第二話
今日の昼食はコロッケを挟んだサンドイッチだ。それは松木健二の好物だったが、なぜか喉に詰まるような気分になり、彼は食事を楽しめなかった。
午後、健二は近所を散歩した。秋晴れの下、さわやかな風が季節の花の匂いを運んできた。心地よさを感じながらも、なぜか心の隅になにかチクチクしたものを感じる。
理由を考えながら、空を見上げてみる。青い空いっぱいに、たくさんの白い綿をちぎって並べたような雲がうかんでいる。それを見て、呉羽もやはり秋の空を好んでいたという記憶が浮かぶ。
(そうだ……あの子はもう食べることも飲むこともできないんだ。
美しい空を見上げることも、金木犀の匂いをかぐことも
……なのに、俺はのんきに散歩なんかして……)
無残に殺された14歳の従妹を思い、健二は自己嫌悪を感じる。彼の思考はそこで止まった。自分が生活を楽しむのに罪悪感を覚える本当の理由から、健二は逃げている。
帰宅して、健二は自室に向かう。フスマの前に、小型の柳行李が置かれているのを彼は見た。彼はそれを部屋に運び入れてフタを開ける。
中身は、洗濯してたたまれた下着や靴下などだ。彼はそれをタンスの引き出しにしまう。衣類をのけると、柳行李の底に茶封筒が現れた。中身は現金だ。直接渡すと健二がきまり悪がるだろうと、心をくばり、健二の母はこのようにして小遣いをくれる。
無職である彼にとって、ありがたい収入だ。しかし、健康な成人男性なのに、働かずして親から養われているという事実を突きつけられるのに変わりがない。心の疼きを感じるが、健二はそれを解消するための行動に取り掛かれないでいる。
彼は部屋の真ん中に腰を下ろし、物思いにふけった。
姉夫婦は会社の跡取りを狙う姿勢をこのごろ隠さなくなったので健二は不快だが、その二人がかばってくれるので、現在の彼は労働を強制されない。恩を売ると同時に健二に経営実務の経験を積ませまいという計略であることもわかっているが、[真世界への道]で活動する時間を確保するには彼らの思惑にあえて乗るしかない。それが健二には悔しい。
1930年〔光文5年〕の日本は統帥権干犯の追及で政界は揺れ、不景気で財界も混乱している。
そんな社会状況の中、父が経営している会社の後を健二が継いだら、社長としての責任が彼にのしかかるだろう。また、彼は同族経営の不透明さに反発しているが、重役である姉夫婦と管理職として補助する義兄の親戚たちを追放しておいて、自分だけで会社を運営する自信もない。
会社を継ぐか継がないか、二つの道が健二の前にあり、どちらを選ぶか判断を迫られている。
だが、継げば経営方針でまた二つの分岐が出現する。もし継がないほうを選択しても、こんどはどこに就職するかという選択肢が現れる。健二にとっては、未来というものが永遠に続く迷路のように思えた。
「ああ、いくら考えてもきりがない。気分転換しよう」
机に向かい、健二は[真世界への道]からもらった小冊子を広げた。これは彼が入会する前に発行されたものだ。[兎狩り]の打ち合わせをしたときに、バックナンバーを一揃い礼文からわけてもらった。会が発足したばかりのころ作られた小冊子は魔術愛好家むけの蘊蓄話が中心だ。世界各国の魔術知識を論文風に書いた文章も、健二は興味深く読んだ。
しかし健二が本当に求めているのは、[真世界への道]の教義と、組織の綱領だ。会員がいかに行動すべきか指示してくれる綱領は、小冊子が発行されるたびに、毎回少しずつ増えている。象徴となる旗も決まったそうだ。[秘密の首領]の肖像画も近日中に公開されるという。健二は大いに期待している。
その記事をもう一度読みたくなった。古いほうを本棚にしまい、次に彼は最新の小冊子を取り出す。
[真世界への道]について学んでいる間、健二はいつも感じている[ぼんやりとした不安]を感じなかった。
([真世界への道]の主催者さまは
[秘密の首領]という高次存在から啓示を授かっているそうだ)
(この地上で起きていること、
それも現時点にとどまらず過去も未来もすべてを見通す力が、
[秘密の首領]さまにはあると、礼文さんは言う)
(だから、なにをするにも礼文さんを通じて主催者さまの指導をあおぎ、
くだされる指示に従って動けば間違えることはない。
なぜならそれは[秘密の首領]さまの保証付きなのだから)
(俺が進むべき道からそれたら、すぐに方向を修正してもらえる。
もう、あれこれ思い煩うことはないんだ)
心が満たされた状態なら、あまりの都合のよさを疑っていただろう。
しかし今の健二は [秘密の首領]とやらが掲示したという教義に心酔している。
無数の選択肢に悩むことに疲れていた健二は、正しい指示を与えてくれる全知全能の超人を求めていた。 だから常識的な批判精神を麻痺させ、飢えたものがカビの生えたパンにさえ食らいつくように[真世界への道]へ、すがったのだ。
いわば《人は自分が見たいものだけを見る》といった心理状況だった。
◆◆◆◆◆◆
カラン カラン カラン カラン
授業の終わりを伝えるハンドベルの音が、女学校の廊下を移動していく。
1930年〔光文5年〕、この時代の学校にはチャイムを全校放送する設備などない。授業の開始や終了の時刻であることを知らせるのは、ベルを手にした学校主事員の仕事だった。
「それでは、これで終わる。
来週の授業までに副読本の89ページから91ページを訳しておくように。
ただし、有名な話だからって、翻訳された日本語版を丸写ししてはだめだぞ。
【不思議の国のアリス】は、しばらく読まないで、
ちゃんと辞書を引いて自分の力で和訳しなさい」
「はーい」
生徒一同の礼を受けて、教師は退出する。教科書やノートなどを机にしまった真奈美は急いでバッグから本を取り出し、机の上で開く。
授業に挟まれた十分間の休みでも、級友と会話をしたくないからだ。
「あら、芹川さん。なにを読んでいらっしゃるの?」
そんな思惑を踏み越えて話しかけてくる者たちがいた。
片岡美也子と、板谷万里江だ。
しかし、ここで無視すると[自分が真実を知ってしまった]ことがバレてしまう。
「上田秋成の雨月物語よ」
だから、平静を装って答えた。
「古典かあ、むずかしそうねえ」
そう言って、机のそばに立った美也子は、椅子に座る真奈美に笑いかける。
「それには、いろいろな幽霊のお話が書いてあるものね。
芹川さんは、休み時間も心霊についてお勉強なさっているの。偉いわあ」
反対側からも、表面だけは丁寧な言葉が万里江から投げかけられる。
「これからも、怨霊からわたしたちを守ってね」
真実を知らなかったころならば、こう言われたら素直に真奈美は誇らしく思っただろう。しかし、今の彼女には裏の意味がわかる。
「……ええ」
かろうじて、そう返事したときには、話しかけてきた二人はすでに去っていた。
やりきれない思いで、真奈美は本に目を落とす。だが、文の内容は入ってこない。休憩時間が終わるまで、ただ彼女は印刷された文字の形を眺めていた。
◆◆◆◆◆◆
音矢が電灯の笠にたまったホコリを掃除しようとしたとき、翡翠が教科書を持って茶の間に来た。
「地理の勉強をしていたら、わからないことがでてきた。
歴史の教科書を読んでも載っていない。教えてくれ」
「はい、いいですよ」
音矢は掃除道具を部屋の隅に片づけて、それと入れ替わりに、端によけていたちゃぶ台を中央に出す。
「なにがわからないんですか?」
「満州と、その近辺のことだ」
「ああ、教科書には明治維新からの
文明開化、富国強兵あたりまでしか載ってませんからね」
「なぜ、明治のそれ以降、
そして大正から光文にいたるまでの経緯を
歴史で一つながりに教えてくれないのだろう」
「そりゃあ、維新から今までには
政府にとって都合の悪い事件が多々あるから、
わざわざ知らせたくないのでしょう。
例えば、僕の好きな軍歌の[抜刀隊]のもとになった事件である
[西南戦争]は、
維新の立役者、江戸城無血開城の功績者でもある西郷隆盛が、
こともあろうに政府に反逆を企てたものですし、
他にもいろいろと、つつかれたくない件があるみたいですからね」
「[みたいですからね]と伝聞で言う……つまり、君も教わっていないのか」
「ええ、だから僕の歴史知識では
明治の中ごろから今までに至る経緯が空白地帯になっています。
さすがに日清、日流の戦争くらいは耳学問で知っていますし、
正式に教わっていない部分は
年配の人から聞いたりして補おうとはしていました。
でも、それだけでは完全とは言えません」
これが1930年〔光文5年〕の教育事情だった。
「まあ、その間に発行された新聞を集めて、
じっくり読んでいけばわかることでしょうが、
これまでそんな暇がなかったんですよ。
そういうわけで、満州とその近辺については断片的な知識しかありませんし、
ひょっとしたら不正確かもしれませんが、どうします?」
「とりあえず、君が知っていることだけでも教えてくれ」
「それでは及ばずながら、講師をつとめましょう」
音矢は翡翠から受け取った教科書と地図帳をちゃぶ台の上に広げた。
「つまり、日清戦争と日流戦争に勝てたから、
日本は満州鉄道の権益と、旅順港の使用権、
そして中原大陸の人が[関東]と呼んでいる、
この周辺地域の租借権などを手に入れ、
自国の軍隊を駐留できるようになったんですね。
そうすることで、新羅半島にフタをしたと」
「フタ?」
音矢は地図を指でたどる。
「ほら、中原大陸から日本に向けて、新羅半島が突き出しているでしょう。
ここを通路にして中原民衆国やソユーズ連邦が攻めてきたら困るから、
付け根を抑えて通せんぼしたわけです。
そして、もしも両国がここを使わずに自分たちの港から日本海を船で渡るなら、
佐渡島や対馬、壱岐の要塞から海軍が迎撃する。
そういう防御態勢を政府は作り上げました」
「なるほど。だから軍艦を減らすというロンドン海軍軍縮条約に加わったことで、
[統帥権干犯]を言い立てて怒る人たちがいるのだな。
せっかく作った防御態勢が揺らぐから」
「そういうことです」
「しかし、フタをされてしまったら、
半島に住んでいる大新羅国の人たちが困るのではないか?」
「軍事的な通行を防ぐだけですから、
普通の貿易や留学などの交流を邪魔なんかはしてませんよ。
だから、大新羅国の人は普通に生活しているようですね。
まあ、[よその国]のことなので、詳しくは知りませんが、
リューシャ帝国に起きた均分主義革命で成立したソユーズ連邦と、
大日本帝国という強大国が二つ、
そしてかっての宗主国である清の跡を継いだ中原民衆国に囲まれたせいで、
どこの国についたら有利かと三派に分かれて論争が続き、
いまだに結論が出ていないので、大新羅国内の政治は不安定なようです。
そして国外はというと、
ソユーズ連邦は不凍港を得たいし、
中原民国は大日本帝国を大陸から追い出すために
新羅半島に基地が欲しいのですが、
両方とも内部抗争が激しくて、他所に兵を送る余裕がない。
だから、大新羅国に密偵を送り、
敵国に利しないよう、宙ぶらりんの状態をつづけるように工作している。
そんな噂もありますよ」
「なるほど」
翡翠は地図を見ていたが、やがて口を開いた。
「これは歴史ではなく、
国語の教科書に載っていた古い作文から得た知識なのだが……
なぜ、明治維新を成功させた大日本帝国が、
共に手をたずさえて欧米諸国に対抗しようとよびかけても、
中原大陸や新羅半島の人たちは耳をかしてくれなかったのだろう?
そのせいで日清戦争が起きて、
作文を書いた児童の父は戦死してしまったそうだ。
清国でも相当の犠牲が出ただろう。
もし日本と協力できていれば戦争などしなくてよかった。
あちらにとっても、都合のいい話ではないか」
「いろんな本の論説を総合して考察しますと、
あの人たちは儒教を重んじますから、
文官を尊重して、武官を低く見るようなんですね」
音矢は落語家のように身振りを入れて、演じてみせる。
「そんなところに、日本の使節が出向きましたと想像してください」
『仲良くしましょう。
私たちには西洋から得た知識がありますから、あなたたちにも提供を……』
『それよりも先に確認したいことがある。
聞くところによると、大日本帝国の政府を構成している者の出自は、
文官ではなく、武官だそうだが、それは本当か』
『はい、公家や町人も混じっていますが、大半は武官というか、武士ですよ』
『帰れ』
『ええ?』
「みたいなことがあったんではないでしょうか」
「……」
翡翠は音矢の話が終わっても、沈黙している。
(今までの情報を頭の中で整理しているのかな)
音矢はそう思い、中断していた掃除を再開しようと、立ち上がりかけた。
その袂を翡翠がつかんで止める。
彼の瞳は淡い若草色の輝きを放っていた。
「……今の! 今の、会話と連動した仕草!
とても興味深い! あれはなんだ! 教えてくれ!」
こうなった翡翠は、自分が満足するまで質問を続ける。
「あ、あはは……」
音矢はとっさに笑ってごまかしてはみたものの、翡翠からは逃れられないと理解していた。
(そうか。翡翠さんは落語をラジオでしか聞いたことがない。
だから、僕が交互に別の人間の役を表情まで変えて実演してみせたことで
好奇心が刺激されたんだ)
(よけいなことをしてしまった)
音矢は後悔したが、すでに手遅れだ。
(……こうなったら、しかたない。しばらく付き合うか)
中途半端にごまかすと、かえって後を引くだろう。だから今日予定していた作業を明日に回してでも、きっちり説明する必要がある。そう音矢は覚悟を決めた。
「それでは、音矢先生の講義、二時限目の始まり始まり、とござい。
お題は[寄席について]……?」
自分の失言を悔やむ心を隠すため、音矢はわざとおどけて見せた。
そのとき、彼の脳裏にあることがひらめく。
(まてよ)
(ここで、うまく誘導すれば)
(瀬野さんに面白いことができる)
(加えて、僕と翡翠さんの利益となる計略が……)
音矢は翡翠の手を取り、
「説明に必要なものが、僕の部屋にあります。
持ってきますから、少し待っていてくださいね」
そっと袂から外す。
「わかった」
翡翠は音矢の思惑などをおしはかることなく、素直にうなずいた。
次回に続く




