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第六話

 上野公園の中で、翡翠は力なくしゃがみこんだ。


 通行の邪魔にならぬよう、瀬野は手をひいて横に誘導しようとするが、それでも翡翠は立ち上がろうとしない。


「翡翠くん! なによ! なにが気に食わなくてヘソを曲げるの!」


 いらだった様子で声を荒げる瀬野に変わって、音矢は翡翠の前にひざまずいた。


「いえ、そんな問題ではなさそうですよ。

 顔色が青いし、手の先も冷たくなってます。こんなに気温が高いのに……」


 翡翠の状態を観察して、体調が異変を起こしたことに、音矢は気づいた。彼は翡翠を抱きかかえ脇に寄せる。


「だから、博物館だけでやめておけばよかったの。

 いえ、外出自体を控えるべきだわ。

 あなたは、まともな大人の体ではないんだから、自覚しなさい」


「しかし……ボクは……どうしても見たかった……だから」


 苦しみながらも反論する翡翠を見下ろし、瀬野は説教した。


「無理をするから体力の限界がきたのよ。

 美術館の中にいた時は夢中で気づかなかったけど、

 外に出て心が落ち着いた途端、疲労が押し寄せてきたんでしょう」


「……でも……ただ疲れただけにしては……おかしい。

 気持ち悪いし、体が動かない……」


 翡翠は突然自分の体に起こった異変におびえているように見えた。そんな彼に、音矢は話しかけて不安を取り去ろうとする。


「大丈夫。きっとお昼ご飯を後回しにして美術館の中を歩き回ったから、

 体の中にある糖分が切れたんでしょう。

 ハンガーノックとか言う症状かもしれません。

 無理な計画を立てた山歩きなんかではよくあることらしいですよ」


 音矢は帆布の肩掛け鞄から水筒を取り出す。


「とりあえず、水分補給に湯ざましをどうぞ。

 はい、氷砂糖もあります。

 今日は暑気払いに梅干しも持参しましたので、

 いっしょに口に入れてください。

 甘酸っぱくて、おいしいですよ」


 瀬野に不吉と嫌がられたので愛用の背嚢は貸家に置いてきたが、かわりに携行した鞄の中身は始末の時とほとんど同じだった。


「これをなめて、しばらく休めば体が動くようになるでしょう」


 苦しむ翡翠を前にして、音矢は反省した。


(行動中の体力配分と栄養補給の重要性を翡翠さんに覚えさせようと、

 休憩と昼食を忘れていることをわざと警告しなかったけど……

 これからも僕の同伴が必要だと、

 瀬野さんに理解してもらうための計略もあったけど……

 少し薬が効きすぎたかな……カレーパンを食べ過ぎた時より、きつそうだ)


 うしろめたく思った音矢は、翡翠を介抱することで責任を取ろうと考える。


「一ツ木のおじさんに聞いたものよりも症状が軽いみたいですし、

 ゆっくりよく噛んで食事をとれば完全回復できるでしょう。

 洋食屋には消化のいいコンソメやポタージュなどのスープもあるはずです」


 音矢は瀬野に目を向けた。彼女はキョロキョロと周りを見回し、落ち着かない様子でいる。どうやら、ここから立ち去りたいようだと、音矢は考えた。


「瀬野さん、先行して洋食屋の席を確保してくれませんか? 

 翡翠さんは少し休ませてから僕がおぶって行きますから。

 店の位置は……はい、ここですね。

 僕の持っている地図にも記入したので、それを見ながら進みます」


「おねがいね!」


 瀬野はほっとしたような表情を浮かべると、急ぎ足で去っていく。


 その後ろ姿を見て、音矢は思った。


(やっぱり虚弱すぎる体の人と連れだって行動し、世話をやくのは嫌なんだな。

 瀬野さんは、翡翠さんを都合のいい時だけ、かわいがりたいんだろう)


 休んでいるうちに顔色はよくなってきたが、翡翠はまだ立つのも辛いようだ。日陰のベンチに坐り、彼はボソボソとつぶやく。


「ボクは弱すぎる……

 上野の町をもっと他にも見て回りたいのに、体が思うように動かない……

 これは、みっともないことなのだろう……修身の教科書に書いてあった」


 悔しそうに、翡翠の眉はひそめられた。


「体力に劣り、少し無理をすると自分の足で歩けなくなるということは……

 強い兵隊になることができない身体であるということは……

 富国強兵を国是とする大日本帝国において、

 ボクのような者に、存在する価値は……

 せっかく連れてきてもらったのに、結局こうなってしまった。

 やはり、瀬野さんの言うとおり、

 外出を望まず、家でおとなしくしていたほうがよかったのかも……」


 悩む姿を見て、音矢の心は痛む。


(教科書を読み直して、

 翡翠さんもそういうことがわかるようになったか。でも……)


 音矢は翡翠の思考が前向きになるように導こうとする。


「体力がないからって家にばかりいたら、よけいに弱っていきます。

 それなら、少しばかり疲れても外出した方が体のためになります。

 そして、心のためにも。

 翡翠さんは、今日楽しかったでしょう? 

 それを思い出してください」


「ああ……そうだ。絵巻物は、いろんな人物がかきこまれていて面白かったし、

 金や銀や真珠貝をはめこんだ工芸品は美しかった。

 美術館の絵画には、

 見たこともない光景や神話の情景や外国の人物が描かれていて、

 ますます地理や歴史に興味がわいてきた……」


 視線を上に向けて、翡翠はしばし考えこむ。その表情は徐々に元気を取り戻してきた。


「今日は、たくさんの物を見られて、

 たくさんの知識を得られて、すごくうれしい。

 ボクは、とても充実した時間を過ごせた!」


 見る者の心まで明るくなるような笑顔を、翡翠は浮かべる。


「あはは。よかったですね。翡翠さんが喜んでくれれば僕も」


「……そのとおりよ」


 音矢は声が聞こえた方に顔を向ける。そこには見知らぬ女性が立っていた。


「は? あなたはどなた?」


 音矢の問いかけに彼女は答えず、


「そうよ! こんな笑顔を見るためなら! 

 弟に幸せな時間を与えるためなら! 

 できることはなんでも試してみるべきなのよ! ありがとう!」


 独りで自分の言いたいことだけ言い、急いで立ち去った。


「音矢くん、あの人はなんだ?」


「なんでしょうかね? 

 年頃は瀬野さんと同じくらいで、やはり職業婦人らしい身なりでしたが……」



   ◆◆◆◆◆◆



 帰路をたどる車中の雑談で、翡翠が日々勉強に励んでいることを、音矢はほめた。


 それを受けて翡翠は語る。


「ボクは学校に通いたい。そのために努力する。当然のことだ」


「えっ? 学校に?」


 瀬野は驚いたような声をあげた。


「瀬野さんは約束してくれただろう。

 ボクが箸づかいなど普通のことができるようになって、

 通学できるほど体力がつき、

 社会常識と基礎知識を学んだら学校に通わせてくれると」


「……うん。そう言ったけど……」


 音矢は車を操縦しながら、ルームミラーで瀬野の表情を見る。困ったような様子だった。


「修身の教科書によると、学校とはとても楽しいところだそうだ。

 先生という人が色々なことを教えてくれるし、

 教科の合間の休み時間には大勢の友達と遊べる。

 そして、遠足や運動会などの面白そうな行事もある! 

 ボクはぜひ、尋常小学校に行ってみたい!」


 翡翠の様子は瀬野と対照的に、希望にみちている。


「そ、そうね……」


 どうやら、瀬野には後ろ暗いところがあるらしい。音矢はそう思って、疑問に感じたことを口にする。


「でも、本当ですか? 

 これだけ違う姿の翡翠さんが学校にすんなり入れてもらえるんですか? 

 姿かたちに対する偏見は、教育現場にもありますよ。

 生徒同士のイジメだけならまだしも、

 異質なものを率先して排除しようとする先生だっています」


 1930年〔光文5年〕の世界では、差別があることが普通だった。華族と平民のような身分、職業の内容、性別、肉体的な欠陥、そして異なる肌の色や民族などを根拠としての差別が横行していた。差別の対象となっている者に迫害を行うことさえ、普通のこととして人々は認識していた。


「ああ……そうか、角があるから……やはり、ボクは学校に行けないんだ……」


 しょげる翡翠の肩に、瀬野は優しく手をおいた。


「がっかりしないで。今やっているみたいに隠せばいいのよ。

 だから頑張って神代細胞を実用化して。

 そうすれば、

 研究機関がご褒美として学校に行けるように手続きしてくれるわ」


「本当か! それならボクはがんばる! 

 音矢くんに手伝ってもらって、神代細胞が安全に使えるように研究する!」


 喜んでいる翡翠を、瀬野は満足そうに見つめる。


「翡翠くんは、えらいわね。そうやって素直にしているのが、一番よ」


 丸く収めようとする瀬野に、音矢はあえて冷水をあびせてみることにする。


「なんか、あやしい……本当に、隠し通せることでしょうかねえ? 

 そもそも、翡翠さんに戸籍があるのか……」


 音矢が軽く刺激すると、


「疑うなんてひどいわ! 私が嘘をついているとでもいうの!」


 案の定、瀬野は自分を守ろうとした。


「いえ、常識的に……」


 それを受けて、音矢が下がる気配を見せると、


「研究機関が総力をあげて、

 生徒や先生に、翡翠くんを受け入れてもらうように説得してあげるから

 大丈夫なの! 

 戸籍だってあるから、手続き上は問題ないわ! 

 翡翠くんはちゃんと学校に通わせてあげる! 絶対よ!」


 瀬野は、致命的な一歩を踏みだしてしまった。


「ありがとう、瀬野さん!」


 微笑む翡翠とは対照的に、瀬野の顔はやや引きつっている。


 音矢は、それを見て気を晴らす。やはり、自分の弱点を一方的につつかれたままでは面白くない。


(あはは。瀬野さんをからかうのは面白いな。また嘘をつかせてやった。

 嘘をごまかすために新しい嘘を重ねるから、

 ますます高く積みあがっていく)


 音矢が嘘をつかないのは、瀬野のような状況に追い詰められるのを防ぐためだ。


(積めば積むほど、虚構はもろくなる。

 その崩壊を恐れる彼女を見ているのは、とても楽しい気分だ)


 そして、[自分は正直者]という立場を確保して、安全なところから嘘つきが苦しむ姿を高みの見物することが、音矢の趣味だ。


(しかし12歳だったら、もう尋常小学校は卒業の時期だ。

 その上の高等小学校……

 いや、翡翠さんは学者志望なのだから、

 最終的に大学に進むためにはまず中学校を受験しなければならないのに、

 参考書をくれない。ここも変だなあ……)


(まてよ、あの発言……それに他にも……なるほど)


(翡翠さんが隠している[あること]とは、そういうことか)


 音矢はこの時、以前からの推理に確信をもった。


(それなら、あの箱の中身が必要でもおかしくない)


(時期を見計らって、

 瀬野さんの気分が良くなるように誘導してから、

 翡翠さんの制限をとってあげよう)


 音矢は車を操縦しながら、次の計略を練りはじめる。





次回に続く



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