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第二話

 怒りをあらわにする翡翠の肩に手を置き、音矢は説得を始めようとする。


 だが、翡翠は音矢の手をふりはらって叫んだ。

「なんといわれても、ボクは我慢できない! 

 檻なんて全部破壊してしまえばいいんだ!」


 音矢はそれに影響されることなく、平静な声でゆっくりと話す。


「動物たちが檻に入れられている理由を、翡翠さんは知りたくないんですか? 

 檻を作るのも、職人さんに頼んで設置するのも、

 それなりのお金がいるんですよ。

 意味も無く予算を無駄づかいしているわけではありません」


 音矢の言葉を聞くうち、翡翠の目に、怒りとは別の光が宿る。


「……聞かせてくれ」


「動物は檻によって保護されているんです。

 もし、檻を壊して動物が外に迷い出たら、困ったことになります」


「なぜだ?」


「餌が食べられなくなるんです。

 外国から来た動物の餌になるものは、

 日本では手に入りにくいから、飼育員さんがわざわざ手配して集めているし、

 日本在来の動物だって、

 親の代から動物園にいるようなやつは

 自分で餌をとる方法を知らずに育っています。

 檻から逃したら、みんな飢え死にしてしまいますね」


「腹が減るのはつらい……それでも、一時だけでも自由を……」


「もう一つ、出してはならない理由があります。

 動物園にいる、ゾウの牙は高く売れるんですよ」


「それは本当か?」


「せんに銀座に行ったとき、商品になっていたでしょう。象牙の細工物が」


 絶滅危惧種を保護するために商取引を制限するワシントン条約は、1930年〔光文5年〕には存在していない。


「……ああ、そうだった」


「ライオンやトラの毛皮、クジャクの羽やサイの角も高級な商品になります。

 檻から出て外をふらついていたら、

 欲の深い人たちが寄ってたかって動物を殺して、

 その皮をはがし牙や羽や角を抜きにかかりますよ。

 これが檻をわざわざ作る理由です。


 動物にそういう理屈を話しても言葉が通じないから、

 檻で囲って逃げないようにしているわけですよ。


 でも、檻の中に入って、飼育員さんたちに守られていれば、

 動物園の生き物たちは安全で幸せに暮らせます。


 とにかく、檻を壊すことについて、僕は反対しますね。


 なんでもかんでも、

 翡翠さんの望みを無制限にかなえるというわけにはいきません」


「……そうか、わかった……わかりたくないが……わかった」


 翡翠は肩を落とす。


「もう、ここはいい。移動しよう」


「そ、そうしましょう。音矢、博物館に行くわよ」


「はい」


 通路に掲げられた標識をたよりに、一行はあゆみを進める。


 瀬野は音矢の隣で、声を潜めて話しかけた。


「……もうちょっと、手心というか……

 翡翠くんが、かわいそうじゃない。

 ……おだてて言いくるめるとかできないの? 銀座の時みたいにさあ」


 以前、銀座に出かけたとき、ヘソを曲げてうずくまってしまった翡翠を、音矢はライオンの像を見に行こうとなだめて動かしたことがあった。


「翡翠さんはあのころよりも成長して、

 きちんと理由を説明すれば、理解してくれるようになりました。

 だから、あえてきっぱりと断ったんです。


 やっていいこととわるいこと、

 できることとできないことの分別をつけるのも、賢くなるためには必要ですよ」


「また、正論? そうね、はいはい、お説の通りよ」


 瀬野にはもっと言いたいことがあるが、そこで話を打ち切った。音矢が説得につかった論理に彼女は不満がある。


(普通は、檻を壊したら、

 そこから逃げた猛獣が人を襲うところを想像するものなのに……

 やっぱり、音矢の発想はおかしいわよ。異常だわ)


 彼女は、その異常な発想で説得される翡翠も異常だということからは目をそらしていた。



   ◆◆◆◆◆◆



 バスの停留所から私道を5分ほど歩いたところに、劇団[ニュイ・ブランシュ]の稽古場はある。武蔵野の風情を残す雑木林を切り開いた、広い庭のある建物だ。


 演劇を愛する若者たちの共同生活を援助するという目的でここは作られた。風景にはそぐわないようなモダンな建物の中には稽古場のほかに、劇団員が寝泊まりするための施設として食堂や台所に入浴設備、そして複数の個室もある。


 座長をふくめた七人の劇団員は普段、実家や下宿で暮らし、そこから仕事や学校に通っている。しかし、公演が近づくと準備のためにみんなで合宿をするのだ。今回、奈々子も実家には10日くらい泊まると言い置いて出てきた。


 付属する広い庭は、きれいに舗装されていた。イギリスにあったというグローブ座にマダムがあこがれて自然光の中での演劇ができるようにしたからだ。水はけを良くするために中央から四方にわずかな傾斜をつけてタイルをはり、軒下から落ちた雨とともに排水溝に流れるような仕組みになっている。


 しかし、今の季節は蚊が多数発生しているので、稽古はおもに屋内で行われている。まだ土間しかできていないが、いずれ舞台も建設し、ゆくゆくはここを演劇の中心地として売り出したいと、座長は話している。


 今日、マダムは舞台の稽古を見に来て、夕食を共に取り、泊っていくという。


 奈々子たち、七人の劇団員は大事な後援者を迎えるために、朝からせっせと準備をしていた。彼女の受け持ちは玄関の掃除だ。


 まず、普段は脱ぎ散らされている靴を靴箱にしまった。傘立てに使っている大きな有田焼きの壺はホコリをかぶり、水も溜まっていた。玄関から出して、敷地の隅に水を棄て、雑巾で壺を磨くと磁器の表面はツヤを取り戻し、赤や紺の染付も鮮やかになった。次にホウキで土ボコリを掃き清めているとき、奈々子は尻に違和感を覚える。

 手で探ると、他人の指に触れた。


「きゃああああ!」


 悲鳴を上げながら彼女は振り向く。奈々子の背後には座長がニヤニヤ笑いながら立っていた。


「ナナちゃん、こんな尻ではお産に苦労するよ?

 もっとアザミちゃんみたいにフックラと柔らかくないと」


 悪びれた様子も無く、次の芝居で主演をつとめる女優の名をだして、彼は奈々子をからかう。


「よけいなお世話です!」


 座長の顔から笑いが消える。しかし、それは奈々子の怒りを恐れたからではない。


「……なるほど。いい表情だな。

 次の次の芝居では、君を小間使い役にしようかな。

 そんな感じで旦那様に反抗してもらう。わりと出番の多い重要な役だ」


「え」


 意表をつかれて、奈々子は絶句した。


「まあ、予定だからね。予定は未定だけど。

 君も衣装づくりで忙しいだろうし。

 ただ、本決まりになったらよろしく」


 言い捨てて、座長は去ろうとした


 が、三歩ほど歩いてから振り返り、


「ああ、ちょっとセリフに変更を加えたいから、

 アザミちゃんと口立ての稽古をするよ」


 と、つけくわえる。


[口立ての稽古]とは、あらかじめ決められた台本を読ませて演劇の練習をするのではなく、脚本家や演出家が直接、役者にセリフや演技の指導をすることだ。


「だから、あの子の担当もやっておいてね。一階廊下の掃除だよ」


「あ、あの……」


 主演女優に掃除をサボらせる口実だとわかってはいる。しかし次の次の舞台で重要な役をふるという可能性をほのめかされて、奈々子は座長に逆らえなくなっていた。目を伏せて彼女はせわしく手を動かす。担当が増えた分、掃除を急がなくてはならない。



   ◆◆◆◆◆◆



 水から上がった富鳥父子は、さっそくトウモロコシに舌鼓をうつ。もぎたてのトウモロコシは甘く、軽く焼いた醤油は香ばしい。


 華族や皇族の子弟が通う鍛錬院学園は、明治の御代に作られた学校だ。義知、そして彼の兄である義広も高等科まではそこに通った。


 鍛錬院学園の教育方針は[質実剛健]。


 甘やかされがちな上流階級の子供たちを鍛えるために、歴代の学長には軍人も採用されている。その厳しい教育方針の見本が、初等科6年時に行われる海での遠泳だ。児童ごとの体力も一応は考慮されるが、ほぼ全員が3キロの遠泳に挑戦するのが習わしとなっている。


 富鳥邸のプールは遠泳に備えて作られた。学校での水泳授業だけでは足りないのではないかと心配して、富鳥義光は息子たちのために自宅の庭を改装したのだ。


 普通の四角いプールで遠泳の練習をさせると、ターンを繰り返すことで体力を浪費してしまうのではないか。そのように義光は考えた。だから、そのまま長距離を泳げるようにわざわざドーナツ型のプールが作られた。四角いプールのコースロープを外して周回すればいいと工事業者や奉公人たちは思ったが、義光氏は自分の思いつきを批判されると不機嫌になるので、彼らは沈黙を守った。


 だが、結果として義光の配慮は功を奏した。


 何事もそつなくこなす義広と違って、義知は運動が苦手だった。

 自動車の操縦も、失敗を続けたので癇癪かんしゃくを起こし、すぐに投げ出した。しかし、物心つく前から遊びのようにして水泳に親しんでいたため、12歳当時の彼は、なんとか平泳ぎで3キロを泳ぎ切ることができたのだ。




 冷たい麦茶を飲みながらトウモロコシを食べ終わった二人はデッキチェアに寝そべり、くつろぐ。


 焼きトウモロコシという間食は華族にとっては質素にみえる。


 しかし、それを作る経費は、音矢がオヤツに食べる豆大福の代金をはるかに上回るものだった。なぜなら、このトウモロコシは、富鳥邸の庭に作った菜園で栽培し、父子が自分の手で収穫したものだからだ。


 マリー・アントワネットがプチ・トリアノンで[農婦ごっこ]をしていたように、この親子も[農業ごっこ]をして楽しんでいた。


 ただし、この時代に一般的な人糞を使った肥料を、彼らは不潔だと嫌う。だから父子の希望に応じて近郷農家出身の奉公人が工夫し、油粕や魚粉を発酵させて独自の堆肥を庭の隅で作っている。


 農薬も人体への害を富鳥元子爵が気にして、使用を禁じられている。だからトウモロコシをおいしく大きく立派に育てるため、執事は奉公人たちを動員して、収穫期は早朝から手作業で雑草と害虫を駆除し、カラスやスズメを追い払う。その間、富鳥父子は奉公人の苦労も知らず、朝寝を楽しんでいる。


 このような状況なので、富鳥父子が食べるトウモロコシを育てる経費は一般の農作物価格を越える贅沢なものになった。


 富鳥父子がおくる素朴で簡素な生活は、動員される大勢の奉公人と、彼らに支払われる人件費に支えられている。



 藤棚は厳しい日差しを遮り、そよ風は藤の葉をサヤサヤと揺らし、自家用プールに満たされた清水の涼しさを運んでくる。富鳥父子はこの快適な空間でのくつろぎをしばし楽しんだ。


 真夏の気温とは裏腹に、1930年〔光文5年〕の景気は冷え込んでいた。特権階級である華族でさえ、資産運用に失敗し困窮する者もいた。


 しかし、世間にはびこる不景気もこの邸宅内には入ってくることができない。


 それは、富鳥子爵家の現当主、義広の働きによるものだ。



 金融恐慌により、1927年〔光文2年〕に壱五じゅうご銀行が倒産した。


 この銀行は有力な華族たちが出資してできたものだ。だから顧客も華族が多い。彼らは壱五銀行を信頼し、自分たちの資産を預け、運用してもらい、利息を受け取っていた。しかし、信用されることが当然となれば銀行の商売も甘くなる。他の銀行と合併したせいで不良債権まで吸収してしまい、その結果、恐慌の打撃を乗り越えられずに壱五銀行は経営が破綻してしまった。その兆候に気づき、資産を別の銀行に移して被害を免れた華族もいた。だが、危険だという情報を手に入れることができなかった華族は、大きな損失を受けた。1928年と1929年にはやや回復したが、1930年〔光文5年〕、金輸出解禁に関する混乱で、また景気が落ち込んだ。


 富鳥建設を経営する富鳥義広は、殿様商売の壱五銀行をあまり信用せずに以前から他の銀行と主に取引していたので、直接の損害はない。さらに、損害を受けて当座の資金に困る華族から、現金支払いで釣って土地を安く買いたたき儲けていた。また、余裕を残しているが壱五銀行以外の資産運用先を探している華族も餌食とした。余っている土地に賃貸住宅を作って不動産経営で利殖を得ようと持ちかけ、建設費でさらに儲けるという手口だ。しかし、不景気のせいで入居者が集まらなくても、それは建設会社の責任ではないと逃げ、赤字は顧客に押しつける。


 同業者からも悪辣と言われるほどの、長男の会社経営から得られる利益で、父である義光氏と弟の義知は苦労知らずにぬくぬくと暮らしていた。




 富鳥義光は、息子に話しかけた。ムメはトウモロコシを焼き終わったので、離れに戻って掃除をしている。だから、極秘情報を口にしても問題ない。


「このあいだ、義知ちゃんに、お願いしたことはどうなったの? 

 劇団の稽古場の件だよ」


 義光は、富鳥建設の子会社の役員になっていた。なにも肩書がないなら隠居はしないとゴネたからだ。


 その子会社を使って、隠し通路やどんでん返しなどの仕掛けがある研究所も作った。


 元子爵にして元社長のお守りを任された会社にときどき顔を出しては、変な仕事を請け負わせたり、逆に現在行っている仕事にちょっかいを出して社員たちからは迷惑がられているが、本人は一生懸命に働いて社会に貢献しているつもりでいる。


 今回は建物関係のもめごとに鼻を突っこんだ。


「ああ、

 [真世界への道]でその建物に住んでいる奴をまとめて処理することにしたよ。

 ちょうど、そこの関係者から悩み事相談の手紙が来て、

 だいぶ前から礼文が手なずけていたんだって。だから実験台にするといってた。

 他の奴は、儀式の生贄という名目で皆殺しさ。

 いずれ、邪魔な人はきれいに片づくよ」


「ありがとう! 義知ちゃんは頼りになるなあ」


「パパの頼みだからね。俺が気合を入れて、礼文にきっちり働かせるよ」


 自分が考えた計画は、当然実行されなければならない。しかし、実行するための手段を考えて、成功させる責任は部下にある。


 その計画で傷つく人の不幸など、彼らは考慮しない。不幸を予測しても、手を汚すのは部下だから、自分たちには罪がない。



 富鳥親子の認識は、この程度のものだった。

 だから、彼らはのんびりと、デッキチェアでくつろいでいる。


 失敗すれば帝都壊滅もしかねない危険な人体実験、そして神代細胞の暴走と、その始末に伴う殺人を、二人はあくまでも軽く明るく語る。







次回に続く



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