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第十二話

「……翡翠さん、交代願います!」


「わかった」


 空間界面をもう一度展開した翡翠を、音矢は片手でかきよせて水上文雄の顔面にすばやく乗せる。


 それだけでは体重が足りなさそうなので、空間界面を解除した音矢は文雄を片足で踏みつけた。弱弱しくもがく相手の動きを封じつつ、彼は荒い息をはく。文雄の鼻と口を塞いでいる間は、音矢も空間界面内の限られた空気で呼吸しなければならなかったからだ。


(おかしい。そろそろ窒息して意識を失いそうなものなのに……)


 不審に思いながら、音矢はさらに足に力を入れた。文雄の抵抗はますます強くなっていく。


(一体どうなっているんだ?)


 視界の隅で、何かが動く。音矢はそちらに目を向けた。


「うああ!」


 茶の間から、金色の神代細胞が廊下までいだしてきていた。


 大きく広がったそれには、赤い網のようなものが広がりつつある。中心となる何本かは、太く膨れ上がり、脈打ち始めた。


「おおっ!」


 音矢の叫びを聞いて目線をあげ、翡翠も驚きの声をあげる。


「広がった神代細胞が肺の替わりになろうとしている! 

 表面から酸素を吸収して、体に送るつもりだ!」


 翡翠の言葉で、音矢は窒息作戦が失敗したことを悟った。


 酸素の供給を受けて元気を取り戻した文雄は、神代細胞に与えられた怪力で、華奢な体を両手で突き飛ばした。その勢いで、音矢の踏みつけをものともせずに立ち上がる。


 翡翠は壁と天井との境目にぶつかったが、空間界面は柔らかく変形して中身を衝撃から守る。


「があああ!」


 すべり落ちた翡翠の顔面目がけて文雄は拳をふるう。それは緑の膜を滑って軌道をずらされ、横の壁を打った。


 ドンという音と共に拳は壁土にヒビを入れ、穴を開ける。拳を突きだした形で固定されてしまった文雄は、廊下の床に着地した翡翠を見下ろす。


 緑の膜の中で、[天使]も文雄を見ていた。その瞳には良心の呵責によるくもりはない。ただ真っ直ぐに文雄の姿を観察している。


「ぐあおうおおおお!」


 それが、文雄を怒らせた。


 壁からむりやり拳を引きぬき、[天使]の顔に叩きつけようとする。しかし、膜に邪魔されて届かない。軌道をそらされた拳は壁を壊すことしかできない。だから彼の怒りは、拳をふるうたびに増幅されていく。


「がうううあがああああっああああああ!」


 吠えまくるうちに、彼の彫が深い顔立ちは、グズリと崩れていく。精神状態が不安定になることで、神代細胞の制御がきかなくなり、形を保てなくなったのだ。


 同じ理由で、拡大変形した体も崩壊していく。一時的に塞がっていた手のひらの傷口から、神代細胞があふれて腕から体を覆っていく。文雄は半透明なもので包まれた拳で、緑の膜を打つ。


「翡翠さん、いったん解除して、こちらも酸素の補給を!」


 音矢は床を蹴って、文雄と翡翠の間に割って入る。宙にいる間に彼は空間界面を展開して自分を守った。


 翡翠を攻撃しようと文雄は足を進めるが、音矢は横歩きで回りこみ、その拳をさえぎる。その間に深呼吸を終えてから、翡翠は再び空間界面を展開してうずくまった。


「もう一度、やってみてもいいか?」


「お願いします!」


 音矢の返事を聞いた翡翠は空間界面の中で床に両手をかざす。彼の足元に変化が生じた。緑色の膜が一部だけ薄く伸び、影のように床に広がっていく。


 音矢はそれに気づき、攻撃から翡翠を守ることをやめ、そっと文雄の後ろに回った。


「優しくしてくれたのに! ほめてくれたのに!

 『ありがとう』と言ってくれたのに!」


 さえぎる者がいなくなったので、文雄は翡翠に詰めよる。


「なんで、悪魔に協力するんだよ! 

 なんでおれのことをイジメるんだよ!」


 怒りにまかせて、緑の膜を文雄は連打した。その体は大きく揺れ、拳も繭の中心にあたらない。狙いを外して空振りもする。むやみに大きくなった体を、彼は制御できずにいた。


「[天使]だから、おれに優しくしてくれたんじゃないのかよ!」


 効果がないことがわかっても、たとえ命中しなくても、感情を拳に乗せて叩きつけることを文雄はやめられない。


 音矢はその背後で跳ねて空間界面を展開した。


 文雄の体から生まれた神代細胞は金と紅の色に変化をし、マントのように彼の首から床へと斜めに長く垂れ下がっている。音矢は両手をそっと背中とマントとの間に差しこんだ。それに触れてしまったが、文雄は振り向きもせず翡翠を殴っている。


 いったん手を合わせてからゆっくりと離すと、その間に空間界面で作られた糸が形成される。勢いよく糸を引くと柔らかいマントが切り離され、床に落ちた。すかさず音矢はそれを足で茶の間に押しこむ。それでも文雄は振り向いて確認することもしない。


 さらに攻撃を仕掛ける機会をうかがいながら、音矢は空間界面を解除し、ポケットから[ペンギンくん]を取り出す。


「ふはあ……ふはあ……ふはあ……」


 背後からの酸素供給が止まったせいか、息継ぎをしてから、文雄は叫んだ。


「お前なんか、天使じゃない!

 おれの得た力を認めたふりをして、うれしがらせておいてから、

 結局は意地悪するなんて、お前は鬼だ!」


 空間界面の中にいる翡翠は、片手で帽子を押さえる。


「なぜだ? かぶっているのに……」


 それで隠していた、角の存在がバレたと彼は思ったのだ。


 彼の言葉は、文雄の怒りに油をそそぐ。


「うるさああああい! そこは、もう直したんだ! 

 いまさら言うなああ!」


 叫ぶ文雄の側頭部に衝撃が走った。


 音矢が振り回したペンギン型の分銅が、一度割れてもろくなった骨を砕いていた。


「翡翠さん、今です!」


 音矢の言葉にこたえ、翡翠は床に伸びた部分の空間界面から、特別な制御を解いた。


 平らだった膜が繭のほうに勢いよく戻っていく。足元に敷かれたものが移動したことで、文雄はバランスを崩した。


 床に倒れる瞬間を狙っていた音矢は、ヒビがまだ完全に修復されていない頭蓋骨をすかさず蹴る。くいこんだ半長靴のツマ先が、耳の奥にある三半規管をつぶした。


「ああ? 目、目が回る! なんで? 床が、家がグルグルする!」


 文雄は強烈な目まいに襲われ、悲鳴を上げる。


[耳の近くに平衡感覚をつかさどる器官があったはず]その程度のうろ覚えだった知識を、音矢は翡翠の人体解剖図巻で確認し、たしかなものにしていた。


 仰向けに倒れたまま体を起こすこともできずに、文雄はもがく。


 その右目に、音矢はリベットペンを突き刺し、ボタンを押した。弾丸を撃ちこんでから素早く引き抜き、彼は飛沫を避けるために後ろに下がる。


「5,4,3,2,1」


 爆発を待ちながら、彼は数をかぞえた。


「0!」


 弾丸にしこまれた特殊爆薬が炸裂する。もろい顔面骨ごと、文雄の脳はバラバラに飛び散った。


「やれやれ、なんとか倒せた。

 翡翠さん、回収と、瀬野さんに連絡をおねがいします」


「わかった」


 翡翠は作業服のポケットから、小さな包みを四つ取り出す。これは回収石でビーズを作る際に出た不良品をサラシで作った袋につめたものだ。それを床に間隔をあけて置く。そして、以前に作った回収石に紐を通したものも二つ置く。これは飴玉くらいの大きさをしている。


 文雄から離れた神代細胞は、ヒルのような形の群体にもどり、回収石から発せられるエーテルエネルギーに引き寄せられていった。


 次に翡翠は懐から乾電池式小型電波送受信機を出した。それのボタンを細かく押して、彼は外で待つ瀬野へ無事に暴走患者の始末が完了したことを伝える。


 その様子を見ながら、音矢は大きく息を吐いた。


「やれやれ。今回はそれほど危なくもなかったよ。

 せんの人みたいに、

 計略を緻密に立ててくる実験台が

[真世界への道]に選ばれなかったからだな。

 おかげで負傷しなくて済んだ。

 なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ」


 つぶやいてから、茶の間に入る。神代細胞を詰める瓶の入った革鞄を音矢は拾い、翡翠の側に置いた。そして音矢は最後に残った自分の仕事を始めようとする。必要な道具はこの家にあるはずだ。彼はそれを探すため、家の奥に足を進める。


「ああ、あった。

 こういうものは、取り出しやすい場所にしまうものだから、

 簡単に見つかるな」



   ◆◆◆◆◆◆



 音矢と翡翠はそれぞれの作業を終え、瀬野の操縦する車で帰途につく。血の付いた作業服は、現場に向かう時に着用していた普段着に交換ずみだ。


 彼らの膝の上には大きな風呂敷包みがあった。今回回収された神代細胞は大量だったので、持参した瓶に入りきらなかったのだ。回収石を中心として丸く固めた細胞を風呂敷でまとめ、音矢と翡翠は布越しで手のひらからエーテルエネルギーを送りこむことによって神代細胞の逃亡を防いでいる。


 前回とは異なり、比較的楽に倒せたことで音矢は気を良くしていた。氷砂糖を食べ終わった彼は無意識に口笛を吹く。曲は、彼が好んでいる少し古い軍歌、[抜刀隊]だ。


「……そうだ。最初の……松木呉羽さんの始末を……

 あの時も帰る車で音矢くんは口笛を……」


 翡翠がつぶやく。


「それ以外でも、今回はなんだか、あの時を思い出すな。

 家の間取りも似ていたし、

 話の途中で腹が鳴ったところなども同じだ」


 音矢は口笛をやめ、感慨深げに語る。


「いやあ、あのころと比べると、翡翠さんは格段に進歩していますね。

 呉羽ちゃんを倒すときは、ただそばにいただけでしたが、

 今回は翡翠さんの開発した技がとても役立ちましたよ」


 その言葉に、翡翠はうなずく。


「ああ。あのころは気ばかりあせって……

 それでも大したことはできなくて……くやしかったな」


 車の操縦席から、瀬野も会話に加わる。


「でもあの時と違って、

 音矢くんは実家への仕送りを確認しなくなったわね」


「あはは。そんな毎回言わなくても、

 瀬野さんはもう心得てくれているでしょうから」


「そうだ。とうとうボクは暴走患者の始末に協力できたぞ」


 瀬野と音矢の話の流れを無視して、翡翠は自分が言いたいことを言う。


「空間界面を変形させ、床に敷いて、患者が乗ったら元に戻す。

 足元をすくわれて、患者は倒れる。

 ボクは音矢くんが攻撃するための隙を作ることに成功した!」


 翡翠は、自分が畳の上に広げた新聞紙を踏んで転んだことから、この作戦を思いついた。


「最初に試したときは失敗したが」


 縁側から入る音矢の真正面に座って構えていたため、すぐに気づかれてしまい、翡翠はヘソを曲げた。


「しかしボクは音矢くんに相談して、改善するべき点を考えてもらった」


[肩を二回叩いてから、部屋の外を指差す]のは作戦開始の合図だ。翡翠は廊下に出てから出入り口とはズレたところに座り、空間界面を変形させて罠をしかけたのだ。


「瀬野さん、ボクは自分の考えたことを現実化させ、実戦に役立てたぞ! 

 これで、ボクもエジソンや音矢くんのような[魔術師]になれた!」


 以前の晩餐ばんさんで話題になったことを、翡翠は持ち出した。


「これからボクはもっと工夫して、

 安全かつ効率的に始末ができるようにしてみせる」


 華奢な胸をはって、翡翠は誇らしげに宣言する。



   ◆◆◆◆◆◆



 二人を貸家に送り届けて、瀬野は自動車で帰社した。


 そのエンジン音を聞きながら翡翠は茶の間に腰を下ろす。


「瀬野さんに、ボクの工夫を認めてもらえなかった……」


 膝をかかえて丸くなりながら、翡翠はつぶやく。




 意気揚々と抱負を語った彼に、瀬野は説教で答えた。


『それは人殺しの手段を研究開発するってことでしょう。

 罪深い行為をしようっていうのに、得意がってはダメよ』


『あなたは、ただでさえ姿が鬼に似ているのに、

 心まで醜い鬼になる気なの? そんなの絶対にダメ』


 完全否定されて翡翠が言葉を失った時、ちょうど車が貸家に到着したのだ。




 翡翠の体から発せられたエーテルエネルギーが緑の繭を形成し始める。その前に、一升瓶が置かれた。


「お?」


 酒に気をとられ、翡翠が展開しかけた空間界面が消えた。


 暴走患者の始末で汚れた体を手早く清め、単衣ひとえを着替えた音矢はコップを手にして、翡翠に微笑む。


「仕事の後の一杯。いかがです? 

 僕も疲れているので、ツマミは缶詰になりますけれど」


「飲む」


 翡翠も風呂場に行って汲み置き水で体を清め、清潔な水兵服に着替えた。


 その間に音矢はサバ水煮缶を開けて、中身を皿に盛る。残った汁を丼に盛った冷や飯にかけ、梅干しも添えて、彼は腹ごしらえをした。サバの油のコクと梅の酸味が合わさって旨い。


 コップの酒を一口飲み、翡翠はため息をつく。


「……あんなこと、言わなければよかった。

 瀬野さんがボクの能力が向上したことを喜ばないのは、

 箸づかいを覚えた時に経験済みなのに…………」


 愚痴をこぼしながら、彼は早いペースで酒を飲みほした。疲れた様子で翡翠はちゃぶ台に顔を伏せる。


「自分が嬉しいから、瀬野さんにもほめてもらいたくて……

 つい口走ってしまったんだ。

 車の中では黙ってやりすごして、

 瀬野さんが帰ってから音矢くんにほめてもらえば、

 楽しい気持ちのままでいられたのに……」


「そんなにがっかりしないでくださいよ」


 音矢は翡翠のコップに酒をそそいでやる。


「むしろ、あの発言はこれからのために有意義でした」


「なぜだ? 瀬野さんに怒られたのに」


 ちゃぶ台の上に置いた自分の手に、翡翠は細い顎を乗せた。


「翡翠さんは始末のことを不用意に話さないようにしようと、

 心に決めたでしょう。それが収穫です。

 手段を研究開発しようと抱負を語っただけで、

 あの人はあんなに嫌がるんですから。

 もしも回収している間に翡翠さんがやったことを話していたら、

 カンカンに怒って、

 口もきいてくれなくなってしまうかもしれません」


「ボクが、なにかしたか?」


「あはは……やっぱり自覚していなかったんですか」


 音矢が自分の仕事に取り掛かり、回収石が神代細胞を集めている間に、翡翠は茶の間にあった包丁で、文雄の腹や手足を切り開き内部を観察していた。


「まあ、暴走患者は変な死体になりますからねえ。

 関東大震災の時に横濱でも被害が大きかったから、

 焼死体とか圧死体を僕も見ましたけれど、

 あんな風にはなっていなかったですし。

 調べてみたくなる気持ちもわかりますが、

 瀬野さんにとって死体解剖は……」


 音矢の言葉を最後まで聞かず、翡翠は自分が言いたいことを話す。


「以前から詳しく観察したかったが、

 神代細胞を回収するのに体力を使っていたので疲れてしまい、

 できなかったんだ。

 しかし、回収石をたくさん作り、それに作業を任せたので、

 ボクの負担が少なくなって患者の体を調べる余裕ができた」


 自分が興味をひかれたことを語る翡翠の表情は、屈託なく明るい。


「神代細胞が抜けた死体はまるで大量の虫に食われたように、

 グズグズに崩れてしまいますよね」


 ここで話をさえぎったり元の話題にもどそうとしたなら、翡翠はヘソを曲げる。そうなると面倒だ。自分が疲れていることもあり、音矢は翡翠に合わせた。


「皮下脂肪や内臓や筋肉は大部分が神代細胞に浸食され、

 本来の形をとどめていなかった。

 骨格も神代細胞を浸透させて無理に大きくしたため、

 それが回収石に引かれて逃げた後は破断していた。

 皮膚もかなり薄くなっていたので、

 包丁を当てただけで簡単に切れたぞ。

 いや、むしろ自然に破れたというほうが適切かもしれない」


「やっぱり、神代細胞は増えるために

 宿主の体をエサとしているんですか?」


「ああ、まちがいないだろう。

 先代主任の研究日誌にも似たような現象は書かれていたが、

 脳に接続する神経や血液、

 そして腹部などの皮下脂肪が変化する程度の小規模なものだった。

 つまり、7年前よりも神代細胞の増殖能力が高まっているという

 仮説の証明になる。きわめて興味深い」


「もしエーテルエネルギーを物質に変換できたとしても、

 極微量しか作れませんからね。

 神代細胞が大量に増えるための材料を調達するとすれば

 取り憑いている体を使うしかない。

 それでも足りなければ何かで補って……」


 ――そう――


  ――これは――


「だから、文雄さんは不味くても刺身を食べたのだな。

 それを消化し、神代細胞へと変化させたのだろう。

 死体そのままではエーテルエネルギーを発生しないので

 神代細胞に拒否されてしまう。

 しかし神代細胞が補助するなら、

 人体の消化吸収活動は促進される。

 血液にとりこまれたアミノ酸などを使って、

 神代細胞は増殖する」


「部屋と家具を金に塗り替えた細胞の由来は、

 あの人の肉や内臓……

 つまり文雄さんは、

 自分の身体を恋人に与えようとしていたんですね」



 ――我が身を削り(神代細胞に変換し)、


   愛する人のために(偽金を)捧げる物語――



「回収石の開発などの具体的な研究は進んでいるし、

 ボクの能力も向上した。それなのに……

 瀬野さんは罪がどうとかいって成果を認めてくれない。

 こんなに努力しているのに……」


 自分の観察結果を語り終えて満足したのか、酒がすすむにつれ、翡翠はまた愚痴をこぼし始めた。


「水上文雄さんも、

 魔術師になるため、恋愛を成就するために努力はしていた。

 しかし、神代細胞が暴走したため、

 感染防止のために、ボクらが始末した。

 彼の努力は意味のないものとなったんだ」


 コップをちゃぶ台に置き、翡翠は肩を落とす。


「そう思うとなんだかむなしくなる。努力など無駄なのかな」


 腹ごしらえをしてから、付き合いで音矢も酒をチビチビと飲んでいる。彼は少し赤くなった顔を翡翠に向けた。


「いえ、そんなことはないと思いますよ。

 努力は目標を達成するために必要不可欠です。

 その途中で他人が認めてくれないから、

 ほめてくれないからといって、

 やめてしまったら夢はかないません」


 気落ちしている翡翠を、音矢は励まそうとする。


「では、努力さえすれば夢はかなうのか。そんな保証があるのか」


「あはは、あるわけないでしょう」


 しかし酔っていた音矢は、うっかり持論を披露してしまった。


「コツコツ努力して、

 やっと満足できる成果に手が届きそうになったのに、

 災害などによって本人の命が絶たれ、

 それまでに作り上げた物も燃えて、

 誰にも知られることなく全てが無に帰す、

 なんて普通によくあることですからね。

 今回の暴走患者も、似たような結末ですし」


 しかも、さきほど震災時のことを思い出したせいで、かなり極端な思想が出た。


「…………」


 うつむく翡翠へ、音矢はさらに言葉を投げつける。


「あはは。だからといっても、あきらめずに頑張りましょう。

 この世になにも残せずに死ぬにしても、

 冥土のミヤゲは多いほうがお得ですよ」


 翡翠は額をおさえ、やがて口を開いた。


「君の意見は……瀬野さんがいつも言っているように、

[身もフタもない]というか……一般的なものでないように思える。

 といっても

 ボクが読んだ小説などから得た知識の範囲で判断してのことだが……」


 翡翠の様子を見て、音矢は少し顔を曇らせた。彼は景気をつけるためにコップの酒を飲んでから、言葉を続ける。


「つまり、努力というのは取引ではなく投資なんですよ。

 これだけやれば、

 それに見合うものが必ずもらえるというのが取引ですけれど、

 今言ったように努力してもむくわれないこともありますよね。

 だから、投資なんです」


「[投資]というものが、ボクにはよくわからない」


 音矢は具体的な例を出そうとして、しばし考えた。


「ええと……ほら、【ベニスの商人】で、

 せっかく出港した貿易船が沈んで破産、

 なんてことになった人がいましたね」


「ああ、主人公の友達だろう」


 翡翠は音矢に勧められて、その戯曲を読んでいた。


「つまり投資とは、

 自分の財産を使って事業をやって、うまくいけば儲かる。

 ヘタをうてば使った財産が消える。そういうものです。

 博打バクチに近い帆船での海外貿易よりも確実そうな農業をするにしても、

 天候不順で凶作になれば

 購入した種の代金と一年間の労働が無になります」


「怖いことだな」


 音矢の意見を聞いた翡翠は、最初はとまどったが頭から拒絶せず、説明にじっくり耳をかたむけてくれている。それがうれしくて、音矢はより詳しく語っていく。


「でも生きていくためには

 なにかを収穫して財産を増やさなくてはならない。

 等価値の物を交換するだけの[取引]しかしなければ、

 自分が消費する分を補うことが出来ずに

 蓄えを食いつぶしていくだけ。それではジリ貧です。

 儲けを出すためには覚悟を決めて投資しなければなりません。

 そして僕たちにとっての財産は、自分の体くらいのもの。

 財産の質を高めるために、努力するんです」


 翡翠と話している間に、音矢は自分の中にあったぼんやりした考えが筋道だった思想に変化していくのを感じた。


「……そうだな……やはり、ボクは研究を続ける。

 たとえ瀬野さんに怒られても努力はやめない」


 翡翠はうなずいた。


「いや、やめられないと言ったほうが正しいかな」


「自分の体を成長させたいからですか? 

 それとも実験台の始末に関する危険を減らしたいからですか?」


「それもあるが、なにより、努力すること自体が楽しいことだからだ」


 力なく伏せていた体を起こし、翡翠は外を見た。


 開け放った障子の向こうには雑木林。その上には雲のない星空が広がっている。


「さまざまな知識を集めるのも楽しいし、

 それを使って工夫を考えるのも楽しいし、

 考えたことを具体化するのも楽しい。

 ボクはこの楽しさを知っているのに、

 ふてくされて何もしないでいるなんてことはできない」


「はあ……」


 この時代では[苦しみを我慢して努力をするからこそ、進歩する]というのが一般的な考えだ。それとは違う発想に、音矢は感心した。


「あはは。[夢に向かって努力する]。

 翡翠さんにとってそれ自体が楽しい遊びなんですね」


「そういうことだな」


「こりゃあ、面白そうだ。僕もその遊びに混ぜてくださいな」


「もちろんだとも。音矢くんはボクの友達で、仲間なのだから。

 お互いに助け合って、自分たちの能力を向上させていこう」


「それでは僕らの努力が成果をあげることを祈って、

 乾杯いたしましょう!」


「おお!」


 コップを打ち合わせ、翡翠と音矢は気分よく酒を飲んだ。



 ――そして、これは――



 音矢たちが酒盛りをしているころ、中村ムメは富鳥邸の離れにある小さな奉公人部屋で、日記を書いていた。


(うふ。レモンティーを準備しておいてよかった。

 日差しはまだ強いけど、

 2、3日前から秋みたいな風が吹くから、

 そろそろ冷やした麦茶ではなく

 暖かいものを義知さまは飲みたくなると思ったんだ。

 今日は良い仕事ができて、うれしいな)


 彼女は昨年から、離れ屋の担当になった。配属された日付から日記は始まっている。


(母屋勤めからこちらに移ったばかりのころは、

 まだ義知さまのお好みがわからなかったから、

 たくさん失敗をしてしまった。でも、今年は違うの)


 その日記を読み返して、ムメは改善すべき点を見つけた。


(去年は、急に言われたから

 納戸にあった紅茶セットを出すのに時間がかかって、

 義知さまをお待たせしてしまった。

 レモンの買い置きも無かったから

 ストレートで我慢してもらうしかなかったし、

 暑い夏を越した古い茶葉だったから、

 香りもたたない粗末なものを入れてしまった)


(今年は離れの管理担当をしている島口さんに頼んで、

 あらかじめレモンを冷蔵庫に準備させてもらったし、

 茶葉も新しいものに交換しておいたの。

 同時にポットもカップもきれいに洗い直して、

 すぐ出せるところに置いたし)


(でも、これで満足してはいけない)


 日記を閉じ、彼女は[萬家政よろずかせい]という月刊雑誌を開く。萬出版社が発行している婦人誌だ。今月号の特集記事が大きな文字で目次の先頭に書かれている。


〈西洋のお茶は、こうして入れましょう! 

 珈琲、紅茶、それぞれのコツ〉


 ムメはそのページを開ける。彼女も音矢と同じく小卒だが、難しい漢字には振り仮名がついているので、記事を読むのにさわりはない。父の遺品である国語辞書も彼女の助けになる。


(もっとおいしく紅茶を入れられるように……

 もっと義知さまの日常が快適になるように、家政を勉強しよう)


(あのかたが御不自由を感じることないように先読みして働ける、

 立派な奉公人にムメはなりたいから)



 ――より良い自分になるために努力する、若者たちの物語――



 瀬野は就寝前に歯を磨いた。洗面所の鏡に映る自分を見て、考える。


(はあ……疲れた顔ね、私。

 もう20歳になったんだし……

 10代のころみたいに、なにもしなくても平気ではいられないのかな。

 おばあちゃんに教わって、本格的に美顔マッサージを始めましょう。

 あと基礎化粧品も、もう少しいいのを買って、

 風呂上がりのお手入れを念入りにしないと……)


 現在の仕事とは全く関係ない私事わたくしごとではあるが、瀬野もまた、彼女なりの努力を始めようとしていた。



 やがて四人の若者は、希望を抱いてそれぞれの寝床に入る。


 同時刻、水上家では生肉の匂いをかぎつけたゴキブリたちが、死体を美味しく食べていた。


 そして、音矢たちが暮らす同じ帝都の空の下には、心地よい眠りではなく、苦痛による気絶に近い状態で冷たく固い床に伏せる少年たちもいた。


 廃工場を改造した研究所で彼らは、涙さえ枯れるような苦しみを味わっている。





 次回に続く



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