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第八話

 自室のベッドに寝転んで、翡翠は音矢に借りた最新号の[萬文芸]を読みながら考えた。


(この【懐かしい思い出】という写真つき読み物は興味深い)


 それは、各界の著名人たちが同じテーマで書く連作随筆エッセーだ。


 今回の筆者は、幼いころ山の中を駆け回ってヘビの抜け殻や木の実を拾い、さまざまな虫を捕まえては家に持って帰ったという思い出をつづっている。随筆に添えてある写真は、筆者が住んでいた村の風景だ。


 彼の母は差し出された虫を見ると、『これの名前は何というのかしら』『どこで見つけたの』『見つけた場所の周りにはどんな草が生えていたの』などと質問した。


 母の問いに答えようと観察し、学校に置かれた図鑑で調べるうちに、彼は植物や動物の知識を蓄えていった。そうして山を駆け回るワンパク少年は、生態系を研究する立派な学者になったのだ。随筆の結びとして、生物に対しての好奇心を育ててくれた母への、感謝の言葉がささげられていた。


(ボクも学者になりたいから、同じようにしてみよう)


 翡翠はベッドから降り、棚に置いてあるビスケットの缶を手に取る。



   ◆◆◆◆◆◆



 定期監査に訪れた瀬野が車を降りたところに、翡翠が駆け寄った。


「瀬野さん!」 


 彼女は、翡翠が手にしているものに、目を向ける。


「あら、銀座で買ったビスケットの缶ね。どうしたの?」


「中身を食べてしまったから、宝物入れにしたんだ。

 いいものを集めたから、見てくれ」


 翡翠は蓋を開ける。


「どれど……きゃああああああ!」


 悲鳴を上げる瀬野に、翡翠はつまみ上げた中身を見せた。


「ほら、ヘビの抜け殻だ。庭の隅で見つけたんだ」


「そ、それだけじゃあなくて! か、缶の……中!」


「ああ、生きたままのダンゴ虫だ。たくさん捕まえたぞ。

 見てくれ。ミミズもいる」


 彼は缶ごと瀬野につきつけた。


「近づけないでええええ!」


「どうして騒ぐ?」


 翡翠は不思議そうに小首をかしげる。


「瀬野さん、翡翠さんは指先の力加減ができるようになったんですよ。

 これまでは強くつまみすぎて虫を潰していたんですけれど、

 とうとう生きたまま、柔らかく持ち上げられるように……」


 音矢も口添えするが、瀬野は耳をかさない。


「いいから、あっちにやって!」


「しかたないですね」


 音矢はそっと翡翠の肩に手を乗せる。


「翡翠さん、

 そのまま缶の中にいたら

 ダンゴ虫もミミズも干からびて死んでしまいますよ。

 人間に害を加えるわけでもない虫を

 意味もなく殺すのは、かあいそうですから、

 元いたところに逃がしてあげましょう」


 すぐには翡翠の返事はなかった。やや間をおいてから、彼は口を開く。


「……彼らは死ぬのが嫌だろうか」


「そりゃあ、小さくても生きているんですから、

 死にたくはないでしょうよ」


「わかった……」


 うつむいて、翡翠は庭に歩いていく。



   ◆◆◆◆◆◆



 瀬野が音矢の家計簿を見ているとき、普段は翡翠もそばに座る。しかし今日の翡翠は彼女に背を向け、縁側で膝をかかえていた。


 監査が終わり、瀬野はため息をついた。


「まったくあんたは、翡翠くんに悪さばかり教えて……」


「え? 虫を捕まえるのは、普通の遊びですよ。

 だから、僕は止めなかったんです」


「でも」


 瀬野に皆まで言わせず、音矢は真剣な顔で質問する。


「瀬野さんに尋常小学校の教科書を見せてもらって、

 翡翠さんは遠足や運動会のある学校生活にあこがれているんですよ。

 だから、翡翠さんは普通になろうと日々努力を重ねています。

『普通のことが全部できるようになったら、学校に通わせてあげる』と

 瀬野さんがおっしゃったからですよ。それは真実ですよね」


「ええ、本当よ」


 瀬野は断言した。


 彼女にうなずいてから、音矢は翡翠の背に話しかける。


「ところで、翡翠さん。尋常小学校は13歳で卒業と決まっているんです。

 20歳では入学することができません。それをご存知ですか?」


 真実を突きつけられ、瀬野は狼狽した。


「ええっ! そんな……ちょ、ちょっとまってよ!」


 翡翠は立ち上がり、瀬野の正面に回る


「瀬野さん。ボクに嘘をついたのか!」


 その瞳は、普段より若草色の光が強い。


「あ、あのねえ、ええと……」


 瀬野はまともに答えることもできずにうろたえている。それを見ていた音矢は茶箪笥ちゃだんすの引き出しに入れておいた帳面を手に取り、そこに貼ってある新聞の切り抜きを二人に見せた。


「あはは。大丈夫ですよ。ほら、これを読んでください」


 記事の見出しには、こう書かれていた。


《長年の夢ついに叶う。30歳にして卒業資格を手に》


 それは、元号が〔光文〕となった世界で近年できた、高等学校卒業資格取得試験のことを報じた記事だ。


 大日本帝国国民にとって尋常小学校までが義務教育だ。しかし、病気や怪我などで長期入院を強いられるなど、様々な事情で卒業できなかった人たちがいる。彼らは独学で力をつけても、資格試験や各種の学校入学試験を受けることができない。応募する条件に小学校卒業を提示しているところが多いためだ。そんな彼らを救済するためにこの制度ができた。小学卒、中学卒、そして高等学校卒の三段階があり、自信のあるものは二段跳びで高等学校卒業資格試験に挑んでもよい。


 記事には子供のころ大怪我をして出席日数が足りず小学校を卒業できなかった人が、証明書を手にして喜んでいると書かれていた。彼は後遺症で足が不自由になったが、父に技術を教わり、カンザシやブローチを作る彫金職人として自活できるようになった。しかし彼の胸に燃える向学心は消えることなく、独学で勉強を続け、今年の試験で見事に高等学校卒業資格を取得できた。


 これで念願の大学入学試験に挑める。兵隊として敵と戦うことはできないが、せめて機械工学を学び、強力な新兵器を開発して大日本帝国の役に立ちたいという、政府におもねる記者が誘導したような談話で記事は締めくくられていた。


「この制度をつかえば、

 翡翠さんが、ふさわしい学力さえ身につければ

 大学進学できるってことです。

 神代細胞を研究する科学者になりたいなら、

 今から小学校に回るより、こっちのほうが手っ取り早いでしょう」


「本当か!」


 音矢の言葉を聞いて、翡翠の目から怒りの色が消えた。


「……でも大学とは、どんなところなんだろう?」


 不安そうな表情を浮かべた翡翠に、音矢は説明する。


「僕が子供のころお世話になっていた

[一ツ木のおじさん]に聞いた話なんですけれど、

 学問にはげむ以外にも部活動などがあって、

 とても楽しいところらしいですよ。

 野球部、テニス部、演劇部、文芸部などと、よりどりみどりで、

 おじさんは山岳部に入ったそうです。


 大学時代のおじさんは、

 登山成功を祝って仲間とお酒を飲んだり、

 大学野球の応援に行って打ち上げの酒宴に加わったり、

 演劇部の人とシェークスピアについて語り合いつつ

 差し向かいで飲んだりと、楽しく過ごしていたそうですよ」


「おお! それはいいな!」


 喜ぶ翡翠とは裏腹に、瀬野はあきれたような表情をうかべる。


「そのおじさん……学問そっちのけで飲んでばかりね」


「あはは。部活動などが楽しくて遊んでいたせいで

 ギリギリの成績で卒業する始末だったそうですが」


 笑って見せてから、音矢は真面目な顔になった。


「それはそれとして、

 通常の道を通らずに大学に行き、立派な学者になりたいのなら

 翡翠さんはがんばって学力をつけなければなりません。

 流体力学や慣性の法則の実験などは続いていますし、

 あらたに虫の研究観察を始めたのはいいとして、

 このところ、算術の計算問題集、やっていませんよね?」


「……それは……やはり面白くないし……」


 目をそらす翡翠に、音矢は追い打ちをかける。


「まあ、7、8月中は夏休み期間ですから、僕もうるさくいいませんでした。

 でも、もう9月です。そろそろ気持ちを切り替えて勉強しましょうね。

 研究機関の上層部が、

 翡翠さんの姿を受け入れてもらうように学校側を説得してくれると

 瀬野さんは保証してくれましたし、

 組織は金回りもいいようですから進学資金も出してくれるでしょう。

 でも、肝心の翡翠さんが学力不足で試験に落ちたら、そこで終わりです」


「わかった……明日からやる」


 しぶしぶと、翡翠は同意する。



   ◆◆◆◆◆◆



 翡翠が細巻寿司を気に入ったので、今回も作っておいた。その他にも音矢は酒のつまみを用意していたのでちゃぶ台にはすぐ料理が並び、翡翠と瀬野は酒、音矢は麦茶で乾杯する。


「……なあんだ、流体力学だの慣性の法則だのいうから、

 どんなすごい勉強をしているのかと思ったら……

 水遊びとビー玉遊びだったの?」


 会話するうちに、翡翠は音矢が使った詭弁の[種明かし]を自分自身の言葉で瀬野に解説することに成功した。これは良い傾向だ。音矢はあえて次の話題を提供せず、食事に専念した。


「……瀬野さん」


 やや間をおいて、翡翠が口を開いた。それは音矢が期待していた通りの質問だ。


「なぜ、ボクは小学校に入れないことを先に教えてくれなかったんだ? 

 おかげでボクは誤解していた。

 ずっと小学校生活にあこがれて、夢見てきたのに……

 それが消えてしまった。ボクはさびしい」


「そのかわりに、大学に行けるんだからいいでしょう」


 すました顔で、瀬野はナスの煮びたしをつまむ。


「それなら、なぜ卒業資格認定試験のことをこれまで黙っていたんだ」


「研究機関の偉い人たちも、

 最初からその試験を受けさせるつもりだったけれど、

 世間のことを全く知らない翡翠くんに、

 そんな複雑な仕組みを説明するのは大変でしょ? 

 だから、小学校に入れてあげるって、とりあえず言って、

 勉強したくなるようにしむけたのよ。

 どちらにしろ、基礎である小学校の教程を習得しなければ、

 次の中学、高校の勉強もできないもの。

 いずれ試験のことは教えるつもりだったのに、

 音矢が先走って口にしてしまったの」


「……そうだったのか……」


 追及を止め、翡翠はコップの冷酒をあおる。


 音矢は二人の会話を静かに観察していた。


(いいところに目をつけたんだけれど、

 翡翠さんにはまだむずかしかったようだな。

 瀬野さんに言いぬけられてしまった)


(資格試験を受けさせる予定があったのなら、

 僕が小学校の卒業年齢のことを持ち出したときに

 堂々とそれを言えばいいんだ。

 きっと翡翠さんが改めて質問するまでの間に、

 瀬野さんは言い訳を考えていたんだろう)


 音矢は翡翠を鍛えるために、瀬野を利用した。


(嘘を見抜く力も、生きていくためには必要だ。

 でも、僕は事実しか口にしない主義だから、相手役として適切ではない)


 そのようなわけで、瀬野が嘘をつかざるを得ないような状況を設定し、翡翠が追求したくなるように誘導したのだ。


(それに、僕自身がちょっかい出してばかりだと、

 彼女に耐性がついてしまうからな。

 翡翠さんを成長させるついでとして、瀬野さんにけしかけて楽しもう)


 音矢は瀬野がうろたえたり、驚いたりするのを見るのが好きだ。

 すました顔で彼女がその場逃れの嘘をつく様子を見物するのも、楽しい。


(卒業資格試験はそれほどの効果はなかったけれど、

 虫攻撃はうまくいったな)


(ヘビの抜け殻は、

 僕が雑木林でカマドの炊きつけにする小枝を拾っているときに手に入れた。

 それを翡翠さんが見つけやすいところに置いておいた。

 予想通り、抜け殻を翡翠さんは瀬野さんに見せてくれた。

 あの随筆を読んだら、真似すると思ったんだ)


 私物として購入した[萬文芸]を、音矢は翡翠より先に目を通している。今月号の【懐かしい思い出】を読んで、彼はこの計略を考え、成功させた。


(あの学者さんの母親と違って虫嫌いな瀬野さんに、

 翡翠さんを使ってヘビの抜け殻や、ダンゴ虫とミミズを見せてやった。

 僕が子供のころ、同じものを披露した時も、

 母さんは悲鳴をあげていたっけ)


 記憶の中の母と、今日の瀬野の姿を音矢は心の中で重ねてみる。その結果、彼の心は喜びに満たされた。


(まあ、好きな子をいじめてしまうのは普通のことだよね)


 一般論を持ち出して、音矢は自分の歪んだ恋愛感情を正当化する。





次回に続く









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