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第七話

 貸家に到着し、瀬野が帰社する時、音矢は紙束を渡された。


「三番目の始末のとき預かった[真世界への道]の文書よ」


 音矢の報告書は経過をきちんとまとめてあるし、その上彼は[回収石]の発明という成果を成し遂げている。 名目上ではあるが、神代細胞実用化の研究主任である富鳥義知は、音矢の能力を評価し、今後の実験方法などについて彼の意見を聞きたいと礼文を通じて要請してきた。入谷弁護士は承諾し、瀬野にこの文書を預けた。


「これがなにか?」


 瀬野は音矢の顔色をうかがう。だが、なにも読み取れない。しかたなく、上司から命じられたことを伝える。


「つまり、[真世界への道]の小冊子を読んで、

 礼文の側に立って意見書を書けと?」


「あ、あのね、その……」


 瀬野が言い訳をもとめて口ごもっている間に、音矢はみずから答えを出した。


「そうか、[敵を知り、己を知れば百戦危うからず]……

 自分の視点だけでは独りよがりになりますから、

 逆の立場になったと仮定して思考実験をするのは必要ですし、

 興味深いことです。自分なりの考察もつけて書いてみますよ」


 瀬野はあわててその答えに飛びついた。


「そ、そういうことで、お願いね……

 あと、翡翠細胞と水晶細胞の報告も、

 今まで通り別々に書いて、それぞれを綴じておいて。

 整理の都合があるから」


「はい、わかりました」


 音矢は平然と書類を受け取る。それを見て、瀬野はまた違和感を覚える。


(あの時、大慌てで身体検査までして回収した文書なのに)


 三番目の実験台である南方実篤は、焼却処分しろと命じられた[真世界への道]関連の文書を、ゴミ箱に捨てていた。それを音矢が発見し、瀬野に渡した。連絡先の住所だけ破られていると彼は言ったが、彼女はそれを信じずに音矢を身体検査した。破られた紙片を音矢が隠していると疑ったのだ。銀座にある[真世界への道]事務所の存在が音矢にバレ、礼文と自分とのつながりが明らかになったらと不安になっての行動だった。


(なんで、素直に受け取って、疑問を言わないの? 

 いまごろ返す私を不自然だと思わないの?)


 彼女には、音矢の精神が理解できなかった。



 瀬野は諜報機関で働くように肉体的な鍛錬を受けて育てられた。だが、自己の重大な欠点のために試験に落第し、最終的な調整を受けられなかったので、まだその心は普通の人間と同じだった。


 諜報員候補だからといって、社会から切り離して教育を行えば、一般人のふりをすることができない。非常識な行動で悪目立ちしてしまえば情報を収集するまえにつまみ出されるだろう。社会に受け入れられるような礼儀作法、教養、言葉づかいは幼いころから躾けられなければ身につかないのだ。


 だから、まともな教育を受けていない下層階級から候補者を掬い上げることを諜報機関は行わなかった。しかし、候補者である子供たちを上流階級として育てるには予算が足りない。それで瀬野とその仲間たちは、教育熱心な中流階級の家庭を想定して育てられた。


 諜報機関と言っても組織なのだから、上役には逆らわず、決まった時間に決まった場所に出勤し、与えられた仕事を行うという、一般人として普通の素質が必要とされるからだ。訓練で得た能力を組織に役立てることなく、逃走して自分勝手に生きるような存在は許されない。


 また、音矢のように、表面上は逆らわないが、隙を見ては自分の目的を使命に紛れて達成するような自立した精神は養われていない。上役の言葉を裏読みして真実を暴くようなことは、瀬野にとって想定外だった。だから、彼女は音矢を理解できない。




 一方、音矢は文書を返してもらった時、このように考えていた。


(もう、瀬野さんが礼文と通じている件はほぼ確定したから、

 刺激する意味がない。

 それに、今日は翡翠さんの進学問題で困らせてしまった。

 だから回収された文書が戻ってきた件については深く追求せずにおこう。

 からかって楽しんだから、

 こんどは反抗せずに従い、喜ばせてあげなくては釣り合いが取れない)


(そして瀬野さんは内通していることを気に病んでいるようだから、

 むしろ、[そんなことを疑っていないふり]をしてなぐさめてあげよう。

 神経衰弱になって退職されたら、

 次に配属された人を手駒にするために、また最初から観察をやり直しになる)


 音矢は瀬野の表面的な反応を観察し、彼女の支配欲を利用して操っている。


 しかし、彼にも瀬野の感情の深いところ、おのれの意に反した行動をとっていることの違和感に苦しんでいることまでは理解が及んでいない。そして、瀬野にわざと嘘をつかせ悪あがきさせて楽しむという音矢の趣味は、彼が想像する以上に彼女の精神に負担をかけている。だから、二人の行き違いは広がっていくばかりだった。



   ◆◆◆◆◆◆



 帰社した瀬野は、入谷弁護士に今日の報告を行う。しかし、翡翠が体調不良を起こしたことは語らず、すべて順調だったと嘘をついた。


[上役には逆らわず、決まった時間に決まった場所に出勤し、与えられた仕事を行う]が、自己の失敗や仕事の不具合を正直に伝えることをせず、嘘でごまかす。これは彼女がもつ重大な欠点の一つだ。


「食事代の領収書です」


 入谷はそれを受け取ってから訊ねる。


「瀬野くん、あの洋食屋で、彼らは楽しんでくれたか?」


 おいしい料理を手ごろな値段で出す店を瀬野に教えたのは彼だった。


「はい、それはもう。普段食べられないごちそうだと、

 二人とも喜んでいました」


 瀬野にしても、口にする言葉が全て嘘というわけではない。

 真実の報告を受け、入谷は満足げにうなずく。


「よしよし。やはり、よく働いてくれる二人には、

 英気をやしなってもらわねばな。

 それには、直属の上司にあたる君との会食が効果的だ。

 翡翠くんはあの姿を恥じて外出したがらないそうだが、

 それでは体力もつかない。

 医学の研究を進めるには体力が必要と、私の友達が言っていたよ」


 翡翠はずっと外出を求めていたが、正反対の報告を瀬野はあげていた。それどころか、家にこもろうとする翡翠を説得して外出させたと嘘をつき、自分の功績としている。


「私は他の依頼人からの仕事を片づけるのに忙しいし、

 孫が入院している病院にも見舞いにいかなければならないので、

 彼らと接触する暇がない。

 それに、こんな爺さんと差し向かいより、

 君のような若くて美しい女性との会食のほうが楽しいだろう。

 彼らの精神状態を良好に保つのも、君の仕事だからね。

 君が引率して適度に外出させ、鬱屈を発散させてくれ」


「はい」


 音矢が計略を練って瀬野から勝ち取った外出許可。それは、もともと入谷弁護士から積極的に行うように彼女が指示を受けていたものだ。しかし、瀬野は面倒なので実行しようとしていなかった。彼女のもう一つの欠点は、サボリ癖だ。


「もちろん、彼らから目を離さずにいて逃亡を防ぎ、

 逆に情報漏洩を防ぐために、一般人と接触させないように気を配ってくれ。

 通りがかりの人が話しかけてきたら、君が盾となるんだ。

 直接会話させてはいけない。くどいようだが、もう一度言っておくよ」


「充分承知しています。今日も一般人と会話しそうになりましたが、

 すべて私が割って入って対処しました」


 どうどうとした態度で、瀬野は言い切った。


 自己保身のために上役に嘘をつき、自分が楽をするために部下を押さえつける瀬野の仕事ぶり。

 それは[ダメな中間管理職]としてはよくある普通の行動だ。


 そんな彼女の行動原理は音矢のような[有能な下働き]には理解できない。これも二人の行き違いの原因だった。



 瀬野は帰宅してから体操着に着替え、近所一周の走りこみを行った。


(ああ、なんだかすっきりしない。こういうときには、体を動かすにかぎるわ)


 学問は親に強制されなければ、労働は上司に命令されなければ、やろうとしない彼女だったが、運動は別だった。彼女にとって、自分の楽しみはなによりの優先事項だ。休日には近くの公園にある体育館の施設で器械体操などの鍛錬をしている。この施設も災害対策法の施行によって建てられたものだ。大神公園のように集会所にするものもあったが、南天荘の近所にあるのは体育館だった。体を動かすと、嫌なことを忘れて、心にたまったものが汗と一緒に流れていくように、彼女は感じていた。



   ◆◆◆◆◆◆



 布団に横たわり、タオル地の上掛けを腹に乗せて、音矢は目を閉じる。


 うつらうつらするうちに、枕元に気配を感じた。そちらに顔を向けようとしたが、すでに体が動かなくなっている。意識だけを気配に集中すると薄白いものが観えた。目も鼻も口もない、手足もない等身大の塊だ。音矢はこれに、[オバケくん]という名前をつけて、話し相手にしている。といっても、相手から返事はこないので彼が一方的に心の中で語りかけるだけだ。


(おとなしく拝んでいた僕らに声をかけ、

 からんできたのは、あのおじいさんだよ……

 それを迎え撃っただけなのに迷惑かけたなんて、瀬野さんもひどいや)


(僕は間違ったことを言っていないのに)


 音矢は、上野での出来事について、オバケくんに愚痴をこぼした。


(どうして、僕のことを[頭痛発生機]だなんて非難するんだろう)


(たしかに、僕は一般常識とは異なる視点からの意見を述べたがる傾向がある。

 固定観念をくつがえされて、相手がとまどい、

 混乱するところを見るのが僕には楽しい。だから何度もやらかす。でも……)


(いつでもそればっかりでは、なんだか寂しいな。

 たまには、僕の意見に賛同はしなくても、

 そういう発想もありうるって納得してほしい。

 違う意見だからって、頭から否定し、拒否しないでほしい)


(僕にひっくりかえされた固定観念は、

 このような理由があるから世間の他人が支持していると、

 理論的に説明してもらいたい。

 それが適切なら、僕だっていたずらに否定ばかりしないで、

 固定観念の正当性を認めるのに……)


(お互いに意見が違っていても、

 そのうえで相手を理解しようという姿勢を持つ人と、

 ゆっくり語り合ってみたいなあ)


 音矢は、これまでになかった種類の心の痛みを、最近感じるようになってきている。しかし、それを訴えられる相手は、音矢にとって[オバケくん]しかいない。


 音矢は枕元に意識を向けた。音矢のことを攻撃するでも、彼から逃げ去ることもなく、薄白い塊は、ただそこにうずくまっている。


(オバケくん、君はいいな)


(僕が何を言っても、

 博物館で話しかけてきたおじいさんや瀬野さんみたいに動揺しないし、

 否定もしない)


(翡翠さんは僕の言うことを否定せず、ときには喜んではくれる……)


(でも、翡翠さんと一緒にいると、つい見栄をはってしまう。

 いつでも[頼りになる音矢くん]でいようとすると、疲れてしまう)


(君はただ僕のそばにじっと座っているだけ。

 それだけなのに、なんだか心が休まるんだ。

 ……無理をしなくてすむから……かな……)


 音矢はオバケくんに見守られながら、眠りにつく。



   ◆◆◆◆◆◆



 眠る前に机に向かい、彼女は魔術師になるための試験対策を行う。


(身体に力がみなぎってくるのがわかる。変化の予感が胸にわいてくる)


(この調子なら、明日くらいにきざしが表れて、生贄の儀式を行って……

 そうすれば天使と悪魔が私を訪ねてくる)


(私は天使に、自分が魔術師になる理由を説明し、

 生贄をささげたことを宣言する)


(そして、悪魔との戦いに勝てば、

 私が完全な魔術師になる資格があると証明され、望みがかなう)


(つまり、戦いに負ければ、儀式は失敗になる。

 勝つためには、良い作戦をたてなければ)


(悪魔は空間界面とかいうもので身を守りながら、

 組打ちにもちこもうとすると、礼文さんが言っていた。

 それなら、私は間合いを取って対抗しよう。

 だから、戦場は庭がいい。広い場所が必要だもの)


 彼女は愛用のノートを広げた。自分の思考をまとめるために、まず絵を描いて視覚的にイメージを膨らませるのが、彼女のやりかただ。


 庭の見取り図を鉛筆で描き、戦闘の作戦を彼女は立案する。


(ああ、そうだ。劇団のみんなを利用しよう。せっかく7人もいるのだから)


(そうすると、配置は……)


 さらさらと、彼女は鉛筆を紙に走らせる。描いた図形が、彼女に新しいアイデアを与えた。


(あれ、これだとまるで……魔法円みたい)


 ひらめきを得て、彼女は会心の笑みを浮かべる。


(そうよ。生贄をささげて自分を変革するのだから、

 魔法円の加護がいるわ。

 手引きには書いていないけれど、

 やってはいけないとは指示されていないんだから、試してみよう。

 少しでも成功率をあげたいもの)


 作戦に満足して、彼女はノートを閉じた。


(明日、私は変わる)


 彼女は理想の姿を思い浮かべながら、就寝の準備をする。





次回に続く






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