第九話
10月9日水曜日、原因不明の頭痛は、さっぱりと消え去っていた。礼文の事務所があるビルの前に来て、瀬野はそれに気づく。
痛みがない状況とは、こんなに快適なものか。忘れかけていた安楽を取り戻し、瀬野は生き生きと階段を上る。
「今日は元気そうだな。なにかいいことでもあったのかね?」
礼文は珍しく、紅茶とクッキーで瀬野をもてなした。
「さあ、遠慮しないでいい。どうぞどうぞ」
「……ありがとう」
瀬野は紅茶の香りを確かめる。特に薬などが入っている形跡はない。
次にクッキーを取り、観察する。直径が4センチほどの薄く丸い形で、全体にキツネ色の焼き目がついた菓子だ。異物の混入も特にないと瀬野は判断した。それでも用心して、彼女は小さめに一口かじる。
ゴジャリ
口の中で、およそ食品が立てるはずのない音がした。次に理解できない味が脳天を突き抜ける。
あわてて瀬野は傍らの革バッグから鼻紙を出し、口の中の異物を捨てた。
「何よ、これ!」
「もらいものだよ。昨日、中心となる会員の研修を兼ねて、
[真世界への道]の運営会議を」
礼文の口にした単語が、彼女を刺激した。
「[会議]なんて言わないで!
[会議]なんて大っ嫌い!
[会議]なんてこの世から消え去ってしまえばいいのよおお!」
絶叫する瀬野を、礼文はなだめる。
「おい、どうしたのだ?
君は元気になったが、普段と違い、感情的になりすぎだぞ。
なにかあったのか」
「……」
指摘されて、彼女は反省する。
「そうね。昨日、ちょっといろいろあって……つい。ごめんなさい」
「なに、かまわないよ。
私はただ、予想外の反応に戸惑っただけだ。菓子の味に怒るならともかく」
「……つまり、確信犯なの!」
瀬野は怒りを再燃させたが、これは期待していた反応なので礼文は喜びをもって受ける。
「[広義の]だな。 もっとも、私は狭義のそれでもあるのだが」
物騒な自白を聞いたが瀬野は聞き流し、自分にかかわることを問い詰める。
「とんでもない味だとわかっていて、私に食べさせたのね!」
「会員からの差し入れなのだが、
その場の流れで私も口にせざるを得なかったのだ。
君も[真世界への道]にかかわっているのだから、
均分に被害を受けるべきだろう。
もちろん、音矢くんとやらもだ。
彼の分はこの紙袋に入れておいたから、
次に行くときにおすそ分けをしてやりたまえ」
翡翠については、なにも彼は言わなかった。礼文は均分主義を否定されたことで音矢を憎んでいるが、翡翠に対してはとくに悪感情を持っていない。それどころか無関心に近い。瀬野の雇い主である入谷弁護士によって、翡翠の能力を実際よりも低く伝えられているからだ。
「ありがとう。いただくわ」
礼文が翡翠を無視することに、瀬野は抗議しない。自発的に何もしようとしない水晶はいらないから交換してくれなどと[真世界への道]に要求されたら、彼女のもとから翡翠が奪われてしまう。それは瀬野にとって都合が悪い結末だ。
◆◆◆◆◆◆
翡翠が空間界面から出てきたのは、昼ごろだった。
「…………」
一晩おいて味が良くしみた肉じゃがと、七輪の炭火であぶって香ばしい焦げ目がついた握り飯を前に、翡翠は無言でいる。
「…………………………」
音矢はそれを見守りながら自分の分を食べた。
「……………………………………っ!」
彼が最後の一口を飲みこんだ時、ついに翡翠は目の前の握り飯に手を出した。
「……」
それでもためらうが、とうとう翡翠は口を開けてかぶりつく。
「…………美味い」
よく噛んでから飲みこみ、翡翠はつぶやいた。その目から一筋涙がこぼれる。
「無駄飯食いと言われて悔しいから断食して抗議しようと思ったが……
どうしても我慢ができない。これが[あさましい]ということなのか……」
静かに泣きながら、翡翠はもう一口かじる。
「まあ、それが生き物の哀れさというやつですよ。
同時に強さでもあります。
悔しくて悲しくて、そのせいで何かをする元気さえ消え失せていても、
腹が減る。
そこで飯を食えば力がわいてきて、
心も現実に立ち向かう意欲を取り戻す。
逆に言うと、胃が食べ物を受けつけなくなったら、かなり危険な状態ですね。
翡翠さんはそこまでいかなくて幸いです」
握り飯を食べ終わり、翡翠は弱音を吐いた。
「やはり、ボクは瀬野さんを説得できないのか……
君の励ましを受けて、頑張ってみたが、まったく歯が立たない」
先日、
『ボクは瀬野さんに真正面からお願いして、
きちんと筋が通った説明をしたうえで、
瀬野さんを納得させ、要望を受け入れてもらいたい』
そんな翡翠の言葉を聞いて、
『つまり、僕の計略はネジ曲がっているから嫌だと、
翡翠さんは感じているのですね』
音矢はつい感情をあらわにしてしまった。彼は自分の行動だけでなく存在の全てを、翡翠に否定されたように感じたのだ。
しかし、それは一瞬のこと。
『……いや、そこまでボクは……別に……』
翡翠が言いよどんでいる間に、音矢はこの状況を利用する計略を考えていた。
『あはは。いいんですよ。むしろ喜ばしいことです。あはは』
先ほどとはうって変わって、音矢は明るく笑って見せる。
『それは、翡翠さんが僕と違う方向に進化し始めたことを表していますからね。
いわば、自立の兆しです』
成長をほめてから、音矢は翡翠に正面攻撃を勧めた。
『そろそろ、翡翠さん本来の戦略を模索する時期が来たのでしょう。
なに、失敗しても命が取られるわけではなし、
次の訪問時、
おもいきって正面から自分の思いを瀬野さんにぶつけてごらんなさい』
『……だが……いざ、筋が通った説明をするといっても……
どうやったらいいか、わからない』
『頭の中だけで起承転結の整った文を組むのは、上級者でないと無理ですよ。
翡翠さんは初心者なのだから、
まず自分の要求と、
それについての説明を全部チラシの裏に箇条書きにしてください。
次に、どういう順番で話していけば
瀬野さんに理解してもらえるか考えるんです』
『なるほど………よし、やってみよう』
そして、翡翠は見事に玉砕した。
「やはり、君のやり方が正しかったことが証明されたな。
これからも、
瀬野さんにお願いするときは君が主体となって計略を使ってくれ。
ボクには、やはり無理なようだ」
「いえ、あきらめるのはまだ早いですよ」
再び、音矢は翡翠を励ます。瀬野と翡翠を嚙合わせることは、彼にとって利益になるからだ。
現に昨晩の会話で、瀬野の攻勢限界点を音矢は見切った。彼女の猛攻は、30分も持たない。
(せんにもこんなことはあった。
瀬野さんが僕たちを激しく攻撃したときは長居をせず、すぐに逃げている。
疲労を自覚しているから、彼女は優勢なうちに撤収したんだ)
(だから、どうしても彼女を論破しなければならなくなったときには、
ひたすら低姿勢で耐えつつも、言質をとって退路を塞ぎ、
燃料切れになってから反撃に転じればいいとわかった。それが今回の収穫だ)
(僕は自らの手を汚さずに、翡翠さんの威力偵察の結果を受け取り、
有効に活用する目処をつけた)
(もしも強制されて闘ったのなら、
翡翠さんは敗北の責任を指揮官である僕に負わせるだろう。
でも、突撃することを決断したのは本人。
だから、僕が恨まれる筋合いはない)
(そして、闘いの経験をもとに、翡翠さんがもっと強くなってくれれば、
僕は新たな利益を得る)
音矢の内心など気づいたようすもなく、翡翠は弱音を漏らす。
「[無駄飯食い]だけではない、
[欲張り者][図々しい][恩知らず]
……あんなことを言われるのは嫌だ。
だから、もうボクは瀬野さんと論戦したくない」
「まあ、それは当然でしょう。
瀬野さんの反論は非論理的で、人格攻撃まで使うという、
議論におけるルール違反を行っていますからね。
普通だったら、話にならないと言って議論を打ち切りにするところです」
音矢は顔の前で手をパタパタふり、否定の意味を表現した。
「でも、僕たちの場合はそうできない。
なぜなら、[研究機関]の窓口は瀬野さんしかいないからです。
機密保持という名目で」
それは二人の安全を守るためだ、もし音矢たちのせいで情報が漏洩したら警察から守ってやることはできないと彼らは脅されている。だから彼女がどこに出勤して、どこから生活費を調達してくるかも、指令を与える上司の名前さえも、音矢と翡翠には知らされていない。
「だから、なんとしても彼女の立てこもる難攻不落の砦を落とし、
その奥にある上層部と接触する。
そして、堂々と待遇改善の要求をつきつける。
そのために、翡翠さんの力が必要なんです。
僕一人だけでは、
せいぜいチョロチョロと攪乱して、小さな戦果をあげるだけ。
でも、翡翠さんが力をつけて、お互いに自立した状態で協力できれば、
ものすごく可能性が広がりますよ。
僕の詭道、翡翠さんの正道、
二つ合わせればきっと勝利をつかめます」
「……そうなのか。ならば……」
音矢の説得を受け、翡翠の目に希望が宿る。
しかし、
「最終的には、僕がついていなくても翡翠さん単独で瀬野さんと対峙して、
自分の判断で作戦を遂行し、
僕たちの利益になるよう彼女を誘導できるようになってもらいたいんです」
[完全なる自立]という、あまりにも遠い目標を掲げられ、翡翠はうつむいた。
「そんなこと……できるようになるかどうかわからない。
だから、音矢くんがずっとボクと一緒にいて、
適切な指示を出し続けてほしい」
「両手をひとまとめに縛りつけたら、腕が一本しかないのと同じです。
ハサミを使うところを例にとりますと、
右手だけではうまく切れないでしょう?
左手で紙を持ち、両手で協調して動かすから、
きれいに切り抜くことができるんです。
僕は翡翠さんとそういう関係になり、
一方的に不利を押しつけられる今の状況から脱出したい」
「…………ボクも、そうしたい。だが……」
「もちろん、互いに離れていたら連携はとても難しいでしょう。
翡翠さんだけで判断した結果、何度も失敗することは予想できます。
でも、その失敗にくじけず、
原因をつきとめ、経験を次の行動に生かせば、きっと進歩できる。
僕だって、最初から計略が成功続きだったわけではありません。
何度も失敗して痛い目にあって、
でもあきらめずに挑戦して、
やっとなんとかうまくいくようになったんですよ」
翡翠は音矢の言葉を聞き、その意味を考え、
「わかった。頑張る」
正面を向いて宣言した。
「その意気です」
「だが……今は……」
食べ終わった皿を、翡翠は自分の前からのける。
「瀬野さんが、次の水曜日に来る……それが気になってしかたない……
また、いろいろ言われるのではないかと……想像すると、気分が……」
その手をちゃぶ台に置いたまま、翡翠は力なくうつむいた。
「それは、僕がなんとかしますよ。
なに、負けたからって無条件降伏することはありません。
[白旗は戦後交渉開始の合図]ですからね。
瀬野さんが非道な人格攻撃をしたという弱みをついて、
こちらに有利な和平案をのませてやります」
「ありがとう……だが、ボクはそれとは別に……
なんだかとても自分が嫌になって
……なにをやっても無駄なような……
だめな気持ちがとめどなく……
自分を鼓舞するように、有益なことを考えようとしても、
頭が真っ白になって……」
言葉を濁す翡翠の掌をちゃぶ台の上から拾い、音矢は自分の両手で優しくつつむ。
「まあ、敗北の衝撃で心が弱り、
不安と無気力に襲われるのはいたしかたありません。
そういうときに、無理をしてジタバタ悪あがきするとかえって回復が遅れます。
むしろ逆をついて、
[絶対に何も考えず、ずっと動かないでいるぞ]と決めこんで、
横になってボーっとしていれば、
かえって何かしらやりたい気持ちがわいてくるものですよ」
しばしの間、翡翠は音矢の手からぬくもりを受け取った。
「……」
やがて、翡翠はそっとその手を外し、立ち上がる。
「では、部屋で休む」
トボトボと茶の間を出ていく小さな背を音矢は見送り、心の中で声をかけた。
(翡翠さん。これを苦にせず成長して、
僕への依存から離れて自立してください。
そして、
いつかは瀬野さんと二人で仲良く留守番できるようになってくださいね)
それは音矢にとって、とても必要なことだ。
(たとえ、瀬野さんと交渉して僕が有給休暇を獲得できても、
翡翠さんがくっついてきたら、花街で遊べないから)
(実家への仕送り分を引いても、
僕は衣食住コミで[研究機関]に面倒見てもらっているから、
給金がだいぶたまった。でも、使う機会がなければ意味がない)
音矢は翡翠の説得に成功し、大いに満足する。
◆◆◆◆◆◆
瀬野を送り出してから、今朝届いた大判封筒のことを礼文は思い出す。まだ提出期限ではないが、礼文のもとに真奈美から絵が届いたのだ。画用紙に絵の具で、礼文が指定した画題通りの絵がかかれていた。
(やはり、女性のほうが几帳面なのだろうか。
由井くんのように真面目すぎるのは困りものだが)
事務所で礼文は、芹川真由美が送ってきた手紙を順番に読み返す。
(主として、出来の良い姉に引き比べての劣等感があるな)
最近の手紙では、親友だと思っていた二人が、姉の回し者だったと知って傷ついたと愚痴をこぼしている。
(そして、自分たちに奉仕する者を雇うことが可能な、
資産家の娘に生まれたゆえの悩みか)
一応、真由美に個室は与えられているが、そこから一歩踏み出せば家族以外の人間との付き合いを強制されるのが辛いと彼女は訴えていた。使用人たちはみな姉を崇拝するあまり真奈美の世話をなおざりにしている。自分を見下す者の中にいるのはとてもつらいそうだ。
(私も、その件で悩んだ)
礼文も貴族の子として育ったが、今回の場合は彼が過去に体験した悲哀とは関係ない悩みだ。
彼女の家に住んでいるのは、父、母、姉、弟に加えて、書生や自家用車の操縦手に、家政婦長、衣類係家政婦、調理係家政婦、それとは別に炊飯係、そして小間使いが4人。真奈美と家族と使用人たち、総勢15人が同居している。
住みこみの使用人がいない、こじんまりとした家庭だった、これまでの実験台とは違う。真奈美が同居人を順番に殺している間に誰かが逃げて、警察を呼ばれたらすべてが台無しになるだろう。
だからこそ、これまでは対象から外してきたのだ。しかし、[真世界への道]の会員で、実験台にふさわしい熱心な信仰を持ち、なおかつ近所の住民から邪魔されずに目撃者の始末と実験台の処分が行える広い家を持つ者は少なくなってきた。
(だから、私は解決策を考えてやった。
それを彼女に授けてやろう。[秘密の首領]の名のもとに)
(策を書いた手紙を今日中に投函すれば、明後日の土曜には届く。
その手紙で月曜日、
学校が終わったら帰宅せず直接ここへ来るように指示し、
神代細胞を投与する)
芹川姉妹の通う女学校は、銀座のすぐ近く、内幸町にあった。
(そうすれば火曜日の夕方ごろに暴走するだろう)
すでに、神代細胞が暴走することは礼文の中で規定事項になっている。
(ちと忙しいが、ぜひに、と頼まれたからな)
瀬野は、水曜の定期監査前に実験を行ってくれと彼に頼んだ。喧嘩別れをした翡翠に合うのがきまり悪いと感じた彼女は、暴走した患者の始末にことよせて、うやむやにしてしまおうと目論んだのだ。
いつのまにか瀬野も、音矢が暴走患者を倒すことを当然と考えるようになってしまった。始末に失敗して帝都が壊滅など、不安になる要素を彼女は意識から追い払っている。
(彼女が提示した[交換条件]は、ひさびさに気持ちの良い体験だった)
(これからも、ちょくちょく楽しみたいものだ)
危機感を欠いているという自覚もなく、礼文と瀬野は自分に都合のいい未来を夢見ている。
次回に続く




