第四話
音矢の発案は、翡翠を大いに喜ばせた。その他にも、彼は新しい実験を提案したので、さっそくとりかかる。
翡翠は火吹き竹を持ちこんで、空間界面を発動した。それの片方を左胸にあて、体に垂直に立てる。火吹き竹は緑の膜をぐっと内側から押し、繭の形を変形させる。そのまましばらく翡翠は耐え、酸素不足で気絶した。
休眠状態になったことを音矢は空間界面の外側から確認し、突き出た部分に耳をつけた。筒状の火吹き竹を伝わって、翡翠の鼓動が聞こえる。
自分の予想が当たっていたことを喜びながら、彼は畳の上に置いた目覚まし時計に目を向ける。1分間に何度心臓が打つか数えるのだ。分針の動きを見ながら、音矢は右手に持った鉛筆で鼓動の回数を[正]の字でチラシの裏へ記入する。
この作業を9回行ったところで、翡翠を覆っていた膜が消えた。反発力で浮いていた体が畳に落ちる。咳こむようにして、翡翠は呼吸を始めた。
「……どうだった?」
マブタをゆっくりと開けて、翡翠は音矢に問う。
このくらいの計算なら、音矢にはソロバンをはじく必要がない。瞬時に暗算して、彼は心拍数の平均を答える。
「1分に21回。大体、通常時の3分の1にまで落ちていますね」
「それでは、本格的に休眠できる期間の説明がつかないな。
君の推測だと、ボクは最長で1か月くらい空間界面内にいたことになる」
音矢は翡翠から、孤島で休眠したとき、その前後で植物がどのように変化していたかを聞き、期間を推測した。
「代謝を3分の1に落とした程度では
栄養と酸素の消費量が足りないのではないか」
「まあ、本当に1か月休眠していたかどうかもわかりませんし、
結論を出すのは早いでしょう。
今回は15分くらいしか経過しなかったけれど、
期間を延ばすにつれ、もっと代謝が落ちるのかもしれませんし」
「……それを確かめるには、ボクが1か月……」
翡翠は首を横に振った。
「なにもすることのない孤島ならともかく、
楽しいことがたくさんある帝都で1か月も休眠しているのは嫌だ。
この実験はとりやめて、他のことを試そう」
「そうですね。
そんなに寝ていたら、礼文がまたぞろ危険な実験をやらかしたときに
対応が遅れてしまいますし」
答えてから音矢は時計を見た。
「そろそろお昼ですね。
支度しますから、翡翠さんは出来上がるまでこれでも聞いていてください」
不器用な翡翠にかわり、ラジオのスイッチを入れてから音矢は台所に行く。
◆◆◆◆◆◆
昼食を定食屋でとったあとに、気晴らしと鍛錬を兼ねた散歩を終え、礼文は事務所に戻る。外出していた際に配達されたらしく、ビルの階段脇にある郵便受けには手紙が入っていた。
ソファに座り、礼文はそれに目を通す。
差出人は松木健二。内容は講演会が終了したのち、茶話会を開きたいというものだ。その目的や手順などは詳しく書かれているが、礼文はあまり気が進まなかった。
(茶話会だと?
会員同士の話し合いなどいらない。
そのようなことを許した結果、
好き勝手な解釈で異論をとなえるものが出現し、
叛逆だの分裂だのをされては困る)
礼文は自分の経験からそのように考える。リューシャの均分団では、思想を実際の社会で運用する際、どのように行うか意見が分かれ、それぞれの支持者同士で幾度も論争が起きた。ただ意見を述べ合うだけでなく、論争はしばしば肉体的闘争に発展し、仲間同士で殺し合うまでに至った。最終的には現実派と呼ばれる党派が勝利し、礼文の属していた理想を貫こうとする派閥は弾圧され、大勢が処刑された。
(私も危うく死刑になるところだったが、
ギリギリのところで亡命に成功した。しかし、ワーニャは……)
悲しい回想を打ち切り、礼文は再び文面に目を落とす。
(会場設営だけにとどまらず、
[真世界への道]の活動に積極的に関わろうという意欲だけは買う。
さて、どうしたものか)
礼文はしばし考える。
(そうだ。講演会の打ち合わせをする際に、
松木と、彼のもとに集まった委員たちを重点的に教育して、
茶話会で他の会員たちを指導するようにさせよう。
私の理論のみを復習させ、より思想を堅固にするのだ。
もしも異論をとなえるような奴がでたなら、この者たちに[訂正]させよう)
この場合の[訂正]とは通常の意味ではない。
肉体に痛みをあたえて間違った思想を破壊してから、正しい思想を注入することによってで健全な状態に導く行為を、均分主義者たちはそう呼んでいる。礼文も自分たちに反対する現実派と戦い、一時は勝利したので、捕虜を訂正し理想の素晴らしさを教えてやった経験を持つ。
その記憶が、彼の脳裏に浮かんだ。
(松木健二は、23歳だと言っていたな)
(あのころ、私もそのくらいの年齢だった……)
(均分主義革命を夢見て、
幼いころからの友にして頼りになる仲間であるワーニャと肩を並べ、
皇帝に戦いを挑み、そして勝利した)
(首都パーテルグラードで暴動が起き、
鎮圧を命じられた私は、逆に兵を率いて反乱を起こし、
それは全土に広がった。そしてついに革命政府が樹立したのだ)
(……楽しい、輝かしい時代だった……)
礼文ことレフが入った均分活動を行う組織、[狐穴]にはワーニャ以外にも頼もしい仲間たちがいた。
(泣き虫なステパノ。
貧しい人たちの苦しみに共感し、しょっちゅう涙を流していた。
しかし、彼はどんな危険にも立ち向かっていく勇者でもあった)
(陽気なミーシャ。
当局の弾圧でくじけそうになる仲間を、明るい笑顔でいつも励ましてくれた)
(仲間うちで一番体が大きく、一番戦闘力にたけたイーゴリ。
いかつく恐ろし気な風貌だったが心は優しく、つねに弱い者の味方だった)
(そして真面目なアリョーシャ。
彼は医者だった。みんなの怪我や病気を治療するだけでなく、
心の悩みの相談にも乗ってくれて……とても有能な仲間だった。
歴史書も好きで、軍略に対しても造詣が深かった)
(彼らが今、ここにいて、私の手助けをしてくれれば……)
礼文は深く息を吐いた。
(かなわぬ夢だ)
(そう……彼らは現実派に捕らわれ、無残にも処刑されたのだから)
礼文の胸の中に、闇のように黒い記憶が湧いてくる。その過去は礼文にとって耐えがたいものだ。
(……ニキータ……)
だから、別の記憶を呼び起こして、彼は辛い感情から逃げる。
(ニキータ・セルゲーエヴィチ。あいつが裏切り、私たちの居所を密告した)
(私たちに均分主義を教育した[親狐]であるにもかかわらず、
情勢が変化すると、自ら育てた[子狐]を犠牲にして、保身を図ったのだ!)
礼文の試みは成功し、黒い闇は彼の心から去った。すがすがしい正義の怒りに満ちた彼は、拳を握りしめ復讐を誓う。
(私がこの国を真の均分主義国にならしめたなら……
次に現実派の支配するソユーズ連邦を攻め滅ぼし、
ニキータを捕らえて極刑に処す。
そして、やつらの圧政に苦しむ人民を解放し、幸福な国家を作り上げてみせる)
礼文の野望は、とどまることを知らない。
(そのためにも、組織作りが必要だ。
松木くんを激励し、より一層働いてもらおう)
彼は応接室から事務室に移動した。[真世界への道]会員名簿を取り出し、松木健二の電話番号を礼文は確認する。
◆◆◆◆◆◆
ふすまの向こうから、家政婦が健二を呼ぶ。礼文と名乗る人から彼に電話が来たそうだ。奇妙な名前を聞いて、彼女は警戒しているように見える。
玄関先の台に置いた電話機へ、健二は向かう。その後ろを、彼女はそっとついてきた。ふりかえって、健二は家政婦に説明する。
「礼文さんは、このあいだ加入した親睦会の代表さ。
世間一般にはない名前だけれど、それはペンネームみたいなものだから……
俺はそこの幹事を引き受けたので、打ち合わせの電話だろう」
「そうでございますか」
家政婦は平板な声で答え、電話機の横を通って玄関の上がり框に腰かけ、靴磨きを始めた。どうやら、言わずもがなの弁解をしたせいで、かえって不審がられたようだ、仕事をする名目で玄関に居座り、電話の内容に聞き耳をたてるつもりらしい、と彼は推理した。
(追い払おうか)
(いや、そんなことをすれば
『健二さまには、何やら後ろ暗いところがあるようです』と
父に密告するだろう。
このまま放置するしかない)
不快感を抱えて健二は受話器を握った。
しかし、礼文の力強い声を聴いて、健二の心は晴れやかになる。内容も、特に家政婦に聞かれても問題のないものだったので彼は安心した。
茶話会開催は礼文に了承された。次回の講演会から、それは行われる。ただし、そのためには会費を徴収する必要がある。となれば、その合計額と会費の使途に対応する領収書を添付した会計表を作成し、会員から監査の請求があったときは直ちに開示しなければならない、と健二は説明された。
礼文の話によると、団体を立ち上げるときに一番問題になるのが、会費関係の不正だそうだ。彼が若いころに所属していた団体では幹部に対する会費横領疑惑が持ち上がったことがある。しかし、素人の集まりだった幹部はきちんとした会計表を作っていなかったので潔白を証明することができなかった。それで総会が荒れ、あわや組織消滅の危機に陥るところだったという。
その仕事は高橋太一がいれば、彼にまかせることができただろう。前回の話し合いでは彼が会計係に決まっていたからだ。
しかし、次の実行委員会に、太一は来ない。笛田春子と鹿島吉次郎もだ。
礼文との会話を終え、健二はまた部屋にこもる。座布団を敷いてその上にアグラをかき、考えを巡らせた。
「ぎっくり腰になった鹿島さんは高齢だから仕方ないとして、
高橋くんと笛田さんが抜けるのは痛いなあ」
この若い二人は、それぞれ自分の仕事が忙しくてこれからの活動に参加できないと、事務所への電話で礼文に脱会の意思を伝えてきたそうだ。
「公園ではそんなそぶりは見せなかったけれど……
俺たちが盛り上がっていたから、遠慮して言い出せなかったのかな?
せっかく世界を改革する仲間になってくれると期待したのに……」
太一は建築事務所で経理関連の仕事もしている。会計係にはもってこいの人物だった。
晴子はその気配りで、会の運営を円滑にしてくれただろう。
そのような実務面だけではなく、健二は二人の人柄も気に入っていた。
「まったく残念だ」
礼文には、健二が会計係も兼務してほしいと打診された。実業学校卒業という彼の経歴をみこまれてのことだ。たしかに実業学校で経理の基本は学んだことはあるが、健二はこの科目があまり好きではなかった。
「しかし……」
公園で役職を決める会議を開いたとき、太一の補助として伊吹俊樹と由井香にも会計監査を頼んでみたが、そもそも数字を扱うのが苦手だから英文学部や国文学部に進学したという理由で二人ともに断られた。
「やっぱり……俺がやるしかないのかなあ」
健二は肩を落とし、押し入れに目を向けた。
◆◆◆◆◆◆
昼食後、お茶を飲んでいる音矢と翡翠のそばで、ラジオが殺人事件のニュースを報じている。
『……次男、水上文彦くんの担任が昨日、
無断欠席をした彼の自宅を訪問したところ、異変に気づき警察に通報……』
「ああ、とうとう発見されてしまいましたか」
27日、土曜。音矢と翡翠は、礼文に騙されて神代細胞の実験台にされた水上文雄を殺した。
神代細胞には二つの種類がある。翡翠の体から採取される翡翠細胞と、彼の双子の兄である水晶から採取される水晶細胞だ。
空間界面を発生させる翡翠細胞に対し、水晶細胞は投与された者の体を強化し、怪我を即座に修復する機能を持つ。しかし、増殖が進むと、脳を侵食し精神を支配する。暴走した水晶細胞に操られた人間は、他人を襲い新しい罹患者にし、被害を拡大させようとする。
音矢たちはそれを防ぐため、水上文雄を殺した。
その一方で、文雄は音矢たちに処分される前に、自分の父と弟を殺していた。これは礼文が目撃者を始末するために、[真世界への道]の会員である文雄に指示していたからだ。願いがかなう薬と称して神代細胞を投与し、儀式の生贄という名目で家族を殺させる。暴走患者を処分しに訪れる音矢たちのことは、[真世界への道]からの使いだとあらかじめ実験台に教えておき、魔術師になるための試験だといって反撃させる。それが今までの手口だった。
『……警察の捜索で、四人の遺体が発見され……』
「あれ?」
「お?」
音矢は記憶を探る。
「文雄さんに見せられたのは、死体が二つでした。
その後、本人も死体になって、合わせて三つ……」
翡翠は首をひねった。
「あと一つは、どこから現れたんだ?」
次回に続く




