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第五話

 水上文雄は鏡を見る。その顔は映画俳優のように美しくもないが、醜くはない。


 文雄には学歴もある。五年制の中等学校を彼は卒業した。世の中には小卒で小僧奉公を始める者も大勢いるのだから、自分は高学歴なほうだと文雄は思う。


 文雄の肉体は健全だ。三年前に受けた徴兵検査は乙種一級だった。つまり兵役免除されるような欠陥はないということだ。しかし甲種というほど頑健ではないから即入営ということはなかった。


(このまま軍縮が成立するなら、

 ずっとお呼びがかからないまま人生を終えることができるかもしれない。

 つまり、おれの妻になれば

 戦争未亡人になることを心配しなくてもよいということだ)


(そうだ。おれには彩子さんに嫌われる要素はない。

 むしろ、婿としては好条件のはず)


(なのに、なぜ穂村家はおれの求婚を拒否して

 別の男と彩子さんを結婚させようとするんだ?)


(それがわからなければ、解決策がみつからない。

 つまり、望みを具体的に描くことができないということだ)


([真世界への道]に絵を提出する期限はとうに過ぎたけれど……

 そもそもの前提が不明なら

 具体的な絵をかくことができない。なんとかしてつきとめよう)


(おれを拒否する理由は、いったい何だろう?)


 考えている間に自分の顔から視線がそれ、彼は鏡に写りこんだ背後の景色を見てしまう。


 今、文雄がいるのは風呂の脱衣所だ。そこに作られた洗面台の鏡に彼は向かい合っている。電気や水道はもちろん、最新式のガス風呂の設備が彼の家にはある。


 1か月前まではタイル張りの浴室と脱衣所はいつも清潔だった。しかし、現在はあちこちに黒いカビが湧いている。


 鏡に映らない範囲も同じだ。部屋の隅にはホコリがたまり、脱衣所にたまった洗濯物は異臭を放つ。以前の大戦景気で父に入った特別賞与を使い、大幅に改築した文化住宅は、荒れ始めていた。



   ◆◆◆◆◆◆



 庭で草むしりをしている音矢は、ふと顔をあげて茶の間にいる翡翠を見た。


 翡翠は新聞をちゃぶ台に広げ、その一部を人差し指で円を書くようになぞっている。音矢はその様子から、翡翠の頭に浮かんでいる言葉を推理した。


 たぶん


(これは興味深い記事だ。切り抜いてとっておこう)


 などと考えているのだろう。


 次に翡翠は、茶箪笥ちゃだんすの前に立った。その引き出しには、それぞれ別の色を塗った紙片が糊で貼ってある。翡翠は紙片に書かれた文字を一つ一つ指でなぞって探しているようだ。


 音矢はまた、翡翠の頭の中を推理する。


(ハサミはどこにあるだろう……ああ、ここだったか)


 引き出しをあけた翡翠は、歓声をあげた。


「おお! 切り抜きをまとめるための帳面、

 そして貼るための糊もここにあったのか!」


 引き出しからその道具を取ってちゃぶ台に置き、翡翠は作業に取り掛かる。


 翡翠が実際に発した言葉とそれに続く動作で音矢の推理は裏付けられた。満足して、音矢は自分の仕事に集中する。


 やがて


「できた!」


 という声が聞こえたので、音矢は茶の間を見る。


 翡翠はちゃぶ台に常備されている濡れたオシボリで糊のついた指を清めていた。使い終わった道具をしまおうとしてか、翡翠は茶箪笥の前に立ちつくす。


 音矢は再度、翡翠が考えていることを推理する。


(どこにしまうのだったかな。わからなくなったぞ。

 こんなことなら、

 ハサミを見つけた引き出しを閉めずに開けっ放しにしておけばよかった)


 それが正しいかどうか、音矢は庭から翡翠に声をかけてみた。


「ハサミにも、帳面にも、糊の瓶にも、黄色い紐がついているでしょう。

 同じ色の紙が貼ってある引き出しはどこですか?」


「これだ」


 庭に振り向くことなく、翡翠は引き出しの一つを指さす。


 やはり、音矢の推理は当たっていたようだ。


「その紙には、しまうべき物品の名前が書いてありますよね」


「ハサミ、帳面、糊……ああそうだ。ここに全部入っていたんだ」


 うなずいてから、翡翠は道具を片づけた。そして大きく伸びをしてから茶の間を出ていく。内廊下を歩く音の方向からして、自室で一休みするらしい。


 全てを見届けた音矢は、深いため息をつく。


「前主任の書いた研究日誌はほとんど丸暗記しているくせに……

 瀬野さんが絵本を読む声を耳で聞いたとおりに覚えて、

 それを印刷された文章と照らし合わせ、

 辞書まで駆使して文字を独学したくらい頭がいいくせに……

 どうしてハサミをしまうタンスの引き出しを覚えられないんだよ……」


 音矢の脳裏に、これまでの出来事が次々と浮かんでは消えていった。



 一回目


『またハサミをなくしたんですか?』


『ちゃぶ台を蹴ってみたが出てこない。音矢くん、捜索を手伝ってくれ』


『はいはい。ちゃんとしまわないから、

 使いたくなるたびに探し回らなければならないんですよ。

 いちいち手間取るのは、時間の無駄だと理解してください』


『それはわかっているから、引き出しにはしまったはずなんだ。でもない』


『どれどれ……いつもハサミを入れている引き出しは……ああ、ないですね』


『でも、たしかにしまったんだ』


『では順番にあけて調べてみましょう……

 あ、ありました。となりの引き出しの鼻紙束の下に入っていましたよ』


『おお、本当だ! 音矢くんありがとう!』



 二回目


『ハサミをなくしてしまった。音矢くん、また手伝ってくれ』


『え? 引き出しにしまってないんですか?……

 ……ああ、裏の白いチラシを入れるところにありました。

 今度も引き出しを間違えたんですね。ならば……』


『その紙はなんだ?』


『どこに何が入っているか書きました。

 茶箪笥に貼っておきますから、

 こんどは、これを見てしまってくださいね』



 三回目


『音矢くん、ハサミはどこだ?』


『引き出しにしまいましたか?』


『しまうどころか、取り出すことができない。

 この紙にゴチャゴチャとたくさん書いてあるから、

 字の集まった大きなかたまりを最初から一つ一つ読んで探さないと

 ハサミの場所がわからない。面倒になった』


『ほら、ここですよ』


『ありがとう。ではさっそく切ろう』


『翡翠さん。

 もともと、ハサミはここの引き出しにしまうことで

 決まっているでしょう。

 紙に書いた字にとらわれず、それを思い出せばすぐに』


『…………』


『翡翠さん? ねえ……ああ、もう。

 ハサミを使うことに集中して、ぜんぜん聞いていない……』



 ここまで回想して、また音矢はため息をついた。

 次に思い出したのは呉服屋で働き始めたころの体験だ。


(いろいろな作業の簡単な説明を受けて、

 でもそれだけでは要点がわからなくて、僕は細かい失敗を何度もした。

 そのたびに先輩に殴られた。

 僕は仕事の正当な手順を、

 先輩が行うことをこっそり見ることでしか覚えられなかった)


 それが、音矢の育った大正時代の常識だ。

 このような教育法を、俗に[仕事は見て盗むもの]と表現する。


(それを非合理として、僕は不満に感じていた)


(だけど……)


 翡翠がハサミをきちんと定位置にしまえるようにするための工夫、そして掃除の手順を教える苦労を、音矢は思い出す。


(自分が慣れている作業だと、

 細かいことは考えずに無意識で行っている)


 小物の定位置収納に、ゴミ捨てにはチリトリを使うことや、雑巾の絞り方がその例だ。


(だから、それをいちいち言葉に直して

 細かい手順を説明するのはすごく面倒だ)


(複雑なことを考えず、おおざっぱに指導して、

 相手が失敗するたびに殴り、

 教わる本人が自分の力で正しい手順を見つけて覚えるようにする。

 そのほうが、指導する立場の者にとって、はるかに楽だよなあ)


 彼は自分の右手を見つめる。


(でも翡翠さんにはそうしたくない)


(うん。やっぱり先輩の指導法は、

 教わる側から見れば効率が悪いと思うし……

 直接的な暴力で痛めつけるのは、単純かつ野蛮すぎて面白くないし)


 音矢は、なにか心にひっかかるものを感じた。


(他にも理由があるような……なんだろう?)


 しばし考えたが、その正体はわからない。音矢は思索をとりあえず打ち切り、成果を確認するために茶の間に上がった。


 切り抜かれた新聞は、たたんで部屋の隅に置かれている。ハサミなどの道具をしまうところは先ほどこの目で見た。


(どうやら、僕の工夫は成功したらしい)


 もう一度息を深く吐いて、感慨深げに、彼はつぶやく。


「……長かった……やっと、ここまで……できるように」


(とうとう翡翠さんは一人で道具を整理整頓できるようになったようだ。

 これで、僕が付ききりにならなくても大丈夫だろう)


 達成感を味わってから、音矢はまた庭に戻ろうとする。


 その時、新聞紙が置かれているのとは反対の部屋の隅に目がむいた。そこには小さな平たく丸いものが転がっている。


 1930年〔光文5年〕にはスティック糊など存在しない。糊と言えば瓶に入っているのが普通。


 今、音矢が見ているのはその蓋だ。


「と、いうことは」


 嫌な予感がして、音矢は翡翠が開け閉めした引き出しを確認する。


「うあああ、やっぱり!」


 糊の瓶は蓋をされずにしまわれていた。これでは中身が乾燥して使えなくなってしまう。


「翡翠さんのために……また、別の工夫を考えなければ……」


 音矢の苦労はまだまだ終わりそうにない。





次回に続く






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