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第一話

(ここは……ローマ元老院の議事堂だ)

  新田音矢は夢の中で理解した。

(ああ、この懐にあるのは暗殺につかうナイフ……そう、僕はブルータスだ)

(あ、向こうからくるのは翡翠ひすいさん……

 いやシーザーか。にこにこ笑って手を振ってる)


『おーい。ブルータスー!』

(まったく、あの人は、疑いというのを知らないな。

 僕が今ここにいるのは、あんたを暗殺するためなのに)

 夢の中で音矢は、懐に手を入れてナイフをつかんだ。


『聞いてくれ。君がボクのことを殺そうとしてるなんて噂があるんだそうだ! 

 アーテミドーラスが手紙で教えてくれた!』


(え?)


『もちろん、ボクは信じない! ブルータスはボクの友達だ。

 そんなことするわけない、と、世界中に宣言してやる!』


『ああ……それは、その、えーと……あはは』

 ブルータス、つまり音矢はナイフを手放し、笑ってごまかした。


『ここ、議事堂に集まってくれている、ローマ市民諸君! 

 このとおり、ブルータスは清廉潔白な男、

 ボクの友達にして、頼りになる仲間だ! 彼を疑わないでくれ!』


 シーザーの言葉を聞いた群衆が、口々に声をあげる。

『本当かー。ブルータスー』

『本当だったら、誓えるだろー』

『ブルータス、返事をしろー。誓えー』


群衆の声がブルータスこと音矢を囲む。

その中をシーザーこと翡翠は無防備に歩み、音矢の手をとった。


 彼をまったく信頼しきったその笑顔を見て、音矢は思う。

(だめだ。この状況では、暗殺なんて不可能だ)


  場の雰囲気にのまれて、つい、音矢は答えてしまった。

『…………はい。誓います。僕はこれまでも……

 そしてこれからも、ずっとあなたの友達……そして仲間です』


《かくして、シーザーはブルータスの補佐を受け、

 ローマ帝国の支配者として盤石の地位を築くのでありました。

 めでたし、めでたし》

 活動写真の弁士が語るような言葉が、どこからともなく聞こえる。


(なんだよ、このオチは!)

 音矢は自分の寝床で目を覚ました。


(このごろ、妙な夢ばかり見るなあ)

 横向きで丸まっている体を伸ばそうとしたが、びくとも動かない。


(そのうえ、また金縛りか)

 頭のそばに意識を向けると、目を閉じているのに半透明な塊が見えた。

 それは人間くらいの大きさだ。しかし目も鼻も耳も口もなく、手足もない。薄白いのっぺらぼうが、音矢の枕元にうずくまっている。


(はいはい。オバケくん、いらっしゃい)

 とくに危害をあたえてくるわけでもないので、音矢はこの正体不明な存在に慣れてしまった。それどころか[オバケくん]という愛称もつけて、話し相手にしている。


(昨日は困ったよ。翡翠さんに象の話をしたら、ヘソを曲げられてしまった)


(上野動物園にいけば

[ジョン]と[トンキー]という象が芸を見せてくれるっていう話をした。

 その時は機嫌がよかったんだ)


[ワンリー]と呼ばれるメス象がシャム国から送られるのは1935年〔光文10年〕のことである。


(くわしく知りたいっていうから、僕は[萬文芸]の記事で読んだ話をしてあげた)


(どうも、野生の象がサバンナで自由に暮らしているアフリカと違って

 上野にいる象は鉄柵つきの建物内で飼われているとか、

 象の芸は自発的なものじゃなくって、

 餌でつって調教師にしこまれたものだということが気に障ったみたいだけど)


(そんなの当たり前のことじゃないか。

 この狭い日本で図体の大きい象が好き勝手に生きられるわけがない)


(僕はあの人を喜ばせようとして話題にしたのに……全然わかってくれないんだ)


  広い雑木林の中にたたずむ一軒家。これが音矢と翡翠の住む貸家だ。そういうわけで近所づきあいがない。

  呉服屋につとめていたころ、音矢は同じ立場の小僧や先輩の手代と雑談などをして息抜きをしていたが、この環境ではそれはできない。


 というわけで、ときおり現れる[オバケくん]は、音矢にとっては貴重な話し相手だった。






 ――さあ、昔々の物語を始めましょう。

 これは異なる世界の物語。


 そして、貪欲な鬼が獲物をむさぼる物語――






 音矢はちゃぶ台をはさみ、洋装の若い女と向かい合っている。彼女は、音矢とその雇い主を保護している[研究機関]の連絡係だ。定期的に彼らの住む貸家に訪れて、生活必需品や雑費を補充してくれる。また、研究の成果報告などもする。


「瀬野さん、この貸家、なにか因縁話でもあるんですか?」


 ちゃぶ台の向こうで、彼女は眉をひそめた。

「……なんで、そんなことを聞くの?」

「新鮮な野菜や魚が欲しくて、駅前商店街に行ったんですが」

「あら、遠いのにお疲れさま」


 音矢たちが住む貸家は、帝都の東西に伸びる甲武線の最寄駅から2.5キロほど離れたところにある。自転車は支給されていないので、徒歩では30分以上かかる。1930年〔光文5年〕の物価では、自転車は業務に使うならともかく、個人で所有するには高額な商品だった。


「僕がここに醤油とか米の配達を頼めるか聞こうとしても

 住所を言うと断られるし……買い物ついでに世間話しようとしても、

 ここに住んでるとわかると無視される始末です」


「だから、私がそういうものは届けてあげてるじゃない。不足はないでしょう」


「それだけじゃありません。

 昨日、農家のかたが便所の下肥を汲みにきてくれたんですよ」


 1930年〔光文5年〕当時、下水道の普及率は低く、多くの家庭では汲み取り式の便所を使うのが主だった。

 そして、この時代の人糞は貴重な資源であり、近隣の農家が回収して、肥溜めに入れて発酵させ肥料として使用していた。


「その人に、そろそろ梅雨がきますねとか、野菜の作柄はどうですかとか、

 いろいろ僕が話しかけても目を合わせてくれません。

 その人は黙りこくって作業するだけでした。

 料金を渡すと肥桶を積んだ馬を連れて、逃げるみたいに去っていくし」


 この時代は農業の機械化も進んでおらず、畑を耕したり、荷物を運搬するためには、牛や馬を使うのが一般的だった。なお、馬と言ってもサラブレッドのような競走用の種類ではなく、日本の在来種である小柄なものだ。


「瀬野さんから、あらかじめ渡されていた下肥回収の料金だって

 一般的な相場よりずいぶん高い。

 まるで、嫌がる農家を金で釣って回収させているみたいです。

 それになにより」


音矢は柱についた傷を指差した。それは子供が背丈を刻むような、ほほえましいものではない。

明らかにナタ、もしくは日本刀などでつけられた大きな傷が何本も刻まれている。

壁にも、一部が崩されてから補修したあとが無数にある。


「こんなありさまじゃあ、探偵趣味がなくったって、変だと気づきますよ」


「うん……ここは、その……

 ちょっといい家柄のひとで、ちょっと奇行があって……

 でも入院するほどじゃないって人が、入居することの多い貸家なのね。

 この前の人も、その前の人も……

 そのもっと前、家主さんが

 周りに人家のないこの場所に、わざわざ建てた理由が、それだから。

 自分の身内の……大勢の人がいる街中に住まわせるにはちょっと困る……

 あぶないような人を……隔離するためにね」


  瀬野は一息ついて、茶を飲んだ。

 わずかに間をおいてから、言いにくそうに口を開く。


「で、でも、死体とかは埋まってないわよ。

 自殺した遺体は毎回、ちゃんと遺族が引き取っていったから」


「つまり、なんども自殺者がでている家ですか……」

「そう。ここの管理をしているのは委託された弁護士事務所で、

 私はそこの仕事も請け負っているのよ。研究機関だけではなくて」


  一族の厄介者を保護観察し、ときには処理する仕事、その繋がりで瀬野は翡翠と関わることとなった。

  彼女は[真世界への道]とも、その仕事で関係することになったのだが、もちろんそんな裏事情は音矢に明かすことができない。



   ◆◆◆◆◆◆



  北原福子は和服にたすき掛けで空き部屋の掃除をしていた。1930年〔光文5年〕では、日本人で洋服を着るのは時代の最先端をいく女性くらいのものだ。一般の女は和装ですごすのが普通だった。

 そして、福子が着ていたのは、銘仙と呼ばれる生地で仕立てられた和服だった。それは安物であるので、主に普段着としてつかわれる。


(昔はこの部屋に、もっといっぱい長持があったわ)

 長持とは、寝具や衣服などを収納するための木箱で、長方形をしている。その気になれば人一人くらいは入る大きさの丈夫な箱だ。

 いくつか残ってはいるが、それもほとんどが空だ。いずれはこの長持自体も売られるだろう。


(柳行李もたくさんあったの)

 柳行李とは柳の枝を編んでつくられた籠だ。これは人がかかえられるくらいの大きさでかぶせ蓋となっている。衣料や文書をしまう為の家具だ。


 そのほかにも骨董品などいろいろな道具類で満ち溢れていた北原家だが、今はほとんどが売り払われている。

  敷地内に二つある蔵も空に近い。


  昔は正月が来るたびに着物を新調していたものだが、最近はそんな余裕もなく、福子は女学生時代に作った銘仙の小袖をいまだに着まわしている。安物だから、売られずに残ったのだ。友禅の晴れ着はとうにない。




  初子と福子は6歳違いの姉妹だ。その間に生まれた長男は幼いうちに亡くなった。

  1918年に流行したスペイン風邪で両親は相次いで他界し、初子と福子は二人きりになった。それでは頼りない、男の手がいるだろう。なによりも北原家存続のためだ、いうことで、遠縁の世話で姉は入り婿を迎えた。このとき、初子22歳、福子16歳。                                                                          

  両親と同じように初子も体が弱く、季節の変わり目には必ず熱をだし、寝込む。その世話をするのは福子の仕事だった。入り婿と姉は諸事節約のためと言って、奉公人をすべて解雇してしまったからだ。


  福子は初子が発病するたびに学校を休まされた。そのために出席日数が足りず、彼女は高等女学校を中退しなければならなかった。福子はそのまま姉の介護人兼、家政婦のような立場となって実家で暮らして現在は28歳。当時の感覚では完全に嫁入りの時期を逃した不運な女性であり、それは福子自身も認めていた。



   ◆◆◆◆◆◆




  音矢の普段着は、絣の着物の上にはかまをはく、いわゆる書生服だ。

  着物の袖幅は腕より広い。しかし、その袖から手を出す口は縫い閉じられているために、袖には袋状の空間ができる。この袋状の空間はたもとと呼ばれている。

 洋服と違って、着物にはポケットがない。

 それなので、小銭などを収納する場所として袂は使われていた。


 ちゃぶ台の下でこっそりと、音矢は右の袂に手を入れ、瀬野にもらったキーホルダーを手の平に握った。指先の動作でクチバシを押し、輪を引けば鎖がすぐに伸びる状態にする。


  音矢の雇い主である翡翠は、二人の話し合いに加わらず、畳の上でビー玉遊びをしている。室内だが水兵帽をかぶったままなのは、彼の額に生えた角を隠すためだ。

  翡翠はさまざまな色の球を転がしてみたり、畳に置いた球に別な球を指ではじいてぶつけるなどして楽しんでいるようだ。


  瀬野が訪れた時に音矢が声をかけたが、翡翠は顔をあげない。遊びに夢中で、呼びかけが耳にはいらないようだ。しつこく声掛けすると彼がヘソを曲げることは彼も彼女も承知しているので、二人だけで会話していた。


「すいません。爆竹がお気に召さないみたいなんで、

 その代わりに駄菓子屋でいろいろおもちゃを仕入れてきたら、

 あれに夢中になってしまって」


 瀬野はそれを聞いて、音矢の隣に身を寄せ、そっと囁いた。

「なに、音矢くんにまで頭を下げさせておいて、

 やっぱり爆竹は使わないですって? 

 まったく翡翠くんはわがままねえ。……音矢くんもそう思うでしょ?」


  彼は即座に答えた。

「いえ。まったく思いません」


「なんで? 無駄なことをさせられて、腹が立たないの?」


「爆竹のあの臭いをかぐと

 翡翠さんは咳とくしゃみが大量に出るということがわかっただけでも

 収穫ですよ。

 つぎに試す武器は、臭いのないものを探せばいいともわかったし、

 前進しています」

 音矢は慎重に発言した。


(下手にうなずくと、瀬野さんはあとで翡翠さんに告げ口をする)

(音矢くんが、無駄なことをさせられて怒っていたわよ、なんて)


「ビー玉遊びだって、翡翠さんの鍛錬には役に立ってますよ。

 最初の日は、ただ転がすしかできなかったのに、

 今日は5回に1回は狙った玉にあてられるようになった。

 手と目と、それを操る脳が連携して活動する能力が上がってきているんです」


(瀬野さんは僕たちが結託してよからぬこと……

 脱走とかをたくらまないようにしたいんだろう。)

([分割して統治せよ]は大英帝国のやりくちだっけ。

 瀬野さんは、わがままな研究者と、

 ひねくれた下働きを制御しなければならない中間管理職だから

 ……まあ、苦労もするよな)

(でも、僕としてはその計略に乗るわけにはいかない。

 翡翠さんは僕の大事な手駒なんだから)


「脳がうまく動けば、空間界面の研究だって進みますよ。

 翡翠さんは、本当に向上心のある人だから、僕は尊敬してますね」


(こういうときに正論とか建前って便利だな。

 いかにも僕が善意で動いているみたいに見せかけられる)



   ◆◆◆◆◆◆



 福子が廊下を掃除しているとき、義兄が通りかかった。

「ほら、そこの隅にも汚れがあるぞ。

 お前はまったく役立たずだな。のろまのブク子!」

 ののしってから、回れ右して自室に入る。


 彼は汚い言葉をわざわざ浴びせに来たようだ。

 最初はおとなしくしていた婿だが、何年か暮らすうちに、すっかりなじみ、今では自分が北原家本来の跡取り息子であったようにふるまっている。


「はい、もうしわけありません。ただいまきれいにいたします」

 そして、福子自身も彼に服従することに慣らされていた。


 彼女の名前をおとしめて呼ぶのは義兄だけでなない。姉までも、たまにそう呼ぶことがあった。

 たとえば福子が姉に愚痴をこぼすときだ。


 そんなとき、姉はわざとらしく言い間違える。

「ブク子、いえ、福子ちゃん、気にしないでね」


 しかし、


「あの人は悪気はないの……ただ、お仕事がうまくいかなくて……

 そのために、財産を取り崩すのに気が引けるから、

 やつあたりしてしまうのよ。

 わたしだって困ってるの。でも……あの人だけが頼りだから……わたしは……」


 そういって咳き込まれると、福子もそれ以上不平をいえなくなってしまう。


「福ちゃんはいいわよ。いつも元気で、呼吸も楽にできて。

 わたしなんか、こんな体で……

 生きているのが精いっぱいの人間の気持ちなんて……わからないのよ」

「そうね、お姉さまはお辛いでしょう」

  福子は苦しむ姉の背中をさすってやった。


  妹として、姉を介護することは当然だと、福子は考えていた。咳や熱で苦しんでいる姉を見ると心が痛む。助けてあげたいと心から彼女は望む。

  彼女の受けてきた教育も、自己犠牲の精神、無私の奉仕を最上の価値と唱えていたからだ。


 しかし、彼女は最近、自分の人生に不満を持ち始めていた。彼女の犠牲や奉仕になにも報いがないように感じられていた。


  姉の介護を始めたころは、言葉だけでも感謝があった。姉の婿も、一応身内として敬意を払ってくれた。福子にはそんな記憶がある。

 しかし今では、無給で無休の召使として扱われているように思われてならない。


 それでも、家出して職を見つけて独立する自信などもたない福子としては、黙って耐えるしかない。

 この時代、女性が経済的に自立するというのは非常に困難なことであったからだ。

  特殊な技能を持つならともかく、女学校中退で家事しか知らない世間知らずの自分には不可能なことであると、福子は思いこんでいた。


  彼女が外界と交流できるのは、米屋などの御用聞きくらいだ。


[御用聞き]とは米屋、酒屋などで、顧客の家を一軒一軒回り、商品の注文などを受けて、それを配送する担当者のことだ。付き合いによっては、業務外の要求にこたえてくれることもある。この時代は機械的な就業マニュアルはなく、個人の裁量がきく場合もあった。


  福子はある日、米屋の御用聞きから噂を聞いた。なんでも、願いのかなう薬をくれる団体があるらしい。[萬文芸]という雑誌の読者交流欄に[悩み事の相談相手を求む]と応募すると、その中に勧誘の手紙がまじってくるのだという。


  福子も半信半疑だったが、気休めにでもなればと思ってその雑誌を届けてくれるように頼んでみた。御用聞きは、こころよく引き受けてくれた。

 しかし彼女には自由になる現金がない。福子が困っていると、彼は自分の読み終わった雑誌を提供してくれるという。福子はありがたく受けた。



   ◆◆◆◆◆◆



  音矢は左手で庭に面した障子を示した。

「ほかにも鍛錬器具を外に作ったんですよ。ご覧になりますか?」

「ええ、危険がないか見せてもらうわ」


  立ち上がった瀬野の背後から、音矢はペンギン型の重りを振る。鎖を伸ばしながら、それは彼女の首筋を越し、あたえられた軌道にそって巻きつこうとする。鎖が瀬野の肌に触れる前に、彼女は左に側転した。目標を失ったペンギンはそのまま音矢の顔に飛んでくる。


「うひゃあ!」

 危険を感じた音矢は輪を手放し、しゃがむ。

 すっぽ抜けた重りは勢いよく壁にぶつかった。

 翡翠からは離れたところに落ちたのは幸いだ。


「あーらら。新しい傷がついちゃったわね」

 涼しい顔で、瀬野はその箇所を指差した。


「すいません……」

 音矢は壁を調べる。思ったより深い傷だ。

(そうか、ただ投げるよりも、遠心力があるから威力が増すんだ。

 これは使えるかもしれない。的をつくって当てる練習をしよう)



   ◆◆◆◆◆◆



 おもいがけなく、団体の代表から福子に返事が来た。その代表の名は礼文。苗字か名前かわからない。筆名のようなものだろうと、彼女は考えた。

 礼文と手紙をやりとりするうち、福子は彼の説く思想にひかれていった。


  そんな彼女に、思いがけない幸運がもたらされた。願いがかなう薬をわけてもらえることになったのだ。しかし、それには銀座のビルまで福子が出かけていかなければならない。そこで頭首である礼文と、教祖である水晶の面接を受けるのだと教えられた。

  銀座に行くには電車賃がいる。だが、福子には自由になる金もなく、外出する自由もない。そう手紙に書いた。返事はこうだった。


〈金なら君の姉とその夫が持っている。だまって借りればいい。

 そして君は鎖でつながれているわけではない。だまって出かければいい。

 押し付けられた固定概念など壊せばいい〉

〈本来の君は、自由だ〉

 それは福子が受けてきた教育と常識を覆す発言だった。


〈そもそも、君の両親がのこしてくれた遺産を、なぜ姉だけが独占する? 

 財産を均分にわけることを許さない、現在の法律が君を苦しめている。

 そのせいで、同じ血を引く姉妹なのに、

 片方が支配者、片方が奴隷となっている。

 この間違った社会の仕組みを正さなければならない〉


 自分が当然と思っていたことを否定され、福子は混乱し、恐怖した。


〈私の口頭試問に合格すれば、世界を改革する魔術師になる機会を与えよう。

 そうなれば君は、独立した人格を持つ、権利を尊重されるべき存在となる〉


 しかし、礼文の言葉が示す誘惑はあまりにも魅力的だった。



   ◆◆◆◆◆◆



  縁側に音矢と瀬野は並んで立つ。

  音矢は庭にある松を指さした。その太い枝には、縄バシゴがつるしてある。


  音矢が幼いころ、彼は傷痍軍人である[一ツ木のおじさん]と親しくしていた。負傷する前は登山が趣味だったその人から、音矢はロープの様々な結び方を教わっている。それを応用して縄バシゴを彼は作ったのだ。足をかけるための横棒は薪に使う木のなかから手頃なものを選んだ。


「ハシゴにつかまってぶらぶら揺れたり、

 上り下りして遊べば筋力の鍛錬になりますからね。

 揺れる体の釣り合いをとろうとして、脳も機能を向上させます。

 いい枝ぶりの木があって好都合でした。

 ちょうど横に伸びているし、太くて丈夫で」


  瀬野は正面に顔をむけたまま答えた。

「……そうね。丈夫さは保障するわ。

 なにしろ……大の男が、ぶら下がっても折れなかったから……」


「え? まさか、ぶら下がるって、遊びじゃなくて?」


「そうなのよ……あの枝で、二人が亡くなっているわ」

「あははははは……」

 音矢は力なく笑った。


 せっかく訪問したのだからと、音矢は瀬野に夕食を勧めた。

 翡翠に家庭的な雰囲気を味あわせてあげたい、また、音矢以外の人間との会話もさせてあげたい、という音矢の願いは受け入れられた。

 普段、米は朝にまとめて炊いて夕餉には冷や飯を食べる。これがこの時代の普通だが、来客ということで音矢はあらためて飯を炊いた。そのための米はすでに研いで水に浸してあるから準備は早い。


 夕食を共にするというのは、瀬野に好意を抱いている彼が、すこしでも彼女の滞在時間を伸ばしたくて考えた計略でもある。

 米を炊く音矢の耳に、雨音が聞こえた。ラジオの天気予報が当たったようだ。どうやら梅雨のはじまりらしい。



   ◆◆◆◆◆◆




  雨音をききながら、福子はねずみ入らずから煮豆の小鉢を出した。


  鼠入らずとは木で作られた食器棚のような家具だ。食器以外にも、作り置きの惣菜などをとりあえずしまうのにも使う。引違い戸で密閉できるようにしてネズミやハエの侵入を防いでいるのでこの名がついた。そのような環境なので、食品の乾燥などもわずかながら防げる。

  1930年〔光文5年〕当時、冷蔵庫は普及していなかった。ましてや食品保存用ラップなどは存在すらしていなかった。


  義兄は新しい商売の契約に行って留守なので、福子は姉だけに夕食を出す。自分は食べずに、姉が膳に並べられた食事を食べ終わるのをそばで控えて待つ。姉は療養食。義兄は普通食。二種類作り分けるので、材料費も手間もかかる。それなので、福子の食事は二人の残り物と決められていた。


「毎日のことで言いたくないんだけど……ブクちゃんは本当に料理が下手ね。

 この煮豆、固くて不味いわよ。アジも生焼けだし……」


  福子は姉の叱責を聞き流す。豆を柔らかく煮ないのも、魚を生焼けにするのも、姉に食事を残させるためだ。そうしないと、福子の食べる分がなくなる。

  北原家の食卓は、福子、姉、義兄、全員にとって苦痛でしかないものだった。


「ねえ、聞いてるの! ブク子!」

「……はい、お姉さま……」

  生返事をしながら、福子は[真世界への道]の教義を頭のなかでおさらいする。礼文の面接を受けるとき、きちんと答えられないと願い事をかなえる薬、真の自分を見いだせる薬をもらえないからだ。


〈普通の人間は毎日同じことを繰り返すことしかできない。人類に新しい道を指ししめし、進化させてきたのは特別な素質をもつ者。しかし、とりたてて個性のない普通の民たちは自分たちに理解できない心を恐れ非難する。そのため選ばれた民たちは迫害される〉


〈古の儀式を復活させ、世界の誤りを正し、[真世界]を築く。それがわたしたち[真世界への道]信者の目的。その道を開くのは信者の中から選ばれた、特別な素質を持つ魔術師。魔術師は現代科学を超えた力をもって世界を変革する〉


 自分が魔術師として選ばれることを福子は夢見ていた。

 その暁に、自分を苦しめてきた姉と義兄をどのように扱うかも。

 なにしろ、魔術師となる儀式には、生贄が必要なのだから。


  具体的に何を捧げるか、福子は知らない。


 しかし、かわいいイヌやネコを殺すのはためらわれる。ヘビやカエルは見るのも気持ち悪い。それなら自分を迫害する義兄や姉を犠牲にするほうがいいと彼女は思っている。それもできるだけ残酷な方法で。


 しかし、彼女は思っているだけで、実際に殺すという覚悟はない。

 ふんわりとした夢想にとどまっている行為を自分がやってしまうと、この時点で福子は予想していなかった。



  次回に続く。


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