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勝てば官軍 【魔術開発物語】  作者: 桜山 風
第十章 食事 
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第四話

 翡翠は朝食の後、自分の部屋に戻った。いつもなら食器洗いを手伝ってから算術の計算問題などの自習をするのだが、昨日の労働で彼は疲れている。だから今日は後片づけを休ませた。


 音矢にも疲労は残っているが、翡翠とは基礎体力が違う。それに、彼にはやっておかなくてはならない仕事があった。


 まず音矢は風呂場の掃除をし、庭の井戸からバケツで水を運び、風呂桶に汲む。


 この時代の風呂場には外と直結する引き戸がもうけられているので、わざわざ重いバケツを持ってシズクをこぼしつつ縁側から廊下をたどらなくてよい。夕方ごろには、冷たい井戸水も気温の影響でぬるくなり、汲んだ直後よりも沸かしやすくなるだろう。


 次は作業着の洗濯だ。それはタライに入れて、つけ置きを昨晩からしておいた。続いて半長靴の汚れを古ハブラシで落とし、下地にクリームを塗ってから靴墨をつけて磨き、手入れを済ませる。


 予定の作業が終わったので、彼は小休止をとることにした。茶の間でラジオの音楽を聞きながら、音矢は仕事の段取りを頭の中で組んでいく。


(あれの加工作業は、今回から翡翠さんに任せると約束していた。

 だから、あの人の体調をみてから始めよう)


(となると、昼食の支度まで時間があくから、

 目についた汚れをチョコチョコっと拭き掃除しておくかな)


(さて、献立はというと……

 一昨日、割れた湯葉を安く大量に買えたから、

 それをのせたウドンにするか)


(乾麺を茹でて、他の具は……ネギがあったっけ。あとワカメも……

 タンパク質だけではなく、ビタミンとミネラルの補給もしないといけない)


 それがきっかけで、音矢の記憶が蘇った。


(そういえば、翡翠さんが箸づかいを覚えた動機は麺類食べたさだったな)


(算術を覚えた時は数取り遊びやお店屋さんゴッコがきっかけになった。

 文字を覚えたのも、瀬野さんが絵本を読み聞かせたから……

 翡翠さんは、楽しいことをすることで、いろいろ能力を向上させていった)


 音矢は翡翠と昨晩語ったことを思い出す。


『[夢に向かって努力する]

 翡翠さんにとっては、それ自体が楽しい遊びなんですね』


『そういうことだな』


 それは、[苦しみを我慢して努力をするからこそ、進歩する]という、この時代の一般的な考えとは異なる思想だ。


(……そうだ。呉服屋で働いていたころの僕は、

 自分自身が努力していろいろなことを覚えたからって、

 己を磨くための苦労をせずに怠けている他の奴らを見下していたけれど……)


(実は、僕にとっても努力は苦労でなかったんだ)


(調理技術の取得も、帳簿づけも、車の操縦も。

 自分の能力が向上していくのは嬉しかったし、

 いろいろできるようになってから、応用をするのは面白かった)


(そう、僕は物事を学ぶこと自体が好きだったんだな。

 こんな体験があるから、

 翡翠さんに教えるときに遊びの形をとったのかもしれない)


(僕が自覚していないことを、翡翠さんに気づかせてもらえた。

 つまり、異なる視点からの有益な情報を僕は手に入れることができたんだ)


(これは大いに得だな。個性的な発想ができる翡翠さんと知り合えて、

 なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ)


 そこまで考えた時、ちょうどラジオの番組が切り替わった。つまり、予定していた休憩時間の終わりだ。


「さてと」


 音矢は立ち上がり、[抜刀隊]のメロディを口笛で奏でながら作業にかかる。



   ◆◆◆◆◆◆



 オートミールを柔らかくするための湯が沸くまでの間に、礼文は津先にこれまでの経緯を説明させる。


 大鍋を乗せたカマドのまえで、彼は額の汗をぬぐいながら語った。





 9月17日金曜日、津先は建物の宿舎側と研究所側を礼文に連れられてまわり、それぞれの説明を受けた。ただし、二カ所だけ入れなかったドアがある。


 礼文の説明を津先は聞きながら歩いた。


宿舎側は二階が工員たちの寝泊まりする部屋だ。一階には調理室、風呂場、水洗便所、食堂を兼ねた集会室、その隣には工場長室がある。


「さて、次は研究所側に行こう」


 工場長室の前で、礼文は方向転換した。


「あの、研究所側とこちらは接続していないんですか?」


「そうだ。あちらに用があるときは、

 いったん外に出て向こう側のドアから入らなければならない」


「なんだか不便ですね」


 宿舎側は建物の中央に出入り口があったが、研究所側では端にある。そこで、またスリッパに履き替え、二人は廊下に上がった。三和土たたきの隅にはハシゴや大工道具箱が積まれていた。


「玄関の右側は会議室だ。

 もとの研究所にあった謄写版とうしゃばん印刷機を置いたから、

 ここで君は事務作業を行ってくれ。

 工場長室と主任室は両方とも私が使う」


 この二部屋の入口はそれぞれ別だが、実際は一つに繋がった部屋で、そこには宿舎と研究所にはさまれた、のぞき穴付きの通路に入る隠し扉がある。だが、礼文はそのことを津先には教えない。彼は自分だけで隠し通路を使うつもりだ。


 玄関をはさんで反対側に廊下が伸びている。ガラス窓から斜めに日光が板張りの床を照らす。礼文はその通路を進む。それを開けては、津先に説明した。


「ここは機材をしまう倉庫」


「ここは設計上の調理室だが、

 宿舎側に同じ設備があるので空き部屋になった」


「ここは現像用の暗室だが、君は写真の技術を持っていない。

 しばらくは使うことがないだろう」


「ここは旧研究所では主に薬品を入れる第二倉庫だったが、

 水洗便所に改装された。

 いちいち反対側にまわらなくてもいいように、

 主催者さまが気をつかってくださったのだよ」


 二階に通じる階段を礼文は指さした。


「この上には図書室と、研究員用の個室などがあるような設計だったが、

 今は空だ」


 そこは登らずに、彼は津先を連れて先に進む。


「そして、ここは手術室だ」


 他の部屋と違い、礼文はそこに入る。津先も後に続いた。


 彼は中を見まわして思う。


 広い部屋の中央には手術に使うとおもわれる寝台がある。それは当然だ。両脇の壁際には作りつけの戸棚がある。たぶん、医療器材を収納するのだろう。それもいい。ドアの側には水道の蛇口と水を受ける流しがある。それは手術道具を洗浄する役割があるのか、便所などにある手洗いの流しよりも大きく深い。流しの横にある煮沸消毒器の存在は、津先の推理を裏づけているようだ。


 しかし、なんといっても気になるのは、奥にある二つの檻の存在だ。それはドアと反対側の壁際に、不気味なようすで並んでいた。檻同士の間隔は1メートルほどだ。


「もしも少年たちが反抗するなら、これに閉じこめるぞと脅せばいい。

 多少の体罰は認めると主催者様はおっしゃっている」


「……これは……あの……」


「そうだ。

 以前に神代細胞の研究をしていた建物の設計図を利用して、ここは作られた。

 アルバムに貼ってあった写真の、

 神代細胞を投与された実験台が暴走して死に至るまで、

 監禁されていた檻とほぼ同じだ。

 ただし、主催者さまの気づかいはここにも適用されている」


 礼文は杖の先で檻の隅を指し示す。板張りの床が一部切り取られ、楕円形だえんけいくぼんだ形の陶器が備えつけられていた。そして檻と檻の間、天井近くにタンクが二つ並び、それぞれから細い鎖が真下にたれている。


「実験台が使う水洗式便器だ。

 檻の中からでも手をのばして鎖を引けば水を流すことができる。

 旧研究所ではおけに排泄させていたそうだから、

 ずいぶんと待遇が改善された。

 もちろん、管理する側にとっても便利になっている。

 ありがたいことではないか」


「はあ……それでも、丸見えですが」


「中にいる者を観察し、監視するためだ。

 目を離したすきに自殺でもされたら困るからな」


「道徳的に……」


「そもそも人体実験を始めた段階で、道徳からは外れている。

 いまさら言っても仕方あるまい」


「それでも……嫌です。俺は非道なことをしたくありません。

 こんなところに閉じこめられたら、

 その人の心が病んでしまいますよ」


 ヒュン


 杖の一振りで津先は沈黙した。


「無理に使えとは言わない。

 君の信条にしたがって道徳的に子供たちを指導できるなら、

 それに越したことはないからな。

 だが一応、檻の鍵がどこにあるかは覚えておけ」


 礼文は壁に掛けられた鍵を指さした。汚物を見せられたような気分になり、津先はすぐに目をそらす。





「あのときは、子供たちを教育するのに檻を使うつもりはなかったんです。

 教員時代から俺は体罰に反対の立場をとってきましたから。

 自由教育主義をとる白樺派に共鳴していたんです。

 それで高圧的な学年主任とうまくいかなくなって……」


 手の甲で額の汗を拭きながら津先は語る。富鳥義光元子爵の勝手な思いつきで作られた建物なので、通風性が悪く熱がこもるのだ。


「なるほど。しかし、結局は使ったのだろう?」


 礼文の声には、津先をからかうような響きがあった。


 それを聞いて恥じいる相手を見ながら、礼文もハンカチで首筋をぬぐう。


 それをポケットにしまってから、オートミールを椀ですくって大鍋の湯に入れた。玉杓子でかき回すと、ドロドロした薄茶色の粥になる。ところどころダマになっているが、彼は気にしない。糖蜜も瓶から垂らして、適当に味付けする。塩分もいるだろうと、調理場にあった袋から適当に入れる。


「これは何ですか?」


「西洋の粥だ。味見してみるか?」


 玉杓子を差し出すと、津先は指ですくって舐めた。


「うっ、しょっぱい」


 顔をしかめた彼を見て、礼文も味見する。


「……まあ、薄めればいい」


「でも、すでに大鍋は満杯だから、これ以上水を足したらあふれますよ」


「ふむ、ちと作りすぎたか……

 大鍋を火から下ろせ。

 別の小鍋に半分ほど水をくみ、

 新たに湯を沸かしてからそれに粥をすくい入れて薄めよう」


 飢えた子供たちが食べ物にありつくには、まだまだ時間がかかるようだ。





次回に続く。


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