第九話
音矢は再び水晶細胞の研究をしようとしていた。
もう口に入れるつもりはないが、必要な道具があるので台所を使う。
彼は翡翠から聞いた制御石の調整法から思いついた改良を試すつもりだ。そのことを話したところ、彼も大いに興味を示し、二人で実験することになった。
まな板に20gの細胞の塊をのせ、包丁で薄切りにして大皿に移した。一枚一枚がくっつかないよう、広げて並べる。ここまでは音矢が行った。翡翠は計量スプーンの小さじ一杯分塩を量り、皿の細胞にかけて手で揉みこみ、丼に移した。
すかさず音矢は、細胞が逃げ出さないように大皿で丼をおおい、上に水をはった椀を置いて蓋をした。
ここで彼は茶の間に行き、柱時計の時刻を確認する。午前9時30分だった。
必要上しばらく放置するが、見張りをかねて近くに陣取り、二人は雑談をしながら、時間つぶしに鍋やヤカンの汚れを磨く。
柱時計の鐘が10時を告げる。音矢は頃合いと見て丼の蓋を取った。細胞からは浸透圧で水分が抜け、塩は溶けていた。
それをザルにとり、あらかじめ真水を満たしておいた金ダライの中で、音矢は細胞が水分を再び吸収しないように手早く洗い、塩分を除く。それを引き上げてから、乾いた布巾で包むようにして、細胞に付着した水分を拭き取るのは翡翠の担当だ。
つきたての餅のようだった水晶細胞は、水気がぬけて子供が遊ぶ紙粘土くらいの固さになっている。
「これなら、石化までの時間が短縮できそうだ」
翡翠は細胞を手に取り、求める性質を心に思い浮かべながら、丸めていく。
神代細胞の水分量は人体と同じでだいたい60%。
だから神代細胞20gの固体分は40%とすると、約8gの制御石ができる見当だ。
翡翠が加工している様子を見ていた音矢はあることを思いついた。彼は自室に肥後の守を取りに行く。
[肥後の守]とは安価な折り畳み式のナイフだ。この時代は子供が刃物を持ち、自分の鉛筆を削り整えるのが普通だった。また、肥後の守で竹や木を削り、竹トンボや凧などのオモチャを自作するのも、子供たちにとって普通の遊びだった。音矢も尋常小学校入学時に買い与えられ、以来愛用している。
彼は雑木林から小枝を調達し、その皮を肥後の守で剥いて表面を滑らかにした。
「翡翠さん、ちょっと貸してください」
丸められた水晶細胞の塊に、音矢は枝を刺した。
「なぜ、このようにするんだ?」
翡翠の問いに音矢は答える。
「紐を通せるようにするんですよ」
「紐……」
翡翠は小首をかしげて考える。
「ああ、そうか。使いやすくするためだな」
納得した彼は、神代細胞に必要な機能を与えるための作業を再開した。
◆◆◆◆◆◆
講演会当日、大神公園に向かう津先の右手には進行表などを詰めた鞄、左手には風呂敷包みがある。津先は夏の朝日を浴びながら、大神公園に向かった。
この風呂敷とその中身を、公園管理人に返却しなければならない。講演会開催に集中したいのに、余分な用事に気を取られなければならないのが、津先には腹立たしくてならない。忘れてしまいたいのに、この包みがあの日の記憶を呼び覚ます。
公園最寄りの停留所にバスが着いたのは午前11時を過ぎたころだった。すでに強くなってきている日差しを浴びながら、住宅街を彼は歩いていく。その途中で、津先は食欲を刺激される良い香りを嗅いだ。出所は小さな商店だ。その看板を津先は読む。〈パンの大神〉と書いてあった。
(……今、焼いている最中か。おや? 食パンの耳を安く売っている)
商店に入り、棚に置かれた紙袋を持ってみると、思ったより重い。
(けっこう量があるな。食費の節約になる。買っていこう)
料金を支払い、薄茶色の紙に手彫りの版画で〈パンの大神〉と赤く大きく刷られている紙袋を鞄に入れて、再び目的地へと津先は向かう。
その途中で、奇妙な家を見つけた。玄関の、本来なら表札がかかっているであろう位置に[売り家]と張り紙があるが、津先が注目したのはそこではない。
(変な家だな。二階の壁に窓を塗り込めたような痕跡がある。
あれじゃあ、空気がこもって住み心地がよくないだろうに。
なぜ、あんな改装をしたのかな)
5月に起きた一家皆殺し事件の報道を、津先は新聞で目にしていた。その現場がこの奇妙な改装がなされた家だ。が、彼にとっては他人事なので、事件が起きた地名を忘れている。だから殺人事件とこの家を結びつけることができなかった。
津先は公園管理事務所で、集会所使用予約の手続きを済ませた。屋内から出た彼の目を、真夏の日差しが焼く。短い影を引きずりながら、津先は心の中で愚痴をこぼした。
(ちょうど申込み取り消しがあったというんで、
1か月後の日曜日に予約をとらされてしまった)
告知の張り紙も、定型文が謄写版印刷ですでに準備されていた。
[真世界への道]の名称と連絡先、講演のおおまかな内容、そして日付と開始時刻などを津先が記入欄に書くと、それを管理人は掲示板に画ビョウでとめた。もっと凝ったポスターを使いたければ、後日貼りかえてもよいと、彼は津先に言った。
(あのやろう、公務員のくせに、手回しが良すぎるぞ。
なにが[運がいいですね]だ。おかげで忙しくなってしまったじゃあないか。
2、3か月後だったらのんびり準備できたのに。
そんなに急ぎの仕事でうまくいくかな……)
(いや、待てよ?
そうだ、礼文さんにはできるだけ早くと言われているんだ。
公園管理人は渋っていたけれど
俺ががんばって交渉して、1か月後が取れましたと自慢してやるか。
有能だと思ってもらいたいし)
少し気が楽になった。そうすると、空腹を感じる余裕も出てくる。
(とりあえず、さっき買ったパンの耳で腹ごしらえをしよう。
公園には水飲み場もベンチもある)
池の周囲をめぐる遊歩道を歩き、木陰のベンチに彼は腰を下ろした。
津先の前にある水面は、夏の日差しで大量繁殖したアオコのせいで緑色に濁っている。しかし、白い鳥の群が池でのんびり漂っている様子は津先の心をなごませた。
(アヒルか。公園で飼っているのかな)
上司が望む結果を出せる見通しがついて、緩んだ心に妄想が浮かぶ。
(……こいつらは服を着ていない。生まれたままの姿だ。
つまり全裸……全裸の女たちが水遊びを……)
その情景を想像しながら津先は食パンの耳が入った紙袋を取り出した。アヒルがそれに気づいた。津先を目がけて鳥の群が動き出す。紙袋を膝に置いたまま、彼は妄想を続ける。気がつくと、彼はアヒルの群に取り囲まれていた。
(……裸の女たちが俺を見つけ……嬌声をあげて寄ってくる……)
グエー
彼の妄想はマヌケな声で破られた。一羽のアヒルがパンの袋を狙い、それを持っていた津先の指まで噛んだのだ。
「わあ、なんだ? つつくな! 痛いじゃないか!」
意外にも、アヒルのクチバシは強力な武器だった。
グエッ グエエエ グエグエ
鳥たちは勇敢な一羽の突撃をきっかけに、雄叫びをあげて津先に飛びかかっていく。
「なぜ、この紙袋を狙う!
なぜ、この中が食い物だってわかるんだ!
お前ら字が読めないくせに!」
彼が忘れ去った、松木家皆殺し事件。その家の一人娘である呉羽が、くっきりと赤く〈パンの大神〉と版画で刷られた紙袋に入った食パンの耳を、しょっちゅうアヒルたちに与えていたことを彼は知らない。
彼女がいなくなってから、群れが大量の食パンの耳にありつくことは少なくなっていた。飢えた生き物の前で不用意に餌を見せたため、津先はアヒルたちの襲撃を受けたのだ。
「うわあああああ!」
逃げようとした津先の足元に、アヒルがからむ。よけようとして体のバランスを崩す。池に緑色のしぶきがあがった。
津先はなんとか岸に這い上がり、先ほど訪れた管理事務所にもどって、助けを求めた。
「池に落ちた? 大変ですね。
はあ、着替えがない、と。
アオコまみれの水浸しではバスで帰宅することもできない、と。
見たところ、あなたのサイズは中ぐらいですか」
初老の管理人は、控室から一揃いの衣服と手ぬぐい、そして濡れた服を包むための風呂敷を持ってきた。
「では、わたしたち管理人が公園の掃除をするときに使う
作業服を貸してあげましょう。
ここの集会場を使うとき返してくださいね。
いや、ちょうど余った服があってよかった。
そしてあんたの体が標準サイズだったから、この服を着て帰れる。
落ちたのが浅いところだったから眼鏡も無くしていない。
不幸中の幸いですね」
一応、礼を言って受け取りはしたが、津先の腹の中は怒りで煮えていた。
(幸いなんてない! 不幸100%だ! そう、俺は不運な男……)
津先は濡れた前髪をかきあげた。
(そもそも、あの食パンの耳を見つけた時から不幸は始まっていたのだ……
この世界は理不尽だ……幸運だと思って手に入れたものが、不幸を呼ぶ……)
心の中で愚痴をこぼしながら、管理室の隅に隠れて津先は着替える。
大きく〈大神公園 事業部〉と背中に書かれた、派手な黄色の作業服を着て津先はバス停留所に向かう。着なれない服を下着無しで直に着ているので、硬い布が地肌にこすれて不快だ。そして目立つ服を着て、鞄だけではなく水の滴る風呂敷包みも手にしているので、行き会う通行人の視線が気になる。
きっと通行人たちは自分が池に落ちた無様な姿を想像しているのだろうと、津先は勝手に妄想する。その苛立ちが、憎しみに変換されていく。
(そもそも、あんな狂暴なアヒルを池に放している管理人が悪い。
池の水をアオコまみれにしているのも悪い。
それなのに、親切ぶってこんなに目立つ作業着を貸して……
わざと、俺が困るように罠をしかけて誘導していたんだ。恨んでやる)
津先の被害妄想は、親切にしてくれた管理人も対象にした。
(痛めつけてやりたい)
(でも、あんなおっさんでは、痛ぶって泣かせても面白くないな)
(そうだ、あいつが若い女だったら)
津先は、男性用標準サイズ作業着の下だけを素肌にまとった少女を想像した。
当然大きすぎるから、ズボンは下がる。それを恥ずかしそうに片手で押さえる少女を、彼は想像した。もう片手はまだ未熟な乳房を覆っている。
津先が拳をふりあげて威嚇すれば、少女は両手で頭をかばうだろう。そうすれば胸は露わになり、ズボンはずり落ちるだろう。
慌てて手をもとの位置に戻しても、足首まで落ちてしまったズボンは尻を隠してくれない。その羞恥と屈辱に泣く少女を津先は想像した。
彼も28歳の男子。過去には、モヤモヤとしたものを発散するために花街で遊んだこともあった。
1930年〔光文5年〕というこの時代には公娼制度があり、[娼妓取締規則]に従って警察署に登録すれば合法的に売春ができる。しかし、彼はある出来事によって、そこで働く女性を、淫らで穢れた存在として軽蔑している。潔癖な道徳観から娼婦を否定し、しかし肉体は彼女たちを求める。津先は自己嫌悪に陥るまいとして、花街から離れ、自らの心の中で自由に遊ぶことを始めた。
孤立した生活の中で妄想に救いをもとめ、自己の中で完結した津先の価値観は、歪みつつあった。その彼をさらに反社会的な方向に礼文は押しやろうとしていた。
次回へ続く




