第七話
礼文に報告書を届けてから、瀬野は自動車を入谷法律事務所が借りている駐車場に戻し、バスで帰宅する。
幸い、今回の食事会では音矢による精神的な拷問はなかった。しかし彼女の心は、彼とごく普通の会話をするだけで不安と不快を感じようになってきている。ぐったりとしながらも、瀬野は賄い付き下宿である[南天荘]にたどりついた。
「……おばあちゃん、ただいま」
瀬野は玄関わきにある管理室に声をかける。
「小夜子ちゃん、おかえり」
小窓から、この下宿の大家が顔を出した。目じりにはシワもあるし、白髪ではあるが、彼女の顔にはかつての美しさがまだ残っていた。
挨拶をして、瀬野はそのまま自分の部屋に向かうつもりだった。今晩に外食することは昨夜伝えていたからだ。
だが、
「ねえ、ちょっと一杯やらない?
ビールでサッパリしたくて、井戸で冷やしておいたんだけど、
独りで飲むのはさびしいからさ」
そう呼び止められて、彼女は足をとめた。音矢との会話で疲れた心を、誰かに慰めてもらいたい気分になっていたからだ。瀬野は四畳半の管理室に入り、もてなしを受ける。ツマミは炒った落花生だ。冷えたビールの快い喉ごしで、瀬野の気持ちはやや安らぐ。
「どうだい、仕事は? 辛いことはないかい?
だれかに意地悪されたりしてないかい?
女が外で働くことが気に食わないってやつも世の中にはいるからね」
「大丈夫よ。おばあちゃん。私はうまくやっているわ」
心配をかけたくなくて、瀬野は嘘をついた。
「そうかい、そうかい。
お前はいい子だから、職場のみなさんにも良くしてもらえるよね」
嘘をつかれた相手は、うれしそうに目を細める。
そして
「入谷先生のところで、きちんと働いて、認められれば、
あの[お試し]をもう一度受けさせてもらえるんじゃあないかい?」
瀬野の将来を気遣う言葉を口にした。
「いいの……それは。私は今のままで充分よ」
「そんな、もったいないよ。
お前は上の4人の子たちよりも、修行の出来がよかったんだから。
がんばれば、立派な[諜者]さんになれるってば」
その言葉を聞いて、瀬野は目を伏せる。
「兄さん、姉さんたちはどうしているのかしら。父さん、母さんも……」
◆◆◆◆◆◆
瀬野小夜子は、5歳になったときに自分の生まれた家の秘密を教えられた。
戦国時代から続く、諜報活動を家業とする一族。
この国を裏で支えてきた、誇り高い家系であると、彼女は聞かされた。物心つく前から行ってきた鍛錬は、悪と戦うために正義の力を身に着けるためのものだと言われ、彼女は納得した。
このことは誰にも話してはいけないと、両親に禁じられた。しかし、5歳の少女は得意になって、近所の遊び友達についしゃべってしまった。
だが、年上の子供は、信じてくれなかった。瀬野と同い年、また年下の子供は、年上の意見に同調した。その結果、彼女は笑いものとなった。
この時点の瀬野は、鍛錬の成果で普通の子供よりは基礎的な身体能力に優れてはいた。だが、まだ本格的な対人戦闘技術は与えられていない。のちに音矢に対して行うような、宙返りをして相手の背に乗るなどの曲芸的体技も未収得だ。
そのような理由で、遊び友達からは、瀬野はただ体が柔らかく、走るのが得意な子供としか見てもらえなかったのだ。
彼女は自分の言ったことを信じてもらおうとして何度も抗弁したが、逆にうっとうしがられて仲間外れにされた。
孤独を感じた瀬野は、これまでの話は冗談だと言い訳をして真実を否定し、自分の家庭は普通だと嘘をついて、子供たちの輪に復帰した。
一族の歴史を他人に話してはいないかと、両親に訊ねられたこともあったが、彼女は怒られるのが嫌だったので、近所の子供に自慢したことは内緒にした。
そのころから、瀬野は嘘をついて自分を守ることに抵抗を持たなくなっていたのだろう。
◆◆◆◆◆◆
別居している同胞を懐かしがる瀬野の言葉を聞いて、管理人の白くなった細い眉が、悲しみを表すようにひそめられた。
「……みんな元気にやっているよ。でも……」
「わかっているわ。[お試し]に失敗した私には、
機密保持のために
本式な[諜者]さんたちの動静を
くわしく教えられないんでしょう。
……会えなくても、どこかで元気に生きていることさえわかれば、それでいいの」
[お試し]とは、一人前の[諜者]となるための資格試験のようなものだ。
その内容は、個人の性質によって変わる。
本人が、一番嫌だと思う仕事をやらせて、忠誠心、自制心を試す。これは、一般人に混じって育てられてきた候補者が、それまでの生ぬるい世界から逸脱し、厳しい裏社会で生きていくという決意を示す儀式でもある。そのような説明を、瀬野はあらかじめ受けている。
彼女に与えられた[お試し]は殺人だった。
対象は国家に反逆する無政府主義者だから、良心に恥じることはない。また、殺した後の始末も、すでに手筈はついているから、逮捕される心配はない。瀬野はただ実行するだけで良い。そこまで保証されたが、彼女は、どうしても殺すことができなかった。
「あれに通りさえすれば、
本格的な訓練を受けて、正式な[諜者]さんになれるのにねえ。
そうしたら、また家族一緒に暮らして、
ときには同じ仕事で協力し合うことができるのに……
さびしいでしょう、小夜子ちゃん」
「うん。でも、[諜者]を引退したおばあちゃんが、そばにいてくれるから
…………大丈夫よ」
不合格者である瀬野は、ひとまずこの下宿屋のあずかりとなった。
そして、入谷弁護士事務所の仕事を紹介してもらった。事務所は陰で厄介者の始末を行っている。特殊な仕事なので、秘密裏に移動するために自家用車を操縦できて、内部情報を漏らさない人物が必要とされ、彼女は入谷に雇われた。
「本当に惜しいねえ……
このまま徒人さんとして暮らしていくつもりなのかい?」
[徒人]とは、一般人をさす隠語だ。
「ええ。そうするしかないでしょう。
人を殺せない私は、[お試し]に通らないから……」
瀬野は落花生の皮を乱暴にむいた。実を口に入れようとしたとき、
「じゃあ、いいお嫁さんにならなくっちゃね」
こんな言葉が投げかけられる。
「え? なによ、それ?」
瀬野は驚いて、手にしたものを落とした。
「徒人さんなら、そろそろお嫁に行く年頃じゃないかい?
もう20歳なんだから、急がないと売れ残ってしまうよ。
いえ、むしろ出遅れてしまったじゃあないか。
諜者さんに見切りをつけたんなら
早いとこ、いい旦那さんに嫁いで
かわいい赤ちゃんを産んでおくれよ」
1930年〔光文5年〕というこの時代では、若いうちに結婚して家庭に入り、子供を産んで育てることが女性の幸せとされていた。
そのために周囲が協力し、条件に合った相手を引き合わせようとするのが普通だった。加えて、瀬野の属する一族にとっては結婚を奨励する特殊な事情もある。
「そんな! 私は平凡な奥さんになるために修行をしてきたわけではないわ!
私は……」
「だから、諜者さんはあきらめたんだろう?
一族の繁栄のために、次の世代を産み育てるのも、大切な仕事だよ。
それなら、相手が徒人さんのほうが好都合なんだ。
仲間内で結婚を続けるのは良くない。
新しい子種を入れないと一族の血が濁るからね。
そうして小夜子ちゃんが生んだ子供に基礎的な鍛錬をやらせるのは、
健康法とか言って旦那さんをごまかせばなんとかなるさ」
「でも、嫌!
私は自動車の操縦だってできるし、
モールス信号とか、いろんな知識も蓄えたし、格闘技だって……
子供を産むしか能がない、そこらへんの女と一緒にしないでよ!」
瀬野はいらだって、勢いよくビールをあおる。
「無理強いはしないさ。子供を育てるには愛情が必要だもの。
義務として妊娠して、使命感だけで育てたせいで、
子供が曲がった性根に成長したら、かえって御家存続の害になるし。
うちの一族の歴史でも、何度か大騒ぎになった例があるみたいだよ」
「それなら……いいんだけど」
結婚は自由意思を尊重すると言われ、瀬野は一安心した。
「でも、恋愛自体が嫌なわけではないんだろう?
一生、孤独な独身生活を望んでいるならともかくさ」
「……うん。わたしだって素敵な出会いがあれば……その時は……」
酔いのせいか、瀬野の鼓動が早くなった。
「今の職場に、良さそうな人はいないのかい?」
「いるわけないでしょう。
入谷先生は孫までいる年寄りだし、副所長の戸塚さんもオジサンだし。
事務の大葉さんは女だし」
その言葉を受けて、ちゃぶ台の向こうからは、ため息が返ってくる。
「はあ……別に職場つながりではなくていいけれど……
どこかにいないものかねえ。真面目で働き者で、
小夜子ちゃんのことを好いてくれる人が」
「え……」
(いやだ。なんでこんな時に、あいつの顔が思い浮かぶの?)
瀬野は頭を振って、濃くて真っ直ぐな二本の眉の映像を脳から消そうとする。
「うちの特殊な事情を知ってさえ、恐れずに受け入れてくれる、
度量のある人が、小夜子ちゃんの前に現れてくれたらいいねえ。
世間の常識にとらわれない人……
この国を守るために自らの手を汚してでも裏から支えるという実態を知って、
それでも協力してくれる覚悟を持つ人はいないかねえ」
「それは……」
「ものすごい贅沢な望みだけれど、
うちの家業に加わってくれる人がいたら、最高なんだけどね。
人手はいくらでも必要なんだからさ。
[お試し]にもひるまない度胸がある……勇敢な人に出会えないものかねえ」
自分たち一族の都合だけを考えた、虫のいい望み。
にもかかわらず、提示された条件にピッタリと当てはまる人物がいる。彼の全身像が、瀬野の脳裏に再現された。
「うう……」
「あれ、小夜子ちゃん、心当たりがあるのかい?」
嬉しそうな言葉に、瀬野は反発した。
「あんなやつ、絶対に嫌だってば!」
「うふふ。やっぱりいるんじゃない。あたしが言ったような条件の人が。
誰だい、どこに住んでいるんだい?」
「そ、それは」
瀬野は口ごもる。彼女は神代細胞の件を、一族には伝えていない。それを話してしまったら、瀬野の重大な規律違反が明らかになるからだ。彼女がふとした気の迷いでやってしまったこと。初めは些細な嘘だと思っていたが、それは雪玉を転がすように巨大化していった。いまさら自白することはできない。
だから、
「だって、あいつは小卒だもの! 女学校を出た私には釣り合わないわ」
世間の常識である学歴差別を持ち出してごまかすことにした。
「小卒でも才能があれば、生半可な大卒より頼りになるよ」
しかし、その程度の反撃で、相手はひるまなかった。平然とした様子で、天井から下がった明かりを指し示す。
「ほら、あの電球プラグを作った松下さんなんかは小学校中退だし、
電球そのものを発明したエジソンさんだって、
変な質問ばかりするから小学校を追い出され……」
「嫌だってば!」
危険な実験の推進力であり、顔を合わせるたびに心を混乱させる人物との結婚に追いやられそうな状況に、瀬野は抵抗した。その拍子に、彼女の本音が漏れる。
「平凡な結婚をして、あたりまえのように子作りするなんて、
絶対に嫌!
そんな普通の人生なんて、私がしてきた努力にはふさわしくないわ!
私は自分自身の実力を発揮して、名声をつかみたい。
そうして、特別な存在としてみんなに尊敬されたいの!」
口に出してみて、瀬野は自分の現状が理想とかけ離れていることを、あらためて思い知らされた。それで、やや譲歩した願いも心に浮かぶ。
「もしも……私がそんな望みを捨てて結婚するなら、
特別な相手でなければ嫌!
帝大に入れるくらい頭がよくて、金持ちで、
おまけに映画俳優みたいな男前でなければ……
そして、私に惚れぬいて、絶対に浮気なんかしないような男でなければ
結婚なんてしない!」
「なにを無茶な……いるわけないでしょうが、そんな人は。
夢みたいなことを言ってないで、現実を見」
「もう寝る! おやすみ!」
あきれ返ったような言葉をみなまで聞かず、瀬野は席を立った。
次回に続く




