第一話
耳の先が少し垂れたイヌが二本足で立ち、茶の間の中心に置かれたちゃぶ台を端に寄せた。
『それでは、僕が手本をお見せいたしましょう』
彼は柴犬系の雑種らしい体形で、体は黒いが口の周りは白い。その前足後足の先も白く、手袋と靴下をはいたようだ。
『はあ、かっぽれかっぽれ』
片足を上げたままバランスを取り、前足を振りながらイヌは滑稽な仕草で踊る。くるりと回ったその背中には黒いコウモリの翼が生えていた。
『よし、ボクもやってみる』
茶トラのネコも、二本足で立つ。その額には、緑に輝く小さな角がある。
『翡翠くん、大丈夫?』
ギリシャ風の長衣をまとった魔女が、心配そうにネコへ声をかけた。彼女の豊かな胸の上では、ブドウの房をかたどったペンダントが揺れている。
『音矢くんに手伝ってもらえば転ばない』
イヌはネコの後ろに回ってしゃがみ、その華奢な腰をしっかりと支える。
『それでは瀬野さん、ごらんください。はあ、かっぽれかっぽれ』
『かっぽれかっぽれ』
イヌの歌に合わせてネコは片足をあげ、ふらつきながらも踊って見せた。
『あら、意外とうまいじゃない。私も仲間に入れて』
音矢と翡翠と瀬野。夢の中で変形した三人が楽しく踊るうち、奇妙な声が聞こえてきた。
『妖霊星を見ばや』
『妖霊星を見ばや』
怯えた様子で、瀬野は音矢に頼んだ。
『なんだか外の様子がおかしいわ。音矢くん、ちょっと偵察に行ってきて』
『はいはい』
縁側に出た音矢は、背中の翼を広げて飛び立つ。だが、それほど大きくもない翼なので高く上がれない。雑木の間をすりぬけて彼は進んだ。
そのまま行けば、現実なら国道に出るはずだ。しかし夢の中では林の外に、いきなり都心の光景が広がっていた。
帝都駅を中心に広がる鉄筋コンクリート製のビル街。
『妖霊星を見ばや』
『妖霊星を見ばや』
その堅牢な建物の上を、天狗たちが跋扈している。
『あの声の正体はこれか……』
見上げた音矢は、その鼻に異様な臭いを感じた。
『うあああ!』
いつの間にか、屍傀儡の群れが彼に迫っていた。
動く死人のうち、数体は半透明な影を背負っている。
『あいつら……死体のうえに、悪霊までも憑いているのか?』
彼らは音矢を取り囲んで、ゆっくりとその輪を縮めていく。
『ああ、こっちに来る。大変だ!』
音矢はその翼を必死に動かし、腐った手をよけながら飛ぶ。
『うっ』
ふいにシッポを掴まれた。体をひねって音矢は後ろを見る。
彼を捕らえたのは死霊術師だ。すっぽりとかぶった頭巾に隠れて、その顔は見えない。
『目障りなイヌめ。お前など、こうしてくれるわ』
掴んだシッポを死霊術師は激しく振り回す。音矢は悲鳴をあげた。
『うあああああ。痛いよう。シッポがちぎれてしまいますよおおお』
『ふふふ。苦しめ、もがけ』
喜んだ死霊術師は、さらに力をこめて振る。それが音矢の狙いだった。翼の羽ばたきで揺れる勢いを制御し、彼は体を丸めた。
『わん!』
掛け声とともに、音矢は自分を捕らえた死霊術師の手を噛む。
『おのれ、なにをする』
ひるんだ死霊術師は、シッポを離してしまった。
『脱出成功!』
音矢はその翼を必死に動かして、死霊術師から逃げる。
『ふう、やっと雑木林に戻ることができた』
一息ついた彼に、声をかけたものがいる。
『音矢くん、無事だったか!』
『なんだか、恐ろしいことになっているみたいね』
『ああ。迎えに来てくれたんですか……あれ?』
翡翠と瀬野の姿は、音矢が偵察に出たときとは変わっていた。
翡翠は大きな体躯を持つ鬼だ。しかし、その角の色は以前と同じ緑で、毛皮のフンドシには茶トラネコの色が残っている。
瀬野はもっと変化し、仔鹿となっていた。それでもブドウのペンダントを首にかけているので、音矢には彼女のことがわかった。
『お二人とも、ずいぶん形が変わりましたねえ』
『君もそうだぞ。ほら、自分を見てみろ』
どこからともなく取り出された大きな鏡を音矢はのぞく。
そこに映し出された姿は、もはや柴犬サイズではない。ドーベルマンをはるかに超えた、大型犬だ。翼もその体に見合った大きさになっていた。
『いつのまにか僕は成長していたのか。
それで飛ぶ速度が上がって、死霊術師から逃げられたんだな』
音矢は雑木林の隙間に移動し、その翼を広げる。
『これなら、前より高く飛べる。もう一度偵察に行ってきますね』
『頼むぞ、音矢くん』
『気をつけてね』
二人に励まされ、張り切って彼は羽ばたく。地面に積もっていた枯れ葉を吹き飛ばし、音矢は空を目指して飛び立った。幸い、彼の体はほぼ黒いので、夜闇に紛れることができる。天狗の目を逃れながら、彼は次々と帝都にあらわれた化け物たちを観察していった。
『やあ、さっきの死霊術師の仲間が暴れている。
山高帽をかぶって手には血まみれのナイフ……
ジャック・ザ・リッパーも混じっている。
飛び跳ねているのはキツネかな?
それに、ニワトリとネコとロバ。ブレーメンの音楽隊には足りないな。
テルテル坊主の行進に、バリカンを持った狼男に、犬の生首を持った修験者?
くわばらくわばら。
あいつらの後ろには得体のしれない邪神みたいのが控えているな。
他にもまだまだたくさん化け物がいる。百鬼夜行というやつか』
音矢は方向を転じた。天狗たちとは反対側からも別の勢力が現れつつある。
『編み針や縫い針を持った大蜘蛛の群れだ。
あっちには包丁を手にした鬼婆、その足元にはオコジョがいる。
それに加えて、フラスコを持った錬金術師たち。
八百八狸も来た。
その周りを電光で輝く獣や火車が走っている……
おや? 僕の仲間か?』
彼らは音矢のように翼を持たない。だが、二本足で立っているのは同じだ。大型、中型、小型、さまざまな種類の犬たちが、死霊術師の軍勢に挑みかかった。その先頭はブルドッグだ。
『あれ……どこかで見たような』
音矢が記憶を探ろうとしたとき、ふいに東方から光がさした。
『ああ、朝日だ』
太陽の光を浴びた化け物たちは、その姿を変えていった。天狗の鼻は低くなり、屍傀儡の肌は生気を取り戻していく。他の化け物も同様だった。
『みんなの正体は人間だったのか……って!』
音矢は自分の体を見た。黒い毛皮は絣の着物に変じている。背中に手を回して確認したが、すでに翼も消えていた。
『うあああああああ、助けてえええ』
加速度をつけて落下していく音矢を、緑に輝くものが受け止めた。
『これは、飛行機? ……というよりもむしろ』
音矢を救助した物体は、彼が知る旅客機とも戦闘機とも違う形をしていた。それらの主翼は胴体に対して垂直に長く伸びている。しかし、音矢が今乗っている機体の翼は三角形だ。それを手で撫でた感触は柔らかく、弾力がある。
『紙飛行機に近い形だな。材質は空間界面と同じか』
とりあえず墜落することはなさそうだ。安堵した音矢には周囲を見回す余裕ができた。
眼下に広がる田んぼでは稲刈り、果樹園ではリンゴやミカンなど豊かな実りを収穫している。その作業を一時中断し、空を見上げた農民たちが、笑顔で音矢に手を振った。
音矢も手を振って答える。
人々に見送られ、美しい景色を眺めながら、音矢は遊覧飛行を楽しむ……
(あ)
音矢は自分が布団の上にいることに気づいた。
そして、枕元に薄白い等身大の塊がたたずんでいることにも。
(いつもの金縛り、そしていつものオバケくんか)
もうすっかりこの状態に慣れた音矢は、先ほどまで見ていた夢を思い出す。
(……理解不能だ……いや、まてよ)
(空を飛ぶ夢は、フロイトの解釈によると性欲の高まりを意味するって
[萬一口話]に書いてあったな)
動けないまま、音矢は心だけでうなずく。
(大当たりだ)
枕元の[オバケくん]は音矢に何も言わない。それには目も鼻も口も手足もないからだ。いつものように、音矢は反応を求めず頭の中で語り掛ける。
(しかし、それ以外の百鬼夜行は意味不明だなあ。
フロイトに僕の夢を教えたら、どんな風に解釈してくれるだろう。
ひょっとしたら
分析不可能な情報を与えられたせいで頭が痛くなるかもしれない)
10月14日に回収した神代細胞の瓶詰めは、その翌日水曜日の定期監査に訪れた瀬野に渡した。瓶詰以外の要求もあったが、金曜日には返すというので、音矢は素直に提供した。
瀬野は14日の暴走患者の始末後に翡翠と仲直りをしていた。それで気分を良くしていた彼女は、始末で疲れている音矢を休ませるためにトンカツなどの総菜を夕食会用に差し入れすると予告してくれたので、彼はありがたく了承した。
来訪した瀬野はそれに加えて、かねてからの約束を実行すると宣言した。さっそく彼女は別室で運動着に着替え、空間界面の繭をつかった玉乗りをやって見せた。ついでということでY字バランスなどの体操技も演技してもらい、翡翠と音矢は喝采を送った。そして、自分たちも答礼としてかっぽれを踊ったのだ。
大いに盛り上がった宴の後、嫁入り前の娘が毎度の朝帰りはまずいということで、瀬野は午後9時ごろ、乗ってきた自動車で帰宅した。1930年〔光文5年〕、酒気帯び操縦は21世紀ほど厳しく取り締まられていない。
(昨日の体験が夢に反映されたのかなあ。オバケくん)
そこまで語ったとき、ふいに、体が楽になる。自由を取り戻した音矢は寝床で背伸びをし、その拍子に夢の一部を思い出した。
(しかし……あのブルドッグ、工藤さんに似ていたな)
彼の心に、懐かしさと悔しさの入り混じった感情がわきおこる。音矢はそっと左胸の傷に触れた。
――さあ、昔々の物語を始めましょう。
これは異なる世界の物語。
――そして 輝く星々が渦を巻く物語―――
1930年〔光文5年〕10月。大日本帝国の首都である帝都には、さまざまな人間が住んでいる。彼ら、彼女らはあるいは笑い、あるいは泣き、それぞれの生活を営んでいた。
昨日のラジオと新聞報道で、音矢は警察の動きを知った。今回の神代細胞実験台が生贄としたのは、幸いなことに近所での評判が悪い地主とその家族および使用人たちだった。それゆえに、警察は怨恨からの犯行と目星をつけてくれたようだ。したがって、彼らと接点のない音矢たちは容疑者の範囲に入らないはず。だからとりあえずは安心できると音矢は判断した。
リベットペンの使用も依然報道されていない。
その理由を、瀬野は[研究機関]が警察に協力を要請しているからだと説明した。この組織にそんな実力があるのかと、音矢は疑っている。しかし彼にはその真偽を確かめるすべがないので、表面上は納得したふりをしている。
そのようなわけで、楽しい宴を過ごした次の日、木曜日。音矢と翡翠は普段通りの平和な生活を送っていた。
翡翠は茶の間で算術の自習。わからないところがあれば、庭掃除をしている音矢に質問するためだが、今日は順調に学習が進んでいる。
落ち葉をはく手をとめ、音矢は柱時計に目を向けた。
「そろそろ音楽を流す時間なので、聞いていいですか」
翡翠の集中を妨げないために、学習しているあいだは、ラジオのスイッチを切ってあった。
「ああ、ボクも疲れたので休憩する」
音矢は井戸水で手を洗い、翡翠は鉛筆をひとまず置いた。
今日の音楽番組は、日本の流行歌特集だ。
最初にかかったのは、宝塚歌劇団の【すみれの花咲く頃】。【パリ・ゼット】という舞台で使われた楽曲だった。二人はしばし、その歌を楽しむ。
音楽が終わり、番組の司会者が解説している間、二人は感想を口にした。
「なんだか楽しくなる曲だ」
「この歌にあわせて、美しい女性たちが一斉に踊る……
きっと素晴らしいステージなんでしょうね」
「見てみたいな」
「宝塚に行くなら、箱根を超えなければなりません。
でも、帝都には松竹歌劇団というのがあります。
こちらも負けず劣らず良いものらしいですよ」
「明日の金曜日は映画に連れて行ってもらえるが、
来月の外出先は、そこにしてもらおうかな。瀬野さんは何というだろう」
「歌劇団は女性に人気ですから、賛成してくれるのではないでしょうか」
ラジオからは他にも何曲か流れ、番組終了時間に近くなった。
『……それでは最後に、海軍の士官さんが作詞なさった曲をお送りいたします。
題名は【青年日本の歌】』
この世界では、後に【光文維新の歌】と呼ばれることになる歌だ。
二人はそれぞれ思いを巡らせながら、ラジオから流れる歌に耳を傾ける。
やがて勇壮な曲は終わり、余韻が残る中、翡翠が口を開いた。
「最初と中ごろと、それから最後まで、意味がわからない」
翡翠は帳面の余白を示す。そこには謎の文様がならんでいた。
「わからないところをメモして、後で音矢くんに質問しようとしたのだが、
次々不明点が出てくるので、手の動きが追いつかずにうまく書けなかった。
一体、あの歌は何を言いたいのだ」
苦い笑いを浮かべながら、音矢はラジオのスイッチを切る。このことについて、彼も自分の感想を述べたくなったからだ。
「初っぱなからわからないのは、[泪羅]でしょう?」
翡翠はうなずく。
「それは中原大陸の地名です。
大昔、屈原という人がいましてね。
国の政策が[自分の考える正しい方向]に進まないことを憂いたんです。
そして、
『世の中の人は濁っているが自分だけは清らかだ。
他人は酔っ払いだが自分だけは醒めている』と
漁師さんに言い残して、
ついには泪羅という川の淵に飛び込んで死んだという故事があるんですよ」
音矢は[萬文芸]の雑学記事[萬一口話]で、端午の節句の由来としてその知識を得た。5月5日に食べる粽は屈原への供え物だそうだ。
「僕もそれほど歴史に詳しくないので正確には知りませんが、
[巫山]や[一局の碁]なんてのも、
やはり中原の故事にかかわるものだと思います。
難解な言葉を並べれば、自分が偉く見えると思っているのでしょう。
……これとは大違いです」
音矢は、いつも口笛で奏でている自分の好きな軍歌の一番を、翡翠に歌ってみせた。
「【抜刀隊】は、倒すべき敵の大将である西郷隆盛を[英雄]としてたたえ、
彼に従う兵士たちにも敬意をはらう歌です。
でも【青年日本の歌】は違う。
『政財界の老人たちは醜い私欲の塊だけど、
若い俺様は無欲だから清らかだ。
俗人たちは本当に大事なものがあることを忘れているから
出世競争に励んでいるけれど、
俺様はすっごく賢いから、そんなの虚しいってわかっているもんね。
だから、命を惜しまずこの国を変革するんだ。
どうだ、俺様は偉いだろう』って、いわんばかりの
自惚れと見下しに満ちていますねえ。
こんな歌を作る人が、もしもこの調子で実際に行動したなら、
絶対ろくでもない結果をもたらすでしょう」
普段と違い、熱弁をふるう音矢の様子に、翡翠は戸惑う。
「そう決めつけることもないだろう。会ったこともないのに」
たしなめられて、音矢は我に返った。
「……あはは。それもそうですね。
どうも、この手のやつは虫が好かないもので、
ちょいと言い過ぎたかもしれません」
【青年日本の歌】の作詞者は1932年〔光文7年〕5月15日に大事件を起こすことになるが、まだこの時点ではそのような運命を誰も知らなかった。
次回に続く




