第十話
「明日は水曜日か……」
茶の間で、音矢の書いた報告書を写す手を止め、翡翠はつぶやいた。
先週の木曜日に音矢から言われた通り、一日で彼は無為に耐えられなくなった。金曜日は茶の間に来て音矢にかまってもらいながら、気分転換にビー玉をはじいてみたり、久方ぶりに松の木につるした縄バシゴで揺れてみたり、音矢の空間界面を大きな毬として転がしたりなどと遊ぶことから回復を始め、今日になるとほぼ普段通りの作業ができるようになっている。
「なに、和平案の交渉は僕がやりますから、心配いりませんよ」
洗濯物を干し終えた音矢は庭から声をかけ、翡翠を励ました。
「ありがとう……」
それでも不安は消えていないようで、翡翠の表情は暗い。
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健二は今日から昼飯を抜くことにした。空腹感は彼を苛む。しかしその苦痛の代償として、呉羽に対する後ろめたさからの解放を彼は得た。
ささやかな息抜きだった食後の散歩もやめた。死んだ呉羽に殉じて、生きている彼も楽しみを捨てる。それは彼のセンチメンタリズムを満足させた。
浮いた時間を、健二は会計学の復習にあてた。それは彼にとって辛くもあるが、ある意味心地よくもあった。
この時代の人間にとって、我が身の苦痛を耐え忍び組織に滅私奉公するのは、人としてもっとも崇高な行為とされていた。まさに今、それを遂行しているという誇りが、無職である劣等感を忘れさせてくれる。
このようにして健二は実生活の悩みから逃亡した。
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幸せな結婚生活を送るため、奈緒美はこれまで自分を磨き上げてきた。テニス部で部長を務めたのも、そのためだ。彼女は部活動によって健康な肉体だけでなく、女ばかりの中で慕われながら主導権を取る処世術を得た。これは姑や小姑と付き合う上で役立つだろう。
出席日数と成績は十分稼いであるので、卒業までの間は、学校を時々休み、苦手な分野の修行を積むことを彼女は母に願い、了承された。今日訪問したのは、書道の教室だ。
1930年〔光文5年〕というこの時代、eメールなど影も形もない。それどころか、紙の文書であっても、すべて手書きで作成しなければならないのだ。和文タイプライターという機械はあったが、あまりにも複雑な操作が必要なため、一般家庭では使われていない。
だから、良家の妻となれば、親戚や知人への時候の挨拶に年賀状、中元や歳暮の礼状など膨大な量の文字を自分の手で書くことになる。もちろん重要な相手には当主である夫が直筆で書くが、それ以外に出すものは妻が代筆するなどして手伝わなければならない。宛名書きだけでも相当数だ。
外部に出す手紙は、いわば家の顔となる。それを早く大量に、なおかつ美しく書くために、奈緒美は修行している。
10月14日火曜日、書道の師匠宅から出た奈緒美は、自家用車で帰った。時刻は午後5時45分。
「姉さま、お帰りなさい」
彼女よりも早く帰宅した真奈美が出迎えてくれた。
「ただいま、マナちゃん。あら、髪の結び方を変えたの?」
彼女はリボンを結ぶ位置を下げ、束ねた髪がふんわりと耳を覆うような形にしている。
「似合うわよ。かわいい」
「……ありがと。でも、変えたのは、昨日からなんだけど」
「あら、ごめんなさい。うっかりしちゃったわ」
「いいよ。気にしないで」
妹は出迎えるだけではなく、そっと寄り添うようにして、会話しながら奈緒美の部屋までついてくる。まるで、姉妹の仲がこじれる前のようだ。
「どうしたの? なにか話したいことがあるの?」
「……うん」
小さくうなずく妹を、奈緒美は自室に招き入れた。
「あら、なにを持っているの?」
「とても……とても大事で、重要なものなの」
真奈美は、白い紙に奇妙な文字と図形のえがかれた札を、そっと胸に抱く。
「これを使わなければ、うちは大変なことになる。
だけれど、わたしが言っても、みんなバカにして、聞いてくれない……
でも、姉さまの言葉なら」
どうやら、また心霊趣味の虫が動きだしたらしい。
奈緒美はそう思った。
「いいわ。相談にのってあげる。
お着換えする間に、事情を話してちょうだい」
理由はどうであれ、ずっと心を閉ざしてきた妹が、昔のように自分に頼ってくれる。それが奈緒美には嬉しかった。
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「神聖なる器……ですか?」
四人の小間使いたちは、きょとんとした顔で真奈美を見た。
「そう。この神聖なお札を張った器、この場合はヤカンね。
それからそそがれた、
特別な力の込められた飲み物を体に入れ、清めるの。
そうすれば、怨霊の餌食にならずにすむのよ」
礼文にもらった札を張り付けたヤカンを、真奈美は胸の前にかざす。
「……えー、と……」
小間使いたちの目は真奈美ではなく、その傍に控えた奈緒美に向けられる。
「わたしからもお願いするわ。飲んであげて」
「お嬢様がそうおっしゃるのでしたら」
奈緒美が右手で持った盆の上から湯呑をそれぞれ取り、真奈美に注がれた番茶を小間使いたちは飲む。
芹川家の次女が仰々しく捧げているのは、大型のヤカンだ。それは家人の喉を潤すため、すぐに飲めるように番茶を作り置きするために使われている。茶を入れる容器も、植木職人などの訪問者や奉公人など身分の低い者に使わせるため大量にそろえてある安物の湯呑でしかない。
奈緒美も小間使いたちも、そのように認識している。だから、気軽に勧め、受け取るほうも警戒しない。
「使った湯呑は、ここに置いてね」
奈緒美が左手で、何ものっていない盆を差し出す。
「はい」
小間使いたちは言われたとおりにした。
「それでは、わたしたちは仕事に戻らせていただきます」
夕食の支度などで忙しい彼女たちは、真奈美と押し問答をして時間を無駄にすることを惜しんだのだろう。とくに抵抗することなく要請を受け入れてくれた。もちろんそれは、付き添いの奈緒美に配慮してのことだ。いつもなら、むかっ腹を立てて逃げ出すところだが、今日の真奈美は静かに微笑んだ。
「次は、操縦手さんと書生さん……」
そのようにして、芹川家の奉公人たちは真奈美の勧めるものを疑いもせずに飲みほした。
使い終わった湯呑を奉公人控室に置くと、真奈美は家族用の湯呑を盆に乗せ、姉の付き添いで母と弟にも番茶を飲ませた。
「でも、お父さまには……」
奈緒美は書斎のほうに目を向けた。近頃の父は、そこにこもることが多く、食事の支度ができるまで出てこない。
「ちょっと、わたしが頼んでも無理だと思うの。ごめんなさいね」
「ううん。いいの。これで目的は果たされた。
[秘密の首領]さまのお告げ通りだわ」
「なに、それ?」
「ふふふ。ないしょ」
無邪気な表情で笑ってから、真奈美は盆の上にある最後に残った湯呑にヤカンから番茶を注いだ。これは奈緒美が普段使う湯呑だ。
「さあ、姉さまも飲んで。
わたしは一番最初に飲んだから、これで儀式は終わる」
「はいはい」
番茶を飲んだ奈緒美を見て
「やったあ!」
真奈美は歓声をあげた。
「あとは待つだけよ。姉さま、ありがとう!」
ヤカンと盆を持って片づけに行く妹を見送って、奈緒美も自室に向かう。
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皆に飲ませた薬が効くまでの間に【魔術師への階梯】と表紙に書かれた小冊子を真奈美は読みかえしている。これは昨日礼文にもらったものだ。そのときのことを真奈美はふと思い出す。
『試験に邪魔が入らないように、
そして儀式の生贄を確保するために、必要なことがある。
手紙で知らせたように、
その方法を[秘密の首領]さまは君に授けてくださった』
小さな瓶を、礼文は机に置く。[秘密の首領]が調合した特別な薬だと彼は言った。
『一人につき一滴、飲み物に混ぜて与えれば、二十分ほどで眠りにつく。
その間に生贄に捧げるとよい』
真奈美は顔を上げ、時計を見た。
「ああ、そろそろね」
彼女は小冊子を机に置き、儀式にとりかかる。
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真奈美の勧めた茶を飲んでから夕食ができるまでの間、奈緒美は雑誌を読んで時間をつぶすことにする。
和机に向かい、グラビアなどを眺めているとき、なんだか頭がぼんやりしてきた。
部活を引退して気が抜けたから、これまでの疲れが今頃になって出たのかもしれない。
奈緒美はそう思い、少し行儀が悪いが机に頬杖をついて目を閉じる。しばし休息するつもりだったが、その眠りは彼女の予想を超えて深いものだった。腕はゆっくりと力を失い、上体は前に倒れていく。
そんな奈緒美の鼓膜に廊下を歩く真奈美の足音が届いたが、睡眠薬を盛られた脳は反応しない。
やがて芹川邸における大量殺人が始まった。しかし、とても静かに行われたので、誰もそれに気づかなかった。
次回に続く




