第三話
穂村彩子の家は近所にある。だから水上文雄は毎朝訪問し、彼女が姿を現すのを待つ。
この時代の女性らしく、彩子は女学校に通いながらも、家事を手伝って母を助け、いずれ嫁に行くときに困らないよう技能を磨いている。
つい先ごろまでは、早朝からの庭の掃除を担当していた。だから、この時間帯には生垣越しにホウキをもつ彼女がみえるはずなのだが、このところ空振りが続いた。当然、彼は面白くないし、毎日早起きするのもつらくなってきた。
それでも彼は日参することを止めない。
[つまらなくとも、飽きてきても、毎日欠かさず続ける。それが努力]
文雄も音矢と同じく、[継続は力なり]という方針で行われる日本の学校教育を受けて育ったために、忍耐心が鍛えられていた。
(病気にでもなったのかな。それならお見舞いをしようか)
文雄がそのように考えているとき、生垣の奥に動きがあった。縁側の向こうにある障子があき、寝起き姿の男が現れる。彩子の兄、武だ。彼は文雄の通っていた中学の先輩でもある。
「ああっ! 貴様!」
文雄に気づいた武は、裸足のまま庭に飛び降り、怒りをあらわにした表情でつめよってきた。
「こら! 妹は、すでに見合いをして婚約ずみだ!
貴様に手を出す権利などない!
あまりしつこくするようだと、たとえ後輩と言えど、許さん!」
武は名前の通りの武闘派で、柔道三段の腕前だ。だから文雄は転進する。つまり、すばやく回れ右をし、彼は自宅に駆け戻った。
(こんなにも、おれは彩子さんのことが好きなのに……
見合いでの婚約なんて、どうせ親同士の打算で結びついた仲だ。
人間同士、心と心が通い合って、その結果として交際にいたる。
これが正しい。
見合い制度などを良しとし、
愛し合う二人を引き裂く日本社会は間違っている)
玄関に入って安全を確認し、荒い息をつきながら、文雄は考える。
(やはり……[真世界への道]の魔術師となって、
彩子さんを手に入れ、男女の正しいありようを世間にしめす。
これがおれに与えられた使命だ)
悔しさでにじむ涙を袖で拭き、文雄は固く誓う。
◆◆◆◆◆◆
富鳥邸の離れにあるダイニングルームで、礼文は瀬野から渡された報告書と、それに挟まれていた絵を義知に見せている。
「なるほど、そこそこうまくかいてあるな。
たしかに角以外の特徴もとらえてあって、水晶によく似ている」
義知は礼文の提案に乗り気のようだ。
礼文は瀬野を送り出してから、事務所でこれからの方針を考えた。
(……水晶は角のある化け物だ。
そんな者が実際に存在すると世間にバレたら騒動になる。
だから他人に見せるわけにはいかない。
だが、この[絵]ならどうだ?)
彼は故国で幼いころに体験した宗教行事を思い出した。
キリスト教にはいろいろな種類がある。バチカンを中心としたカソリックや、それに抗議の声をあげることで始まったプロテスタント。ヘンリー8世が離婚をしたくて作り上げたイングランド国教会などもある。
ローマ帝国の分裂後、その東方では正教が信仰を集めていた。礼文の故国であるリューシャの人々も革命前は正教会に所属していた。
その儀式では、聖人を描いた絵を[信仰の媒介]として丁重に扱う。まだ均分主義を知らなかったころのレフ・ダヴィードヴィチは、親友であるワーニャと共に乳母に連れられて教会に通い、聖人の絵の前でひざまずき、自殺した実母の魂が救われることを真剣に祈っていた。
そのようなわけで、肖像画を[真世界への道]の信者が崇める象徴としてはどうかと、礼文は彼の主人に提案している。
「しょせんは素人の絵ですから、このままでは使えません。
しかし、きちんとした油絵がかける画家にこれを下絵として渡せば、
水晶の肖像画を作ることができます。
額に角がある水晶の姿を一般人に見せても、
実物や写真ではなく空想でかいた[絵]としてなら
機密上の問題はないでしょう。
そして、絵に普段から拝跪する習慣をつけて、
[真世界への道]に対する信仰心を高めるのです」
「なるほど」
義知はうなずいた。
「お前も、最近は建設的な提案をするようになったな。
積極的に働いて自分の評価を高めようとする理由といえば……」
少し考えてから、義知は意味ありげに笑う。
「質のいい報告書を作る下請けをオレが取り立てて、
いらなくなったお前を首にする……とか考えて、心配してのことか?
安心しろ。お前のほうが長い付き合いだから、このまま使ってやる。
それに、下請けの男は普通の日本人だそうだ。
お前は外人みたいで見栄えがいいから、ずっとオレのそばに置いてやるぞ」
「ありがたく存じます」
礼文は恭しく礼を言った。
義知の無神経な発言は、いつものこと。礼文を傷つける意図はないとわかっているからだ。だからといって許すつもりはない。
自分では慈悲深いつもりの義知は、[雇い主に認めてもらいたくて必死で働く、けなげな部下]の提案を検討してやる。
「そうだな。そもそも[秘密の首領]など
[真世界への道]の権威を高めるための虚像として
でっちあげた架空のものだ。
しかし、組織固めのためにはより具体的な象徴となる
憑代が必要……
不敬な話だが、[御真影]のようなものか」
礼文とは育った国が違うが、義知も自分の経験をもとにして、象徴の重要性を理解した。
1930年〔光文5年〕以前から、各学校では天皇陛下の写真を[御真影]として特別に作られた奉安殿に安置し、式典の際は児童たちに拝礼させていた。もちろん、義知がかよった鍛錬院学園でも、そのように教育している。
「銀座には肖像画専門の画廊もあります。
そこで画家を紹介してもらえるでしょう」
「ふむ。いいだろう。しかし、このままでは嫌だ。
実物を写生させるのならともかく、
仮にかいた絵を参考にするのなら、オレの好みを優先する。
もう少し大人……30代くらいに修正させろ。
秘密の首領がこんなガキでは頼りがいがない。
それから、角と眼の色だが、金色にしろ。
獅子宮の象徴は黄色だが、豪華な方がいいからな。
紫では宝瓶宮になってしまう。
肖像画の背景には、太陽のシンボルを入れて……
ついでだから、オレの写真も持って行け。
オレの面影もこの絵の印象に加えて使うように注文しろ。
なんといっても、真の首領はオレなんだからな」
「承知いたしました」
一礼して、礼文は二階の自室に戻る。音が漏れないようにドアを閉めてから、彼はステッキでベッドを叩いて鬱憤を晴らす。
「……こんなことばかりだ。なぜ、私の提案をそのまま通さない!
なぜ、よけいな思いつきをつけくわえる!
秘密の首領の姿と、水晶の姿が一致しなければ、
細胞を感染させる際に実験台が不審がるだろうが!」
階下のダイニングルームにいる義知に聞こえないよう、彼は小声で不満を述べた。
「なにが『最近は建設的な提案をするようになったな』だ!
私はずっと提案し続けていた!
それを、お前らが理不尽にも無視してきたのだろうが!」
神代細胞を実用化する実験を行うに当たって、礼文は孤島での実験継続を主張し、[真世界への道]信者を三浦半島経由で孤島に送る手筈の子細な計画を練り、提案した。しかし、結果は現在の通りで、帝都において実験が行われている。
義知が、危険なことをやりたくないので、父に拒否されることを期待し、帝都でなければ実験をしないと、わざと駄々をこねてみせたといういきさつを、礼文は知らされていない。
「無視したことさえ、記憶にとどめていないのか!
私の意見はあいつらにとって、その程度のもの……」
絶望が礼文の胸を締めつける。
「親子ともども、私の意見を聞きはしない。
聞いてもそのまま受け入れず、変形させてしまう。
だから、正しい道筋をたどることができず、
このように事態が迷走するのだ。
肖像画の件だけでなく津先まで、こちらの都合も聞かずに配置転換を……
腹が立つ。だが、私は雇われの身だ。
弱い立場にいる間は反論などできない…………」
むなしさが心を満たし、礼文はベッドを叩く手を止めた。
しばらくして、息が整ってから彼はつぶやく。
「しかし、このままでは終わらないぞ。
逆境にあっても、
均分主義者は世界を正しくあらしめるため、くじけず進むのだ。
私はそうしてきた。今も、これからも、だ」
胸に手をあてて、礼文は自分に誓う。
「かならず、私はあいつらより、上に立ってみせる!」
彼もまた、努力を惜しまない男であった。
次回に続く




