第四話
朝、目をさました水上文雄は、上掛けにくるまりながら彩子との思い出に浸る。
彼と彼女が始めて出会った場所は、休日の中学校だ。柔道の練習試合が学校附属の道場で日曜日に行われるというので、彩子は両親と一緒に兄の応援に来た。
文雄は生物研究部に所属していたので、その日は飼育しているカエルやカタツムリの世話をするために休日当番で登校していた。
校庭の水場で、飼育に使う水槽を洗っていると、彩子が通りかかった。普通の女子なら気味悪がるだろうが、彩子は興味をもって近づいてきた。彼女はカエルやカタツムリの生態について質問してきたので、文雄は答えた。それが、彼が彩子を恋するようになった瞬間だった。
「腹へったよ」
「今、お湯をわかしているところだから、もう少し待て」
フスマの外から、弟と父の声が聞こえる。
「また、いつもの? やだなあ」
「贅沢を言うんじゃあない!」
幸せな回想を言い争いで破られて、彼は腹を立てた。しかし、仲裁してやるつもりもない。文雄は耳を押え、目も閉じて布団の上で丸くなる。
◆◆◆◆◆◆
朝食の後片付けが終わり、翡翠は自室に戻る。その背を見送りながら、音矢は思った。
(翡翠さんは、飽きっぽいのがいけない)
手順を学ばせるために皿洗いを二人で行っている。だが、どうも翡翠はその作業のことを[義務としての仕事]ではなく[水遊び]としかとらえていないようだ。最初に飯炊き釜の洗い方を教えた時は夢中になっていたが、だんだん真剣みが失せてきた。したがって上達もしない。
(暑いうちは一応手伝うだろうけれど、
気温が下がり水も冷たくなれば、きっとサボるな)
(そのときに、僕が無理にやらせようとして叱ったら、
大いにヘソを曲げるだろう)
そのありさまが目に見えるように感じて、音矢は肩を落とす。
(これでは、いつまでたっても
[翡翠さんに家事をやらせることで僕が楽をする]
という計略が進行しない。どうしたものか)
しばし考えを巡らせてから、音矢は思いつきを具体化する。
◆◆◆◆◆◆
「なんだ、これは?」
茶の間の端に並んだ三つのミカン箱を、翡翠は見ている。
「手作業を行うことで翡翠さんを強くするための工夫ですよ。
名付けて、[各種作業箱]。
家事労働を小分けにしておきました。
それぞれには仕事の範囲と作業の手順を書いた紙と、
必要な道具が入っています。どれか好きなのを選んでくださいね」
翡翠は箱の前にしゃがみ、中の紙を手に取っては読み比べた。
「ええと……手ぬぐいと布巾の洗濯……縁側の廊下板磨き……庭の草むしり、か。
よし、廊下板磨きをやってみよう。
これまでやったことがないから、おもしろそうだ」
箇条書きにされた手順を、翡翠は口に出して確認する。
「1、まず廊下をホウキで掃き、風で舞いこんだ枯葉などのゴミを捨てる。
2、バケツに水をくみ、雑巾を浸して絞り、土ホコリをふき取る。
3、米ヌカが入った木綿の小袋で廊下板を磨き、ツヤを出す……
よし、まずホウキからだな」
楽しそうに、翡翠はホウキを手に取った。音矢はその様子を観察する。
(やっぱり、自主的に選ぶと、やる気が出るんだな)
(押しつけるように、これやれあれやれって言うと、
翡翠さんはヘソを曲げるから……)
計略は上手くいきそうだ。そう思って、音矢は自室に戻ろうとした。
だが、彼の目の前で、
「えいえい」
翡翠はホウキで枯葉を庭に目がけて掃きだす。箱にはチリトリを入れておいたが、翡翠はそれを手に取ろうとしていない。
「ゴミを捨てるというのは、チリトリで取って……」
言いかけてから、音矢は作業手順にゴミの捨て方を書き忘れていたことに気づいた。ホウキで掃くときに、チリトリでゴミを集める。それは音矢にとって、あらためて説明する必要も感じられないくらい、あたりまえの行為だったからだ。
「ひょっとして?」
翡翠に働かせている間に、自室で絵をかく予定だったが、それは取りやめた。不安になって、音矢は作業を見守る。
ポンプを動かして井戸からバケツに水を汲むことはできた。これは翡翠が水遊びをするときに覚えたことだからだ。次に、彼は雑巾をバケツに入れた。それを丸めてオニギリのように手のひらで包み、力を入れて水を絞る。
「よいこらしょおっ」
掛け声は勇ましい。だが、雑巾はまだたっぷりと水をふくんでいる。ポタポタとしずくを垂らしながら、翡翠は廊下に上がった。
べちゃ
丸めたままの雑巾で、翡翠は土ボコリ混じりの汚れた水を廊下板に塗り広げていく。
「……それでは、拭き掃除にならな……」
言いかけて、音矢は止めた。
自主的に行っている行為にケチをつけたら、即座に翡翠はヘソを曲げるだろう。
「翡翠さん、次の作業を行う時に、
廊下がビショビショだと効率が悪いんですよ」
「そうなのか?」
「ごめんなさい。どうやら、僕の手順書に不備があったようです」
音矢は翡翠の面子を考え、先手を打って謝った。
「……ボクも、音矢くんがいつもやっている廊下掃除とは
なんだか違うような気がしていた」
濡れた廊下板を翡翠は撫でる。
「[技術の発展に試行錯誤はつきもの」ってなことで、勘弁してください。
改訂版を作るまで、僕が補助します」
「頼む」
音矢は翡翠から雑巾を受け取り、庭に下りてバケツに絞る。もちろん円筒形に雑巾を丸めてから、竹刀を握る構えで縦に絞る正統な方法でだ。
「おお? まだそんなに水が出るのか!」
「この絞り方をお教えしましょう。こっちに来てください」
「わかった」
音矢は心の中でため息をつく。
(僕が楽をするための工夫なのに……かえって仕事が増えたよ)
音矢は後悔したが、やってしまったことは仕方がない。
「こんなふうに……」
音矢は雑巾の丸め方を翡翠に実演してやった。
「ほうほう」
翡翠はしゃがみこみ、音矢の仕草を好奇心に満ちた目で見つめる。新しい知識を習得できるというので、彼は喜んでいるようだ。その様子を見て、音矢の心は少し慰められた。
◆◆◆◆◆◆
礼文は事務所で集会の出席簿と会員名簿を照らし合わせている。会員名簿の管理と集会開催通知の発送は、津先が異動させられたので、また彼一人の仕事になった。
(これからは、集会に出席しないやつを実験台にしよう)
(顔見知りが殺人事件の被害者となれば、
せっかく役に立ちそうになってきた松木が動揺するからな)
次の実験台候補である水上文雄も不参加組だ。
(しかし、実験台1号の従兄とは、
おもしろい人物が[真世界への道]にかかわってきたものだ)
[おもしろい]
自ら勧誘し、悲劇に導いた少女とその身内のことを、礼文はその程度に考えている。
◆◆◆◆◆◆
富鳥義光氏は、彼の次男が住んでいる離れに島口を伴って訪れた。富鳥家の使用人である島口は、論文とラテン語の辞書を運んでいる。
分厚くて重い辞書を左の脇にはさみ、島口は右手でドアをノックした。
中村ムメがドアを開ける。彼女は離れ付きの女奉公人だ。義光氏は無造作にリビングのソファに腰を下ろす。島口はその前のテーブルに荷物を置き、一礼をして退出しようとした。ちょうどムメに取りつがれた義知が入室しようとしたので、島口は素早く脇によけ、頭を下げる。
義光氏はそんな使用人の動作など無視し、自分の向かい側に着席する息子に声をかけた。
「立派な論文ができたね。おめでとう」
富鳥義光氏は、帝都帝国大学経済学部卒だ。第二外国語はドイツ語をとったし、ラテン語も息子の辞書を借りれば大まかに理解できる。だから義知の論文を読むのにそれほど不自由は感じなかった。
「うふふう。これで陸軍の人たちが喜んでくれるねえ!
義知ちゃんがほめてもらえれば、パパも鼻が高いよお。うふふう」
しゃべりかたはこれだが、義光氏は、[知能だけは]高い。
父に手放しでほめられた義知は、照れ笑いをしながら、ふと感じた疑問を口にする。
「そういえば、海軍のほうからは神代細胞の開発を催促されなかったの?
もともとアレを見つけたのは海軍の探索隊でしょう?
陸軍になんで渡したんだろうね」
「神代細胞が発見されたのは30年くらい前だって言ってたから……
そのころは今ほど陸海軍の仲が悪くなかったんじゃない?」
義光氏は知りもしない事情を適当に推測した。
「それに海軍さんは、不死兵団よりも、不沈艦船のほうが欲しいみたい。
だから、予算の関係もあって
神代細胞の研究開発を陸軍に譲ったみたいだよ」
「ああ……たとえ不死身になっても、
撃沈されたら海に放り出されてしまうからか。
それなら神代細胞にまで手を広げずに、
開発予算を艦艇の研究にそそいだほうがいいよね」
義知は納得した。その目の前で、義光氏はふいに笑みを浮かべる。
「神代細胞を使って溺死することのない体になれたなら、
船が沈められても、
みんなで泳いで敵船に乗りこんで戦えばいいのにねえ。うふふう」
義知は、そっと父をたしなめる。
「パパ……泳いで軍艦に追いつくのは無理だよ」
「別に追いかける必要はないよ。
泳ぎながら航路で待ち伏せて、
敵船が通りかかったら乗りこめばいいんじゃあない?」
「そんな、船幽霊みたいな……」
あきれて絶句する息子をよそに、義光氏は得意げな笑みを浮かべた。
「うふふう。船幽霊か! それはいいねえ。
神代細胞が実用化されたら、
海軍さんにも分けてあげて、この良い作戦を教えようよ。
きっと喜ぶよ! うふふう」
自分の思いつきを自画自賛してから、義光氏は話題を変えた。
「そうだ。[真世界への道]の小冊子を見せてもらった感想なんだけどさ。
義知ちゃんの文は魔術の知識とその説明だよね?
でも礼文くんの書いた、
会員のめざす目標とか、会員としての心得は魔術愛好家向けというより、
均分主義者のために書いた文章みたいなんだけど」
「文章を書くうちについ、昔の癖がでてしまったんだろうね」
「昔?」
「元々あいつは均分主義者だったけど、
仲間に裏切られて勢力争いに負け、足を不自由にされ、
あげくに亡命することになった。
それですっかり懲りて嫌になって、
故国も主義も捨てたと言っていたじゃないか」
「ああ、そうだったねえ……」
しばし沈黙してから、ふいに義光氏の表情が明るくなる。
「そうだ。いいこと思いついたよ。うふふう」
父の笑いに、義知は不吉なものを感じた。
「そのせいで、
礼文くんに作らせた[真世界への道]の教義は、均分主義に似ているよね。
つまり、この教団が発展して大きくなれば、
均分主義にかぶれて国家を転覆しそうな奴らを
先にこっちに引き寄せられる。
つまり、魔術を夢物語として楽しみ、
日常は健全な社会生活を営む平和的な市民を育成することによって、
反政府的行動者の発生を防止するんだよ。
たとえるなら、天然痘になるまえに牛痘を植えて免疫をつけるようなものさ。
この計画を実行すれば、華族制を廃して
みんな均分にしようとする、悪いやつらを絶滅できるよ!」
手を叩いて、義光氏は自分の思いつきに夢中になる。
「そうだ、陸軍の憲兵さんも均分主義者が嫌いなんだよ。
あの震災の時も、名前は忘れたけど、とにかく憲兵さんが、
どさくさに紛れて均分主義者と、その愛人を殺してたし。
うん、均分主義者を絶滅させる方法を教えてあげたら、
きっと喜んでくれるなあ! うふふふふう」
彼は[自分の思いついたことで他人を喜ばせることが好き]だ。
富鳥義光氏は、本人の感覚では善人だった。しかし、その思いつきは迷惑どころか害にしかならない。
なにしろ、礼文は[真世界への道]を乗っ取って、ソユーズ連邦革命政府よりも過激な均分主義団体に作りかえようとしているのだから。均分主義を捨てたというのは、日本に受け入れてもらうための嘘だった。
華族であり富鳥建設社長の父である義光氏の後押しを受け、礼文の企みは進行していく。
その結果もたらされる惨劇を、この段階ではだれも予想していなかった。
次回に続く




