第六話
徴兵されて以来、健二は会計とは無縁の生活をしてきた。だから、教科書と参考書とソロバンを押し入れから出して、彼は決算書の作成法を復習している。
1930年〔光文5年〕。まだ会計ソフトが入ったパソコンどころか、電卓すらない時代だった。例えば茶菓子代などの諸経費や集金した会費の合計額を求めるとしても、ソロバンなどを使い全てを人力で計算しなければならない。
松木健二は立ち上がり、伸びをする。
「ふう、疲れた」
好まない作業の復習を久々に行ったので、彼は肩コリを感じている。
いずれ[真世界への道]の講演会が盛況になるなら、公園の傍にある小さな集会所では座席が足りない。となれば大規模な会場を借りなければならないし、それに必要な金額も大きくなり、会計作業も煩雑になるだろう。だから今から復習し、能力を向上させていく必要がある。それは理解しているが、心情は別だ。
血のめぐりをよくするため、健二は机から離れて自室の中心に移動し、軽く体操をした。しばらく運動を続けることで、嫌な作業にとりかかることを先延ばしにする。しかし、礼文とかわした会話を思い出し、健二は再び机にむかった。
『松木くん、君には良い指導者になれる素質がある。
そんな君に事務処理のごとき些末な仕事を任せてすまないな。
しかし、今は人が足りない。だから我慢してくれ』
ありがたい言葉に、健二は胸をはって答えた。
『いえ、苦労は買ってでもしろといいますから。
どんなに辛くてもやり抜きます!』
『おお、頑張ってくれたまえ。期待しているぞ』
『はい!』
(そうだ。大きな夢をかなえるためには、並みの努力では足りない。
苦労に苦労をかさねてこそ、道は開ける)
この時代の教育を健二も受けているので、彼は苦しいことを乗り越えてこそ成果が得られると信じている。
◆◆◆◆◆◆
「怪談話? 季節外れね。真夏を過ぎて、もう秋よ」
「そりゃあ、古本屋で買った二年前の[萬文芸]の記事なんですから、
今の時期に合うわけがありません」
音矢が導いた結果、三人の話題は怪談になった。
「それには[簡易百物語]という特集があった。
ごく短い怪談を九十話掲載し、
その朗読に加えて参加者が十の話を語ればすぐ百物語になるそうだ。
これだと本来のやり方より、開催が楽になると書いてあった。
そのうえ火事を防ぐために、百本のロウソクが口絵として印刷されていて、
炎の部分に×をつけることで消したことにするという工夫もされている」
「古本屋で入手したので、すでに印がつけられていましたが、
僕が同じ絵を別の紙にかいておきましたので、
儀式に差しさわりはありません」
「ここまでお膳立てができているのだから、
本当に怪異がおきるかどうか試してみたい。瀬野さん協力してくれ」
「え……そういうのは、音矢と二人で」
「ところが、僕の持ち合わせは八つしかないんです」
「そして、ボクは小説ではなく実話怪談というものをこの特集で初めて読んだ。
だから、これに掲載されている以外の話を知らない」
「百話にはあと二つの話が必要ですから、瀬野さん、手伝ってください」
「瀬野さんは高等教育を受けていて物知りだし、
卒業した女学校に伝わる特有の怖い話なども聞いているのではないか?
ぜひ教えてくれ」
好奇心で瞳を輝かせた翡翠に見つめられて、彼女は断り切れなくなった。
「しかたないわね……いいわ」
「おお! ありがとう」
「そのかわり、なにも起きなくても責任は持てないわよ。
そもそも百物語なんて、古い迷信なんだから」
「それならそれでいい。迷信だということが確認できる」
音矢は空になった皿を集める。
「それでは汚れ物を台所に置いて、軽いおつまみを新しく持ってきます。
お二人とも、お酒を飲みながら怪談を楽しんでください。
朗読役は僕がつとめますよ」
テキパキと働きながら、音矢は内心でほくそ笑む。
(翡翠さんも協力してくれたし、あとは仕上げだけだ。
気を引き締めてがんばろう)
彼は計略を着々と進行させていく。
◆◆◆◆◆◆
食事もそこそこにすませ、真奈美は自室に戻り手紙を読み直している。
指定された画題で絵をかくことを、[真世界への道]の主催者は彼女に要求した。
〈真に世界の改革をめざす魔術師を志す者は、
[秘密の首領]から与えられたイメージを
具体的に表現する能力があることを証明しなければならない。
その行為こそが、
願望の成就を引き寄せ、新たな力を目覚めさせることに繋がる〉
礼文は前回の実験で、水上文雄の不手際で困らせられた。悩みを持つ彼に
〈具体的な解決法を自分で考え、
それを表現する力があることを証明しなければならない〉
と要求したため、あれこれ思案した文雄はなかなか着手することができず、提出期限を過ぎても絵を送ってこなかった。そのため、実験を行うことができなかった礼文は雇い主である富鳥義光氏に叱責されたのだ。だから、今回はどんな絵をかくか、あらかじめ指定し、特に“提出期限厳守”を強調した。
(ええと……
〈自分の体から糸を伸ばして使い魔を操る姿〉
をかけばいいのね)
礼文は前々回の実験台、有吉あやめの行動に注目している。彼女は[絵をかくことで、自分の望みを具体化し、神代細胞を制御する]という手法を用い、これまでの実験台の中で一番の能力を発揮したからだ。あやめは首筋から七本の触手を伸ばし、死体に差しこんで操った。また、その触手で体を支えて宙に浮き、高所からの急降下や横からの体当たりで音矢を攻撃し、負傷させた。
それを再現できるかが、今回の実験の目的だ。
真由美は古いノートの余ったページに、言われたとおりの絵をかいていく。もちろんこれは構図を決めるための下書きで、提出するのは画用紙に清書したものだ。
(使い魔……術者の命令通りに働く召使)
(それは、わたしが今、欲しくてならないもの……)
(わたしの願いを読み取って、
それを魔術師試験の問題にしてくださるなんて)
(やはり、[秘密の首領]さまの御力はすばらしいわ)
礼文の都合だけで自分が動かされているとは知らず、ますます真奈美は[真世界への道]への信頼を高めた。
◆◆◆◆◆◆
音矢は最初に十の話を読み上げた。それぞれ短くも恐ろしい物語だった。
それを聞いた瀬野の顔はこわばり、酒を飲んでいるにも関わらず血の気が失せている。
「うん。自分で黙読したときよりも、臨場感がある。
やはり音矢くんの朗読は上手いな」
彼女の様子には気づかず翡翠は喜ぶ。彼は人の表情を読むのが苦手だ。
「掲載されている話が一区切りついたので、
こんどは僕の知る怪奇談を一つお聞かせします。
それが終わればまた朗読に戻るという段取りで行きましょう。
……では、僕の祖父が友人から聞いたという江戸時代のお話を……」
普段とは異なる、暗い声色で音矢は語り始めた。
「今と違って昔は、大きな桶型の棺の中に遺体を座らせてから、
そのまま焼かずに土に埋めて葬っていたんです。
横たわる形の棺桶は、西洋から入ってきたものらしいですね。
火葬にするのも、
一般的になったのは公衆衛生を重んじる明治になってからのことです」
翡翠のために基礎知識を補足してから、音矢は本題に入る。
「その友達さんの姉は体が弱かったので十三歳で亡くなり、
家族は悲しみました。
そして彼女が大切にしていた人形をお棺に入れてあげたそうです。
ちょうど、正座をした膝の上に抱かれる形で、
市松人形は収められました」
市松人形とは、おかっぱ頭をした着せ替え人形のことだ。先に語った話の中にも人形怪談は収録されていた。それで市松人形に関する知識を得ていたため、ここでは翡翠の質問はなかった。
「通夜の間、
お棺にそなえた線香を絶やしてはいけないというしきたりがあるので、
親族は交代で遺体を安置した部屋に入って
火の番をすることになっていたのですが、
あいにく娘を亡くしたお母さんが気落ちして寝こんでしまい、
その看病と弔問客の接待をお父さんとお兄さんが行っていたので、
線香役は当時十歳だった友達さんが主体となってつとめることになりました」
「かわいそうに。まだ小さいのに、そんな怖い仕事を押しつけられたのね」
「いえ、その人も武士の子ですし、
なにより大好きだった姉のそばにいられるのだからと、
喜んで志願したそうですよ。
さて、お客と父、そして兄と母はそれぞれ会話しているんでしょうけれども、
しめやかに話すから友達さんのいるところまで届かない。
だから静かなはずの部屋なのに、
女の子の声が聞こえました。『たすけて』と」
「ふむふむ」
音矢の説明に、翡翠はうなずく。
「その人は喜びました。
姉が生き返ったんだと思い、棺桶に耳を当ててみると、
確かになにか動くような音がする。
さらに『埋めないで』との声も聞こえました」
「……」
恐怖で声も出せない瀬野は、無意識のうちに自分のバッグからハンカチを取り出し、きつく握りしめた。
「当時のことですから、電灯なんてありません。
ロウソクの光を頼りに棺桶のフタを開けてみると、
残念なことに姉は安置された時のままの姿勢、
棺桶の板に背中を預ける形でぐったりしています。
動いた形跡はない」
「それでは、なにが音を立てていたんだ」
「人形ですよ」
音矢は瀬野がその情景を想像できるように、一拍、間をおいた。
「市松人形が、救いを求めるかのように手を上に差し伸べていました。
友達さんは、一緒に埋められるのが嫌なのかと思い、
取り出してあげようと右手をお棺に入れた、そのとき」
「……ひ」
瀬野は息をのんだ。
「いきなり姉の体が前に倒れ、冷たい手が友達さんの腕をかかえ」
ここで音矢は声を張り上げる。
「『お前も死ね!』と」
「嫌ああああああ!!!!!!」
瀬野は、その声にもまして大きな声で叫んだ。
「やだやだやだ、もうやめて、怖い! やだああ」
取り乱した、彼女の眼から涙があふれ出る。
「瀬野さん! しっかりしろ!」
さすがに、ここまで騒がれたら翡翠にも事態が理解できる。彼はあわてて彼女を慰めにかかった。
「そうだ、[気つけの酒]というのがあったな。さあ、これを」
彼女の背中をなでながら、翡翠はコップの日本酒を差し出した。
「う、うええ、うっう」
泣きじゃくりつつ、瀬野はその酒を素直に飲む。
一方、音矢は瀬野の反応を冷静に観察していた。
(やっぱり、この人は怖い話も苦手だな)
自分の推理が当たり、彼女の心を揺り動かした成果は彼を満足させた。
しかし、それだけが今日の目的ではない。
音矢は計略の最終段階に入る。
次回に続く




