表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/164

第七話

 上野公園に響くセミの声が、国立博物館に入ったときとは違っている。午前中はクマゼミに混じって時おり聞こえたミンミンゼミは休憩し、やや西に傾いた日差しの中、アブラゼミのジジジジジ…という鳴き声が暑苦しく辺りを支配している。


 まだ強い太陽から守るように、山中珠子は弟の水兵帽を直す。モダンな洋装姿をした彼女と水兵服を着た少年の背後には、姉弟の父に師事している書生の飯野が付き従っていた。


 山中雅彦は珠子を見上げ、礼を言った。


「姉さま。ありがとう。今日は楽しかった!」


「ふふ。私も楽しかったわ」


 姉弟の母は、健康状態の悪化をおそれて雅彦を外出させたがらない。しかし、珠子は母を説得し、やっと今日、上野の博物館に弟を連れ出すことができた。


 外出のきっかけとなったのは、先日上野公園で出会った二人連れ、雅彦のように体の弱い少年と、彼につきそって介抱をしている書生らしい若い男だ。彼女は彼らをそのようにとらえた。


 少年は暑さで気分が悪くなったようだが、それでも博物館の展示を見られたことをとても喜んでいた。だから、珠子も弟を楽しませてやろうと思ったのだ。


 しかし、もしも雅彦が倒れた場合、いくら華奢きゃしゃだとはいえ、12歳の少年を背負って広い上野公園をつっきり病院まで連れて行くような肉体労働は、お嬢様育ちの珠子には不可能だ。そのようなわけで、母を安心させるために書生が同行することになった。


「……万が一に備えて同伴を命じられた飯野さんには

 迷惑かもしれなかったけど」


 書生の心を配慮して発した言葉だが、彼女が受けた返事は、


「別に」


 という、ぶっきらぼうなものだった。珠子は自分の気配りを無碍にされたように感じ、失望する。


 もし、彼が音矢のような性格だったなら、


『いえ、迷惑なんてことはありません! 

 坊ちゃまとお嬢さまのためなら、たとえ火の中水の中。

 全力で働きますよ! 俺も博物館に行けて楽しかったですしね』


 くらいの愛想を言えただろう。しかし、飯野にそのようなことはできない。


 間の悪い沈黙が生まれた時、背の高い男が三人の前に立ちふさがった。


「おい、君!」


「な、なによ?」


 とまどう珠子を無視し、彼は雅彦に問う。


「松木呉羽のことで聞きたいことがある」


「その人は誰ですか? ぼくは知りません」


 きょとんとした表情の雅彦を、男は怒鳴った。


「とぼけるな! 俺はちゃんと証言をつかんでいるんだ! 

 お前らは、あの殺人事件のあった日に、

 大神公園で松木呉羽と話していたそうじゃないか!」


 弟をかばうように、珠子は声をあげる。


「そんな人、知らないわよ! 

 お願い、乱暴な口きかないで! 弟は心臓が弱いの! 

 怖がらせたら、発作が……」


 言っているそばから、雅彦は苦しそうに顔をゆがめ、胸を押えてうめき声をあげた。


「う、うう……」


「ふん、体が悪いふりをして逃れようとしても騙されないぞ」


 身をかがめた雅彦に近づこうとした健二は、横面に衝撃をくらった。


 飯野が無言で、右ストレートをお見舞いしたのだ。


「貴様、暴力とは野蛮……」


 皆まで言わせず、飯野はさらにパンチをくりだす。


 ボカッ


「ぎゃあ!」


 飯野は口で表現するのが苦手だ。だから、黙って拳をふるう。


 ボカボカボカボカボカボカボカボカ


 連打に耐えきれず、健二は逃げる。


「くそっ、覚えていろ!」


 1930年〔光文5年〕、この時代ではよく使われる捨てゼリフを彼は吐いた。


「おまわりさん、あいつです!」


「子供を狙う変質者かもしれないわ! はやく捕まえてください!」


 洋装をまとった婦人たちが健二を指差して口々に叫ぶ。彼女らは水兵帽をかぶった少年を伴っていた。

 そのうちの一人は膝をすりむき、血がにじんでいる。


「おい、コラ! そこのノッポ、待て!」


 巡査が腰のサーベルをガチャガチャと鳴らし、駆け寄ってくる。


 危険を感じた健二は、さらに加速しようとした。その頭に何かがぶつかった。痛みでしゃがみこんだ、彼の横に落ちたのは、片方の下駄だ。


 飯野は自分が履いていた下駄を投げつけ、逃走を止めたのだ。


「飛び道具とは、卑怯なり……」


 つぶやきながら立ち上がろうとした、健二の体を複数の手が押さえつける。


「捕まえたぞ!」


「よくも、坊ちゃんに言いがかりをつけたな! 

 おまけにケガまでさせて!」


 書生服の男たちが、よってたかって健二を取り囲む。その後ろから水兵服の少年たちが、おびえた様子で捕り物騒動を見ている。彼らの中にも膝をすりむいた者がいた。


 その群衆の中に、片足ケンケンで進んだ飯野は、黙って下駄を回収し、姉弟のところに戻ってきた。


「な……なにが起きているの?」


「さあ」


 彼の返事はやはり、ぶっきらぼうなものだった。

 しかし、珠子はその言葉に、なにか暖かいものを感じた。



   ◆◆◆◆◆◆



 組織の綱領を成文化する作業を、礼文は喜んで引き受けた。これは[真世界への道]を彼が手中に収めるために都合のいい仕事だからだ。


 旗作りの方は、部下に投げた。礼文も芸術的な才能に自信がないということもあるが、それに加えて津先の反応を試してみたいという理由もある。


「この本をもとにして、[真世界への道]の旗を作れと主催者さまが仰せだ。

 津先くん。まかせたぞ」


「でも、俺は世界史の教員で、美術の心得はないですし、無理ですよ……

 そもそも就職する時に聞いた仕事内容と、

 どんどん違ってきているんですが。業界紙の編集のはずが……」


 ヒュン


 杖の一振りで、津先の抗弁は止まる。むろん礼文が魔法をかけたのではなく、その杖で打たれる痛みを津先が想像したからだ。


「最初は単なる従業員だったが、

 現在の君は[真世界への道]の上級会員だ。

 会の運営に関わる仕事をまかされるのが光栄だと思えないのなら、

 その資格を疑わざるを得ないな。当然降格か、あるいは退職を」


「やります! やらせてください」


(ああ、理不尽だ。好きで上級会員になったわけでもないのに。

 首にすると脅され、騙されて、犯罪に手を染めて……

 それでも、ここで放り出されたら、警察からも守ってくれないだろう。

 仕方ない、やるか)


 しぶしぶと、津先は帰宅途中に文房具屋で画用紙と水彩絵の具と筆を買い、領収書をもらう。


 下宿方向に走るバスの車中で、【オズの魔法使い】を飛ばし読みし、だいたいの内容をつかんだ。


 彼の下宿は夕飯を出してくれない。いったん自室に鞄を置いてから銭湯に行って夏の暑さで汗をかいた体を洗い、持参した浴衣に着替えて定食屋で食事をとり、帰宅した津先は煎餅蒲団に横たわる。


 しかし、今考えている内容は旗のデザインではない。


(少女、イヌ、カカシ、ブリキのキコリ、ライオン……)


 物語の登場人物を使い、人前ではできない激しい妄想に彼はふけった。



   ◆◆◆◆◆◆



(……ふう)


 手を清めてから、サッパリした心で津先は机に向かう。


(今想像した光景を絵にかいたら、変態扱いされるな)


 自分の姓癖が、一般社会から受け入れられないであろうことを、津先は自覚している。


(上に提出するのは無難なものにしなければ)


 彼は各国の国旗を脳裏に浮かべた。


(俺は美術の成績が悪かったからな……)


 プロイセンの国旗のような、鷲が羽と足を広げた複雑な図案など津先にはかけない。


(だから、直線で構成された単純な図案にしよう。

 イギリスでもフランスでも、そんな旗を使っているしな)


(俺は幾何の教育をうけたから、

 定規とコンパスで製図して、色を塗り分けるくらいならできる。

 でも、三色旗は多くの国で使われているから、

 かぶらないよう、別の形に……)


 ふと、津先は昔見たものを思い出す。


(そうだ。教員時代、均分主義に勧誘されたときに見た

 あれを参考にしよう)


 彼がまだ中等学校の教員だったころ、職場の待遇改善を目標として教員団体を結成しようという活動が行われていた。津先もそれに誘われたが、当時の彼はごく普通の社会人であったので、非合法な団体に入会することを恐れ、なんとか断ったことがある。


(たしか、均分団の旗は黒い横線を水平に引く図案だったな)


 それは世界が完全均分化した状態を表すそうだ。黒線の背景にある色は、分派ごとに異なる。ソユーズ連邦はオレンジがかかった黄色、日本の均分団はそれよりも肌色に近い黄色を使っている。


 その対抗組織である唯日主義者たちは、空色の地に太い赤線で半円をえがいた旗を使う。日の出から日の入りまでの太陽軌道を表しているそうだ。


([秘密の首領]を名乗る主催者さんの論文に礼文さんが添える解説は、

 均分思想が含まれている。ひょっとしたら親派なのかもしれない)


[親派シンパ]とは均分団に入会はしないが、その思想に親近感をもつ人たちのことをいう。


(だから、均分団に似た旗なら、気に入ってもらえるかも)


 上司の顔色をうかがい、好みを推し量り、それに合わせて行動する。普通の社会人としての処世術を津先は心得ていた。



   ◆◆◆◆◆◆



 津先が領収書を添えて提出した画用紙を、礼文は主催者の意見を聞くといって持ち帰った。


 自室であらためて眺める。津先の狙い通り、均分主義の旗に似ている図案は礼文を喜ばせた。


(画面を黄金比に分割した黒い横線を地平線に見立て、

 その上は青く塗り、空を表す。

 下には、縦に細い黄色の台形がついている。これが道に見えるわけだ。

 その両脇は緑色。これは野原に見立てているのか)


 次に、大学院から帰宅した義知に図案を見せる。


【オズの魔法使い】に登場する[黄色いレンガの道]だ、といって義知もこの旗を気に入った。


(やはり、私が想像した通りの結果になったな)


 旗を作れと命じたとき、津先は『美術の心得がないからできない』と言った。しかし、脅しながら強引に命令したら、立派な旗を作り上げた。


 礼文はこれまでのことを回想する。


(最初の講演会を開くときも、

『集会場は予約制だから、急に開催はできない。2、3か月はかかるかも』

 と言っていた。

 しかし無理にやらせてみたら、1か月後の予約を獲得した。

 津先は、渋る公園管理人を粘り強く説得したと自慢していた)


(要するに、津先は怠け者なのだ)


 礼文はそう結論づけた。


(やればできるのに、仕事をしたくないから『できない』というのだ。

 それとわかれば、あいつの拒否など無視しよう)


 彼は今後の組織指導方針を決定する。


(文句を言いながらも、仕事を振れば責任をもってやりとげる。

 そこは日本人のいいところだ。

 こんな国民に正しい教育を授ければ、

 ソユーズ連邦を越える真の均分主義国家建設も夢ではない)


 礼文は、彼の理想とする未来に一歩近づいたように思った。





次回に続く






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ