく見れば、出会った時とはまた違う和服だ。
浅葱色のような爽やかで気品漂う青緑の着物がまた、その黒髪に似合い眩しい。
でも、その和装に似合わぬ足元のスリッパが、ちぐはぐな感じがしてなんだかちょっと、かわいい。1歩歩く度にぺたぺた言うのも更にかわいい。
「ここだ。ちなみに1階にもある。そちらは明日にでもまた案内されるだろう」
それは、若干開いた扉のちょっと怖い部屋の隣───奥まっていて見えなかったが、よく見れば鍵がついている。
うん、なんだかトイレっぽい。
「あ、ありがとう、ございました…」
「うむ。礼には及ばん」
そそくさとトイレに入る。
ああ、もう、完全に目が冴えきっている。
このままでは布団にもどったところで寝られまい。
眠れぬ夜が苦手な響月ははあ、と項垂れた。
「大きなため息だな、少年」
「ぬわ!?」
ま、まさかまだ外にいたとは。
響月はまた叫んだ。いけない、とまた口元を塞ぐ。
「眠れないのか?」
和服のその人らしき声は、ドア越しに優しく訊ねてくる。
「あ、あの、その………はい」
「ふふ、そうか…やはり、そうだろうな…」
…やはり?なんかよくわからんが、図星?
「私も、眠れぬ時はとりあえず布団を出る。きみも、同じタイプなのだろうな」
覚醒状態なのに暗い中で静かにする、というのは案外落ち着かないものだからな。
その人はただ静かに、落ち着いた声でそう語った。
「まあ、幸い明日は土曜日。休みだろうから、今晩は眠れずともよかろう」
「…明日って、第4土曜…ですか?」
「ん?ああ、そうだな。確かそうだ」
響月の通う学校は、第1と第3土曜は午前授業である。
「…じゃあ休みだ」
「ふふ、よかった。じゃあ心配いらぬな」
いくつか会話をした後、少し落ち着いた響月がトイレから出ると、ドア前で待っていた和服の人が頭を緩く撫でる。
細い指が、短い髪を梳く。
なにか大切なものに触れるような、少し緊張していてぎこちないストロークが、逆に響月の心を和ませる。
「…あ、あの?」
「…さ、部屋へ戻ろうか。送るよ」
話しかけられ、我に返った和服の彼はまた、先導するように前を歩く。
と言ってもほぼ隣の部屋なので、導かれるほどでもないが。
「私はこちらの部屋にいる。眠れぬようなら、来ると良い。茶くらいなら出す」
彼の部屋はどうやら隣。
では、と残すと部屋に帰って行った。と思ったらすぐにまた出てきて。
「それか、添い寝でもしようか?」
「い、いや、大丈夫です」
丁寧にお断りすると、そうか、と言って部屋へ戻っていく。
───あ、言い忘れたことがある。
響月は慌てて閉まりゆくドアをがし、と掴んだ。
閉めようとした最中に突然動きの止まるドアに、和服の彼は、わ、と声を上げた。
「あ、あの!」
勇気、出せ。俺。
「…おやすみ、なさい」
たった、<これだけ>の挨拶に、彼は割と勇気を振り絞った。
人見知りだし、コミュ障だけど。礼儀だけは、きちんと。
それが、響月のモットーゆえ。
和服の彼は少し面食らったように固まっていたが、すぐににこりと微笑み、手を振る。
「…ふふ、おやすみ。少年。良い夢を」
明治時代や大正時代なんかのレトロな少女のように。でも、確かな<青年らしさ>も滲ませながら、彼は部屋へ戻って行った。
不思議な、後味を残して。
「…眠れっかな、今夜…」