#1 逢魔時パニックエスケイプ
前略、教員室に竜が現れた。
「グォオオォ…!」
…いやいやいや。
「な、なんの、冗談だよっ…!?」
咆哮をあげる竜(?)を生まれて初めて目の前にした俺は、為す術もなくただその場にへたり込んでいた。
ていうか、へたり込む以外の選択肢、一般の方にあります?
いや、なくね?
「…い、いや、逃げなきゃ」
命、大事に。
そのコマンドしか許されない臆病な俺は、力の入らない足で必死で立ち上がり、なるべく竜に背中を見せぬよう、見せぬように、震えながらドアへ向かう。
───しかし、竜はそれを逃さない。
威嚇するように大きな翼をばさりと1度羽ばたかせると、それで起きた風だけで身体が持っていかれる。
運動神経もなけりゃ体力もない貧弱な俺はすぐ吹っ飛ばされ、部屋の隅へ追いやられた。
痛い。骨、大丈夫か?これ。
「グルル…!」
近づく、竜。1歩前進する度にずしん、と地面に響く衝撃が、夢じゃない、リアルな巨体の重みを俺に教えてくれる。
これ、ガチなやつだぜ、と。
目の前まで来て、止まった竜を見上げる。
身体は動かない。痛くて、怖くて。
なす術のない俺は、ただただ、その巨体を見上げることしか出来ない、哀れな子羊───
でもこういう状況の時って、意外と『ああすりゃよかった』とか、『母さんのカレー、食べたかったな…』とか、思わねえんだなあ。
「…いたぞ」
声が、した。
俺と竜しかいないはずの部屋に。
俺と竜以外の、声が。
竜と揃ってそちらを向くと、夕方の太陽を背負ったなにかが、居るようだった。
あれは───人影?
「標的確認。これより、掃討を開始する」
キン、と冷めた声だった。
しかも、こんなにも騒がしい空間にでも驚くほどよく通る、冷たい声。
「よし、てきぱき片付けちゃおう!終わったら、美味しい夕飯が待ってるからね」
続けて聞こえたのは、ちょっと茶目っ気があるというか、先程とは違う、温かみのある少し可愛らしい話し方の男性の声。
窓枠に立っていたふたつの影が、ぴょいと室内へ入ってくる。竜も俺も、それをただ静かに眺めていた。
…俺は、単純に何が起きてるのか分からないだけなんだけど。竜的にも、そうなのか?
「…グルルルル…!!」
「や、威勢がいいね」
可愛らしい話し方の男性が軽いステップで部屋の中を歩く。
沈みゆく夕日に照らされて、鮮やかな金髪がきらきらと煌めいた。
室内をぐるりと1周し、元いた場所へ戻ってくると、もう1人の人物へ話しかける。
「やけに散らかった部屋だね」
「キャンバスがゴロゴロしてるから、美術関連の部屋だろうか?」
「こんなの、掃除したくなっちゃうなぁ」
「あの角、ほこりとかすごそうだ」
やけに呑気な会話が繰り広げられて、俺は少し気が抜けた。
なんちゅー、状況を無視したゆるふわトークだと、冷静にツッコミを入れたくなるようなそんな感じ。その瞬間竜のことを、少し忘れていた。
「グガァアアッ!」
先程まで空気を読んでいたのか、じっと侵入者を眺めていた竜が突如、腕を振り上げた。
危ない───と、口から出る前に、男性は。
「おっと、危ないじゃないか」
ふわり、柔らかな足取りで後ろへ飛び退く。
同時に、ポケットから何かを取り出し、竜に向かって投げる。
きらん、と陽に照らされたそれの輝きは、鋭利なものだった。
「ギャアァアッ!?」
突然、竜が呻き出す。
苦しみ、暴れる竜の腕には銀色に輝く大きな針のようなものが突き刺さっていた。
「きみ、危ないから逃げようか」
おいで。金髪の男性は俺を手招く。だが、俺は完全に腰が抜けていて立ち上がれない。
「…あ、もしやきみ、立てない?」
「無理もない。こんな状況」
あまりに、特異すぎる。
冷たい声がそう言い終わる前に、竜が動いた。
「グァアァァアォオオ!!」
太い尾を振り回し、窓も机もキャンバスも薙ぎ払う。
障害物の減ったその空間で、次に尾が当たる対象と言えば───俺?
「あ、危ないッ!」
冷たい声が、熱を帯びる。
「私が行くよ!」
温かい声が、劈く。
まずい───
目の前に迫る尾を、俺はどうすることも出来ずに、このまま─────!
「その尻尾、もーらいッ!」
「いいや、尻尾より優先事項があろう!」
刹那、響くのは少年の可愛らしい声と、古風な話し方の声。
次の瞬間に、飛んでる自分の身体。
───どゆこと。
てか、最早どゆこと地獄。
見るもの聞くもの全てが意味不明。
頭の中はエクスクラメーション・マークで大変混雑状態。
「ナーイス、緋依くん!尻尾もらうね!」
「捨ててくれ、右京」
「やーだ!これは私の資料にする!」
「家にモノが増えると、掃除が大変なんだ…」
「あ、気にするところはそこなんだ?」
ぶっ千切れた竜の尾はさておき、俺は。
「な、な…!?お、俺、無事…!?」
「おお、思ったより王道的出会いね。アンタ、もっとはっちゃけたことしてくれてもよかったんだぜ?」
例えば、あの竜と素手でやりあっちゃうだとか!と楽しげに笑う赤いフードの少年の隣で、気がついたら俺を抱き抱えて竜の背後に回っている和服の男性(?)はため息をついた。
やれやれ、と言ったふうに。
「馬鹿言え。暴れられると、面倒だ。大人しくしているやつを保護するのは楽でいい」
腰あたりまである長い髪をふわふわとなびかせ、和服の男性は俺を抱えたまま窓枠へひょいと飛び乗った。
「きみ、軽いな。ちゃんと食べてるか」
「そいつも、おまえには言われたくないと思うな」
一足先に屋根の上にいた少年が茶化すようにそう言うと、和服の男性が舌打ちする。
何が何だかわけがわからないけど、多分このふたりは仲があまりよろしくないのだろう。
「右京、左京!帰ろーぜ!用があるのはこいつじゃねーんだろ!」
「右京さん、竜の尾は置いてきてくださいよ」
「あら、もうおしまい?」
右京、と呼ばれた男性は掴んでいた竜の尻尾をぽいと投げると、軽やかに俺たちの方へやってきて、にこり。
「はい、お疲れ様。怖かったでしょ、竜」
俺の頭を撫でると、そのまま窓の外へ。
「…いや、竜の尻尾投げ捨てたアンタが今日1番怖いと思う」
「珍しく緋依に同感です」
いや、俺的には怖いとかそんな問題じゃないですけど。
「左京、聞こえてっかー。左京ーっ」
「ふむ…仕方あるまい。一時休戦としよう」
左京、と呼ばれた男性は持っていた小銃をくるくるさせながら胸元に仕舞う。
「あは、左京ったら。カッコつけちゃって」
「たまには良いかと思ってな」
ふ、と笑う左京…さんは、屋根へ移ると律儀に窓を閉めてそのまま出て行った。
「あ、あの竜、放っておくんですか。他の生徒が来たら、どうするんですか」
「案ずるな、他の子には見えぬ」
和服の男性は、俺を近くのスーパーマーケットの屋根の上に優しく降ろすと帯の位置を整え、ふと夕日を見つめる。
「やはりこの時間帯が、1番目覚めやすいか」
「あらやだ雅史、中二」
うるさい、と和服の男性…雅史さん?が赤パーカーの少年を小突く。にゃにすんだよう、と少年が雅史さんを睨む。
「まあまあ、ふたりとも喧嘩しないの」
だって、とふたりが声を揃えると、金髪の…えと、たしか、右京さん?がふふ、と可愛らしく笑う。
「というか、きみ。随分冷静だな。全然騒いだり暴れたり、しないのだな」
「……は」
「ん?なんか言いたいことある感じ?」
「……はわわわわ……」
張り詰めていた緊張の糸が切れ、俺はその場にぱたん、と倒れ込んだ。
不思議、こういう時、叫び声とか出ない。
いや、叫ぶ体力とか既に残ってなかったのかもしれないが。
「き、きみっ、大丈夫か!?」
「疲れちまったかァ?」
「運ぶぞ、右京。手伝ってくれ」
「はいはーい♪おまかせあれ〜」