第十四話
「今のあなたなら、なんでも望みがかなうんですよ。
だから、なにも二つの目玉にこだわる必要はありません。
全方向を見られるように、
たくさん目をつけたら便利ではないでしょうか」
「なるほど! それはいい」
音矢の提案に気を取られ、芹川氏は翡翠に対する攻撃をやめた。
「目玉、目玉、増えろ、増えろ。目玉、目玉、増えろ、増えろ」
その場で仁王立ちになり、呪文のような言葉を歌うように唱える。するとたちまち、芹川氏の肩や胸、腹、膝、手のひらに眼球が発生した。
体を変化させることに集中している敵から目を離さず、音矢は翡翠の傍に行き、彼の耳に作戦をささやく。
「わかった」
さっそく翡翠は指示に従った。
彼が準備している間に、芹川氏の体にできた眼球は、それぞれがミカンほどの大きさに膨れあがる。
頃合いと見た音矢は、ペンギンくんの鎖を伸ばし、その分銅で廊下の電球を割った。脆いタングステン線が衝撃で切れ、それが放っていた光は消える。
「わあ! 何をするんだ! 暗い! 見えない!」
狼狽した声を芹川氏は上げるが、
「ふう、目を増やし、大きくしてよかった」
すぐに落ち着いた。
「だが、ワシに一瞬でも怖い思いをさせた罪は消えないぞ。
貴様、よくもやったな!」
空間界面の放つ緑の光に、音矢は照らされている。しかし、それは彼のではない。背後でしゃがんだ翡翠が展開しているものだ。その緑に光る膜が伸びて薄く床を覆っていることも気にせず、芹川氏は無造作に進む。
「今です!」
横によけた音矢の合図で、翡翠は片手で持った懐中電灯を点灯する。
「ぎゃあ!」
もともとあった目も、新しくできた眼球も、神代細胞の力を借りて素早く暗闇に適応し、瞳孔を最大限に開いていた。そこに閃光の直撃を受けて芹川氏は苦しむ。
音矢は狙い定めてペンギンくんで敵の側頭部を打った。打撃音を聞いた翡翠は空間界面を原型に戻す。床に伸びていた膜は、勢いよく翡翠のもとに吸いこまれる。
足元をすくわれた芹川氏は転倒。すかさず音矢は靴のつま先で割れた頭蓋骨をさらに蹴り、耳の奥の三半規管をつぶす。平衡感覚を狂わされた芹川氏が立ち上がれないうちに、音矢はリベットペンを右目に刺し、特殊弾丸を撃ちこむ。
「5、4、3、2、1」
前回作った連携技がみごとに決まった。結果に満足して、音矢は秒読みをする。
「0!」
水分に反応して爆発する弾丸によって、芹川氏の脳は破壊され、衝撃で脆い顔面の骨が吹き飛ぶ。
「ふう、終わった」
音矢は大きく息を吐く。
「さて回収だ」
神代細胞の一部はすでに丸められた仲間のもとに這いより、同化していくが、新しい宿主を求めて別方向に進むものもある。翡翠は床に手を差し伸べて、逃げようとする神代細胞をエーテルエネルギーで呼び集めていく。
「お願いします。僕はいつもの作業をしますので」
「今回は広いから、手間がかかるだろう」
「なに、僕も慣れてきましたから、大丈夫で……おっと」
音矢は軍手をはめた手で、自分の頬を叩く。
「慣れた、と慢心するのは良くない。
そうだ、気を引き締めて、初心を忘れずにやろう。
細部をおろそかにすると碌なことはない」
自らを叱り、音矢は必要なものを探しに行く。その手には翡翠から受け取った懐中電灯がある。
彼が歩く暗い廊下に、柱時計の音が9回響いた。
◆◆◆◆◆◆
ちょうど芹川家の最後の一人がリベットペンで殺されたころ、
「男女交際を求めるなど……俺は何を浮かれているんだ」
健二はクローバーの押し葉を見つめながら自分を叱っている。それは、すがすがしい気分を伴う痛みを彼に与えた。
「呉羽はたったの14歳で殺された。
いろいろやりたいことがあっただろうに、その希望を絶たれた。
そうだ。たくさん楽しい体験を積むはずだったのに、
もう笑みを浮かべることはできないんだ」
おぞましいことに、殺人犯人は呉羽の顔面を破壊していたのだ。あどけなかった少女の顔は大半が失われ、下顎と舌だけしか残っていなかった。その記憶に集中することで、自分の中にあるみだらな欲望を健二は意識の底に押しこめた。
◆◆◆◆◆◆
回収してきた大量の神代細胞を風呂敷に包み、座席下や膝の上に置いた。音矢と翡翠はそれにエーテルエネルギーを送りこんで逃亡を防がなければならない。だから血で汚れた作業着からの着替えは交代で行った。
翡翠が狭い車内で水兵服の袖に手を通そうと苦労している間、先に着替えた音矢は瀬野を背後から観察する。
彼は先日の件で彼女をつつき、交渉を有利に進める計略を立てていた。しかし、今日は神代細胞の暴走、そして現場への急行とで、それを実行する暇がなかった。
(翡翠さんが着替えをすませて、
交渉の援護に使えるようになったら決行しよう)
音矢は水筒に入れておいた湯冷ましで喉を潤し、氷砂糖を味わいながら、その時を静かに待つ。
やがて、ズボンの前開きをとめるMボタンをかけ終わった翡翠は音矢から神代細胞の包みを受け取って膝の上に置いた。一段落ついて安心したのか、長く息を吐きつつ座席の背もたれに寄りかかる。
それを合図として、いざ開戦と音矢が意気込んだ瞬間、車の進路が変わる。速度を落として、路肩に停車した。
「どうしました、瀬野さん」
「……ごめんなさい。私……翡翠くんに謝らなければならないの」
「は?」
出鼻をくじかれた音矢が戸惑っている隙に、
「なんだ? なんでボクに謝るんだ」
翡翠が反応した。
この場合は事態の推移を見たほうがいいと判断し、音矢は口出しをしない。
振り返った瀬野は、目を伏せて語った。
「ごめんなさい。今まで私は嘘をついて、翡翠くんを騙していたわ」
「ええっ?」
「はあ?」
二人は口々に驚きの声をあげた。しかし、その質は異なっている。
「瀬野さんがボクに悪いことをするなんて! そんなバカな!」
翡翠は信頼を裏切られた衝撃で驚愕し
「とにかく、話を聞いてみましょう。なにか事情があったのかもしれません」
音矢は、瀬野が強制もされないのに自分の罪を正直に話そうとしていることを不審に思った。
「はい、湯冷ましと氷砂糖です。水分と糖分を補給して、冷静になってください」
「……わかった」
青ざめた顔の翡翠は、音矢に勧められたものを素直に口にする。それを見届けてから
「実は……」
うつむいたまま瀬野は告白を始めた。
◆◆◆◆◆◆
乱暴な手つきで、健二は自分の頭をかきむしる。
「謝罪の手紙を書いている、まさにその最中に、
男女のいとなみを妄想しだすとは……ああ、なんて俺は恥ずかしい男なんだ」
痛みを己に与えることで、自分が清らかになっていくと、健二は考えた。
「そうだ、こんなイヤらしい下心が俺にあるから、
由井さんは怯えるんだろう。
それを放置して、うわっつらの言葉だけで謝罪しても意味はない。
自分を律し、行動で誠意を示さなければ。それに……」
クローバーを額に押し頂き、健二は思う。
「俺を慕って、あの家へ遊びに行くたびに喜んでくれたあの子のことを思えば
……俺だけが新しい恋人を得て幸せになるなんて、許されない」
呉羽に義理を立てることで、香と親密になる可能性を健二は自ら捨てた。
――これは――
現世への執着を自力で解消することができず、ただ生者の幸せをねたみ、笑顔に嫉妬し続ける。
生前の自分が愛をささげていたのだから、残された恋人はその死を悼み、ひたすら悲しみに沈み、死者への供養を忘れることがないよう努めろと要求する。もちろん新しい出会いを求めることなど絶対に許さない。
健二の想像した呉羽は、まるで怪談で語られる怨霊のような存在だ。
しかし、本来の呉羽はそんな人間ではなかった。[真世界への道]にすがるなどという間違った方向ではあるが、望みをかなえるために、自分から行動しようとしていた。そして、彼女は別に健二のことを恋愛対象として意識していなかった。それは相談相手に彼を選ばず、[萬文芸]の読者交流欄に求めたことで証明される。自宅へ遊びに来た健二に笑顔を向けてもてなしたのは、ただの親戚づきあいだ。
にもかかわらず、健二は勝手な思いこみで、彼女の意向を忖度し、彼の思いえがく呉羽を怨霊化させた。自分だけ生き残っているという罪悪感を消すため、過酷な行動を自らに課すという方法で死者を悼みたかったからだ。
それでも、健二の心にはまだ将来に対する[ぼんやりした不安]が残っている。彼はそれも解消したい。
だから
「そうだ、あんな犯罪を発生させる社会、
犯人を捕まえることもできない無能な警察、それを許す政府!
なんとしても改革せねばならない!」
いかにもご立派な言説をぶちあげ、
「そのためには、
こんなちっぽけな会社の保全などを思いわずらっている暇はない!
家庭内のことなど後回しだ」
解決すべき問題を投げ出し、
「俺は世界を救うための戦いに、この身を投じる!」
実体のない敵と戦う決意を燃やす。その炎で健二は不安を焼きつくす。
「そのためには、自分のくだらない欲望などにかまけていられない。
俺はこの心を全て[真世界への道]の教えで満たす。
そう、我欲を捨てて、全力で滅私奉公しよう。
無心で[秘密の首領]さまの教えに従い、
礼文さんの指導通りに行動するなら、きっと我々は勝利する!」
こうして健二は自由意思を捨てた。
生きることを喜び日常を楽しもうとする、人間にとって自然な欲望を心の底に閉じこめ、その代わりに呉羽の怨霊という幻影を背負い、健二は[真世界への道]をたどる。
その先には、礼文という[死霊術師]が[屍傀儡]たる津先たちを支配下に置く国ができつつあった。
――(自ら作り上げた)怨霊に憑かれ、
死の国に向かう物語――
――そして――
「ごめんなさい。
[研究機関]の人たちが、翡翠くんの研究を認めてくれているって……
あれは嘘だったのよ」
神妙な表情で、瀬野は語る。
「この社会では、学歴差別というのがあるの。
それで[研究機関]の人たちはみんな高学歴だから、
小学校にも通っていない翡翠くんのことをバカにしている。
でも、そんなことを言ったら、翡翠くんが悲しむと思って、
つい……みんながほめてくれるって言ってしまったの。許して」
彼女の言葉を聞いて、翡翠は怒ることはなかった。
「そういうことだったのか。
やはり、ボクが実験動物として扱われていたときと同じように、研究者たちは
……いや、檻に閉じこめられることもなく、
服だって着せてもらえるだけ、今のほうがましか」
重大なことをサラリと口にしてから、
「瀬野さんはボクを傷つけまいとして、
事実と違うことを言ってしまったのだな。ありがとう。
そしてきちんと謝ってくれたのだから、ボクはそれでよい。
もう、このことは気にしないでくれ」
翡翠はむしろ晴れ晴れとした様子で瀬野を許した。彼女はそれを当然のように受けいれる。
「だから、翡翠くんはもっと勉強して、
ちゃんと高卒認定試験に合格し、大学に入ってみせて。
そうすれば[研究機関]の人たちも、翡翠くんのことを認めてくれるわ」
「よし、わかった。ボクは頑張る。いつかかならず学歴を手に入れてみせるぞ!」
未来の希望を語る彼の横で、音矢は瀬野の表情を読もうとした。彼女も、目を上げて音矢の顔を見た。視線が空中で交錯する。
「……瀬野さ」
「それで、私は研究員さんたちに主張したわ。
ただ机に向かうだけの勉強では息切れしてしまいます。
翡翠くんには、家にこもって本を読むだけではなく、
実体験を積ませる必要がありますって」
暴走患者と戦いを終えたばかりの音矢は、精神的な緊張と肉体疲労の影響で体調が万全ではない。その今こそが勝機と見た瀬野は、ここぞとばかりに弁舌をふるい、彼の言葉をさえぎった。
「そしてこれまで何度か外出しているけれど、
翡翠くんがヘソを曲げたのは歌舞伎座で一回、
体力不足で倒れたのも一回だけ。
失敗しても次からは反省して行動をあらため、
この間の寄席では騒がなかったし広小路も無事に散歩できた。
これだけ成長しているんだから、
より広い知識を得て体力も向上させるために、
月一回くらいは
いちいち上の許可を取らずに
お出かけさせてあげてもいいのではないですかって、
頑張って説得したの」
「本当か!」
「……それで、結果はどうだったんですか。
まさか、ここまで言っておいて、ぬか喜びではないでしょうね」
喜ぶ翡翠と疑う音矢を交互に見てから、瀬野は微笑む。
「もちろん、成功したわ。
でも二人とも明日は疲れているでしょうから、
いつもの物資補給と定期監査、そして神代細胞の回収だけにとどめるけれど。
回復するための時間をおいて金曜日、映画に行きましょう。
ちょうど勉強になるような映画が公開されていてよかったわ。
研究員さんたちに、これを見せて私は説得したの」
瀬野は自分の革バッグから新聞広告の切り抜きを出し、後部座席の二人に渡した。
「おお!」
《バード少将 南極探検》
これはアメリカの海軍少将が南極調査を行ったさいの記録から作られたドキュメンタリー映画だ。
「ボクも新聞を読んで、この映画のことは知っていた。
見てみたいと思っていたんだ。その夢がかなうなんて!」
はしゃいだ翡翠は、音矢の肩を叩いた。
「きっと、君が使っているペンギンくんの本物が出てくるぞ!
他にもたくさん興味深いものが映っているだろう。ああ、楽しみだ!」
「そうですね。ありがとうございます。瀬野さん」
翡翠に同調して、音矢も礼を言っておく。
「喜んでくれて、私も嬉しいわ」
微笑みながら、瀬野は翡翠に釘を刺す。
「だけど、ものには限度があるわ。これ以上の外出は不可能なの。
だから、もう自分の要求をとおすために、
私に議論を吹っかけたりしないでね。
そんなことをされると、私も防衛のために
……翡翠くんを傷つけるような発言をしなければならなくなる。
言われるのは嫌でしょうけれど、私もつらいのよ」
明らかに言質を取りに来たと気づき、音矢は口をはさもうとしたが、
「わかった」
翡翠は即座に返事をしてしまった。
「ボクも瀬野さんと言い争いになるのは嫌だ。
月一度の外出を楽しみとして、
しばらくはおとなしく勉強し、
試験に合格するための学力をつけるのに専念する」
「素直に聞き分けてくれて、うれしいわ。それでは帰りましょう」
満足げに答えた瀬野は、正面に向きを直して自動車を発進させた。その後ろ姿を見ながら、音矢は静かに考えをめぐらせる。
(翡翠さんは、小学校入学資格のことで騙されていたことがあるのに、
また瀬野さんの言い訳を信じてしまった)
(瀬野さんは良い人だという前提があるから、
それを否定する事実を避け、肯定する事実にすがりつくんだ)
(シーザーの言葉……[人は自分が見たいものだけを見る]……その実例かな)
音矢は膝の上に置いた風呂敷包みの重みを腹に乗せ、シートによりかかった。
(やっぱり、[研究機関]の秘密を探るのは、僕だけでやるしかないか。
翡翠さんは懐柔されてしまったし)
(まあ、翡翠さんとしては、外出できればそれで目的達成なのだから、
しかたない)
音矢は自分が瀬野に対抗するために立案した計略を思い返した。
(どういうふうに議論をすすめていくか、
一生懸命に考えたんだけれどな……それに費やした時間が無駄、に……?)
音矢の口元に薄い笑みが浮かぶ。
(だけど、月一回の外出権を得られたのなら、
僕の計略が成功したのと同じだ。
考えようによっては、
僕は座したままで濡れ手に粟のもうけを得たことになる)
(なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ)
ひとまず満足した音矢の意識は、別の方向に流れた。
「うあああああああああ!」
――これは――
「どうした、音矢くん!」
瀬野の操縦する車は進路をふらつかせたが、無事に路肩に止まった。
「びっくりさせないでよ! ハンドル切り損ねるところだったわ!
いったい何ごとなの?」
翡翠と瀬野が音矢に問いかけるが、彼は動揺した様子でなかなか答えない。二、三度深呼吸してから、苦しそうに言葉を絞り出す。
「……すいません……大丈夫です……」
「まさか、始末するときに何か失策でも?」
心配する瀬野に、音矢はむりやりな笑顔を作ってみせる。
「いえ、仕事のことではありません。
ちっと……鬱屈した気分を発散したくなっただけです。
今回は、なかなか現場にたどり着けなくてハラハラしましたしね」
「……本当に?」
「僕が嘘をつかないのはご存知でしょう」
「ええ、真実しか言わずに人を騙すのが趣味だということもね」
にらみ合う二人をよそに、翡翠は大声を出した。
「わかったぞ!
音矢くんがチェリー・ピッキングでごまかそうとしている内容が」
「え……」
とまどう音矢に、翡翠は得意げに話す。
「瀬野さんは下ネタが嫌いだから隠したんだな。
かわいい女の子が出るかと期待していたのに、
全裸の中年男に襲われ、押し倒されたことを音矢くんは思い出し、
いまさらながら不快になったのだろう」
「いえ、その、なんというか……あはは」
音矢は照れたように笑ってみせた。
「うふふ。なあんだ、そんなことだったの。
あらあら、大変な目にあったのねえ、かわいそうに」
それを敗北宣言と解釈した瀬野は、口先だけで同情した。
「どうだ。ボクだって、真実を見抜けるようになったんだぞ」
風呂敷包みを抱えて胸を張る翡翠に、音矢は頭をさげる。
「いやあ、お見事でした」
とりあえず、車内の雰囲気は丸くおさまった。しかし、音矢が隠そうとしたのは、翡翠が指摘したこととは別件だった。
(なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ)
ひとまず満足した音矢の意識は、別の方向に流れた。
(しかし、今回の暴走はいつもの周期より早めになっている。
なのに、呼び出したとき、瀬野さんは落ち着いていた)
(回り道をしなければならないとわかってからだ、あせり始めたのは)
(そして始末が終わったときは冷静さを取り戻し、
まんまと翡翠さんの説得に成功した。
暴走患者と戦って疲れていたので、
僕には有効な対策を講じる余裕がなかったからだ)
(もしも、暴走が起きなければ、
瀬野さんは明日の水曜日に定期監査に訪れ、
待ち構えていた僕に攻撃され痛手を受けていただろう。
今日暴走が起きたことで、瀬野さんは利益を得た)
(まさか、
そのために、瀬野さんは礼文に頼んで実験を早めてもらったのか?)
(彼女が礼文と通じているにしても、
こんな危険な実験の前倒しを受け入れてもらうには……)
(それなりの代償を支払わなければならないだろう)
(いったい何を……)
(まさか、肉体?)
瀬野が、自分の知らない男と抱き合い、口づけを交わしているところを音矢は想像してしまった。
「うあああああああああ!」
――嫉妬に身を焼く物語――
音矢の推理は半分当たっている。確かに瀬野は礼文を利用するために口で彼を喜ばせた。しかし、それは彼女の唇を礼文の唇に重ねたわけではなく、別の使い方だった。
始末が成功したとの連絡を瀬野から受け、礼文は自分が運転する車をUターンさせる。
延々と続く回り道に飽き飽きしかけていたところだったので、彼は安堵した。
(やはり、今回も無事に終わった。
毎回そうなのだから、いちいち私まで出勤する必要はない。
次からはあの三人だけで済ましてくれないものか)
虫のいいことを考えながら、彼は帰路をたどる。
(彼女が事務所を訪れる木曜日、またあれを楽しめるな)
心地よい体験を、彼は回想した。
『それで、私は言ってやったわけよ。
〈眉毛しか特徴がないくせに!〉って。
そうしたら、その眉毛そのものが、シュンと八の字型に下がったの』
『ふむ。それは見ものだったな。
意外なところに、あの男の急所があったものだ』
『うふふ。それからねえ、
〈あんた、その濃くて真っ直ぐな二本の眉毛を見落されたときは、
知り合いにも気づいてもらえずに素通りされたんでしょう?〉とか、
〈人ゴミに混じったら、そこに居ても誰も存在を気に留めないなんて、
まるで[見える透明人間]ね!〉って追撃してやったら、
本当に、情けない顔になってさあ』
『生意気で、均分主義を冒涜するような不心得者、
殺人に罪悪感を持たない冷血漢である[音矢くん]とやらには、
ちょうどいいお仕置きだ。君はなかなかいい仕事をしたよ』
その場にいない共通の知り合いの悪口を、こっそり語る。
そんな、まるで普通の市民のような行為を、礼文と瀬野も存分に楽しんだ。
夜道をヘッドライトで照らしつつ、礼文の車は快調に走っていく。一応、前方に注意はしているが、この時代は車の数自体が少ない。そして繁華街から離れた田園地帯にはすでに歩行者もいない。農家の朝は早いので、彼らはとっくに帰宅し、明日にそなえて休息している。
だから操縦しながらも、彼には自分の思考に浸る余裕があった。
(神代細胞の詰まった瓶を彼女が持参する木曜日、また愉快な会話ができるな)
(回収石などの研究も進んできたし、[真世界への道]の規模も拡大しつつある)
(こうなれば、あのバカ親子も私の力を認めざるをえないだろう)
そんな甘い見通しが、後日打ち砕かれることを、礼文は予想していない。
【第十一章 憑依】 終わり 次回 【第十二章 星雲】に続く




