第二話
車を操縦する音矢に翡翠が後部座席から指示をだして、エーテルエネルギーの光を追っていく。
注
〈この世界では、免許は16歳から取得できる。
世界大戦時に、物資輸送の重要性を理解した軍部が後押しして、
後方支援の能力を向上させるために、法律が改正された〉
小一時間ほどして、車はやや高級な住宅街、大神町に入った。
ここに建てられている住宅の占める面積は音矢たちが住む貸家より大きく、庭も広い。したがって、家と家との間隔は下町とはくらべものにならないほど遠い。
「ここの二階から反応がでている」
翡翠が指さしたのは赤い屋根の大きな家だ。
少し離れたところに車を止めて、三人は様子をうかがう。
「すごいな。二階建ての文化住宅だ」
信者がいる部屋の外壁だけ新しく塗り替えたらしく
薄い境界線がある。
「でも、なんで窓がないんだろう」
音矢は首をひねる。
鉢植えの飾られた玄関には3人ぶんの名が書かれた表札があった。
松木 宗吾
鈴子
呉羽
「家族だけか。住み込みのお手伝いさんとかはいないのかなあ」
その疑問には、瀬野が答えた。
「音矢くんは経過観察っていう目的があるから
住み込んでもらってるけど、
当節、そういう人手は不足しているからね。
通いの人を雇っているんでしょう」
「はあ、そういうものですか……
で、この中の誰が水晶の信者でしょうね」
音矢が二番目の疑問を口にしたとき
「動き出した!」
翡翠が再び家を指さす。その角度はゆっくりと下向きになって玄関をしめした。
「……女の子だ」
外に出てきたのはありふれた少女だ。
年は13、4くらいか。髪は三つ編み。細い体にひまわり模様のワンピースをまとっている。
彼女が手に持っているのは特徴のある紙袋だ。
薄茶色の紙に手彫りの版画で
[パンの大神]と赤く大きく刷られているのが、離れたところからでも見えた。
「顕著な変形は認めない。まだ精神は正常なようだ」
翡翠はエーテルエネルギーの反応と合わせて判断する。
「どうします?」
音矢は瀬野に指示を仰いだ。
「尾行しましょう」
すばやく瀬野は車を降りる。音矢もそれに続こうとしたが、翡翠がまごついているのに気付いて外からドアを開けてやった。
少女は長い生垣の脇を抜ける道を歩いていく。三人は少し距離を開けてついていく。
角を曲がると[大神公園]と書いてある門があり、彼女はそこに入った。
西暦1923年〔大正12年〕に発生した関東大震災の教訓を生かして、この世界では [災害対策法]が制定され、1927年〔光文2年〕から施行されていた。その基準にもとづいて建設された公園らしく、まだ設備が新しい。
広い芝生は平時には市民の憩いの場となり、災害時には避難民が寝泊まりする天幕の設営所となる。要所にもうけられた公衆便所や水飲み場は平時、災害時どちらでも役に立つ。市民の文化活動の拠点となる集会所は救護所としても使える。
消火用水として使えるよう、中央には大きな池がある。その周りに遊歩道が敷かれ、それを囲む形でベンチがいくつか設置されていた。
三つ編みの少女は池のほとりで紙袋から食パンの耳を取り出し、水面に投げた。
池に放されたアヒルたちが集まってそれをついばむ。
食パンの耳を投げ終わって、少女は顔をあげた。離れたところにいる翡翠とその目があう。
彼女はしばし目を瞬いて戸惑っていたが、やがて三人のほうに走り寄ってきた。
「あなたが[天使]さまでですね。わたし、松木 呉羽です」
三つ編みの房をゆらして、彼女はお辞儀をした。
「……ちょ、ちょっとまだ……完全ではないんですけど。
真の望みもまだわからないし……もう少し……時間を……」
もじもじしている彼女と翡翠に瀬野はベンチへ座るようすすめ、少女をはさむように彼女は腰を下ろす。音矢は席に空きがないので傍らで休めの姿勢をとった。
呉羽は瀬野にも音矢にも目をやろうとせず、体をひねって翡翠にむける。
「本当にきれい。さすが天使さまね。水晶さまに、そっくり」
彼の顔を見つめ、呉羽はうっとりした声をだす。
しかし、翡翠は気にかけたようすもなく質問する。
「いつ投与をうけたんだ」
「とうよ? ああ、お薬のことね。一週間前です」
「水晶は一緒にいたのか」
「はい、少しの間しかお目通りできなかったけれど……
どうしたんです?
まるで他人ごとみたいに」
「この人は普段からこういう口のききかたするの。
生まれつきの性格だから気にしないで」
瀬野の言葉を聞いて、呉羽はうなずいた。
「あ、そうか、もう始まっているんですね」
「始まる?」
戸惑った様子の翡翠を、彼女は指でさす。
「そう、それ」
「どれだ?」
翡翠が自分の体を見回すと、呉羽はくすくすと笑った。
「礼文さんから聞いたとおり。愉快な人ね」
「ちょっといいかしら」
翡翠に任せておくと話が進まない。そう思ったのか瀬野が会話に割って入った。
「事情があって、しばらく水晶さんと連絡取れてないのよ。
彼は今、どこに住んでいるの?」
「わかりません。
まだ、わたしは入信したばかりなので、
お側仕えはゆるされていませんから」
「どういうきっかけで彼と知り合ったの?」
「礼文さんを通じてです。
雑誌の読者交流欄に私の手紙が掲載されて
たくさん返事がきたんですけれど」
20世紀初頭というこの時代、個人情報の保護という概念はまだなかった。読者同士で手紙を使って交流を図る、いわゆる文通相手を求める場合、自分の住所氏名を全国に流通する雑誌上で公開することが、この時代にはあたりまえに行われていた。
「ほとんどが私と交際したいって誘いで、
真剣に悩みを聞いてくれたのは礼文さんだけでした。
年は離れてるけど、
その分落ち着いていて信頼できると思ったので、
何度か手紙をやりとりしているうちに導かれたんです」
呉羽はそのときのことを思い出すのか、視線を宙にうかせた。
「水晶さま……素敵な人。
私の悩みを話したら真剣に聞いてくれました。
わたしには更なる可能性があると
おしえていただきました。
そして、願いを叶える薬を分けていただきました」
彼女は両手を伸ばし手のひらを光にかざす。
「私の手は小さくてオクターブが弾けないんです。
それに体力がないから
長い曲の最後になると指先に力が入らなくて
いい音がでないし……
だからピアニスト向きの体になりたくて」
うつむいて呉羽は口を閉ざした。
「副作用のことは知っているのか」
翡翠が問うと
「なに、それ」
呉羽は小首をかしげた。
「知らないならいいわよ。
それより、なにか変化はあらわれた?」
「はい。
お薬をもらってから毎日指の長さを測ってました。
最初は変わらなかったけど、
今日見たら5ミリ伸びてて。すごくうれしいです」
翡翠が反応を感じたのはそのころだろう。
空になった袋を丸め、呉羽は立ち上がった。
「あの、そろそろ帰っていいですか?
まだ完全じゃないのでおさらいしたいんです。
儀式もすませてないし、啓示もうけていないし」
「ええ、どうぞ。頑張ってね」
瀬野はそのまま見送る。
呉羽が公園から立ちるのを待ってたかのように。音矢が口を開いた。
「行かせていいんですか?」
「ここでは始末できないわよ。人目につくし」
瀬野は翡翠の肩に手を乗せる。
「もし、暴走したら、
離れていてもその瞬間はわかるんでしょう?」
「ああ」
「それなら様子見ということで
この公園で待機していましょう。
音矢くん。近くに軽食を売ってる店があったわね」
「はい、ここにくるとき前を通りました」
「そこで何か買ってきて。
腹が減っては戦ができぬっていうでしょう」
瀬野は財布から紙幣を抜き音矢に渡した。
「了解です」
音矢は軽快な足取りで目的地にむかった。
彼を待っている間、翡翠はアヒルを眺めていた。
◆◆◆◆◆◆
日は傾き空が赤みをおびてきた。
翡翠が指に巻いた絆創膏をいじると瀬野はまた笑い出す。
「思いださせないでよ。
人がアヒルに手を噛まれるところなんて見たの、
生まれて初めて。写真に残しておきたいくらいだったわ」
「アヒルもあんなに凶暴だとは思っていなかった。
鳥類図鑑によると
穀物や草や虫を食べる、人に慣れた鳥のはずなのだが」
「オムスビをちぎってから投げてやれば、安全だったのに」
「飯粒が指についたから
直接ついばんでもらおうとしたんだ」
音矢は大きく伸びをして言った。
「どうなってますか、呉羽ちゃんの状態は」
翡翠は目を閉じてエネルギー反応を調べる。
「暴走はしていないが確実に細胞は増え続けている」
「そろそろ日が落ちますよ。翡翠さん寒かないですか」
「そうね。車に移動しましょう」
公園から三人は車をとめた場所へと歩いていく。
その途中、音矢が少し顔をあげて匂いをかいだ。
「あ、この家では肉じゃがを作ってる。いいな」
「のんきなものねえ」
音矢の言葉に、瀬野は苦笑する。
◆◆◆◆◆◆
車の後部座席で目をとじて監視するあいだに、疲れていたせいか翡翠は眠っていたようだ。
頭を窓に寄せた姿勢のまま、エネルギーの反応をみる。
まだ暴走はしていない。
安堵した翡翠の耳に前方から声が届いた。音矢と瀬野が雑談しているようだ。
「……車の操縦もできるし、
家事万端さらさらこなして翡翠くんのお世話もしてくれて
まったく得難い人材よ。音矢くんは」
「いやあ、そんな……大したことないですよ。あはは。
僕なんて、ごく普通の人間です」
翡翠は目をあけて声のほうを見る。運転席に瀬野。隣の助手席に音矢が座っていた。
「実際、身長も普通、体重も普通、顔も普通……
呉服屋で働いてたころは、
[普通の見本]といわれたこともありますし」
「どれだけ普通なのよ、もう」
音矢の言葉をうけて、瀬野が笑っている。
その時、翡翠の中で光がはじけた。
「それだけではなく、ほかにも、変なあだ名をつけられ」
言いかけた音矢の肩を翡翠はつかむ。
「暴走が始まった!」
◆◆◆◆◆◆
T型乗用車は呉羽の家に到着したた。
その途中で音矢は電気工事人のような作業服と半長靴に着替えていた。動きやすくするため、彼が瀬野に頼んで用意してもらったものだ。
そのほかに彼が自分で準備したものがある。座席下においた背嚢を開けて、音矢はそれを指差し、口に出して確認した。
「水筒よし。氷砂糖よし。
応急処置用の救急箱よし。古新聞紙よし」
アルミの弁当箱も取り出して、開ける。
その中身は飯ではなく、水にぬらしてから固く絞った手ぬぐいが二枚。
「おしぼりよし」
作業服の上着にある左右のポケットを軽くたたいて
「ハンケチよし。鼻紙よし」
それを見ていた瀬野は、おもわず口にした。
「なに、それ。遠足の準備?」
「たしかに似てますね。あはは」
「なにをしているんだ。早く行こう」
翡翠はドアに手を伸ばす。
「急いてはことを仕損じるっていいますでしょう。
それに僕だって人間ですし、かなり緊張しています。
だから気を落ち着けるためにやってるんですよ」
と言いながら、
「瀬野さんからもらったキーホルダーよし」
大事そうに、そっと音矢はズボンの右前ポケットを押えた。
「そして、とどめをさすための武器」
運転席の瀬野は彼女のバッグからリベットペンを出した。
暗殺に使われる隠し武器だ。
万年筆に偽装したそれを、相手に突きさしてから側面のボタンを押すことによって弾丸が発射され、金属ナトリウムを主成分とした特殊火薬が体内の水分に反応して爆発し、肉体を破壊する。
音矢は受け取ったペンを作業服の胸ポケットにさした。
「はい、これをはめてください。
すこしは手を保護できます」
音矢は小さめの軍手を出して翡翠に渡した。自分は普通サイズのものをつける。
「それから、電波送受信機。
僕は戦わなければならないから、
翡翠さんがもっててください。
うまくいったら、そのボタンを細かく押して、
瀬野さんに無事を知らせてもらいたいんです。
もし、ダメだったらボタンを押しっぱなしにして
救援を頼んでください」
「わかった」
次に、音矢は瀬野に話しかける。
「戦術目標を確認します。
呉羽の暴走した脳を小型特殊爆弾で破壊。
その後神代細胞を回収。これでいいんですよね」
「そうよ。がんばってね。応援するわ」
「でも、うまく倒せたら死体が残ります。その始末は?」
「そこまではやらなくていいわ。
音矢くんの体力にも限界があるでしょう。
細胞を回収したら車に戻って。すぐ現場を離れるから」
生け垣の向こうを音矢はのぞく。
内側からのクレセント鍵がかかっていないことをしめすように、玄関の開き戸は三センチほどあいて、中の明かりが漏れていた。
「なんで戸締りしていないんだろう」
音矢はふと疑問をもらす。
「誘ってるんでしょう」
「戦う気合い満々ですか」
音矢は車のドアに手をのばしかけて、とめた。
「あ、そうだ。翡翠さん、靴は脱がないで上がってください」
「なぜだ。家のうちと外は区別するのではなかったか」
「場合によります。
素足であがって、
マキビシでも踏んだら動けなくなってやられてしまいますよ」
「わかった」
翡翠を車から降ろしてから、音矢は運転席に移動した瀬野にささやく。
「もし、僕が戻ってこられなかったら、
あとのことはお願いします」
「わかってるわ。あなたの報酬は、あなたの実家に送金する」
神代細胞を回収するための容器を入れた革鞄を左手にもち、音矢は玄関先に立つ。翡翠を背後にかばうようにして音矢は戸をあけた。
彼らの家と似たような中廊下のつくりだが、それよりはずっと新しい。
廊下の左には二階につづく急な階段。廊下の右には洋風のドア2つがならび、反対側にはフスマ。奥にはガラス障子がある。
(ハイカラだなあ)
翡翠に言っておきながら、自分がつい靴を脱ぎそうになって、音矢は苦笑する。
しかし、どうしても抵抗をおぼえるので、
「すみません」
誰にともなく謝った。
「いらっしゃい」
細い声が答える。
ドアがあいて、呉羽が二人を迎えた。昼とは違う、アサガオ柄のワンピースに着替えていた。ほどかれた髪は洗ったばかりらしく湿っている。
「土足なんて……それに室内で帽子を」
言いかけてから
「そう、常識なんて捨て去らなきゃね」
謎の言葉をはいた。
◆◆◆◆◆◆
瀬野は車内で翡翠と音矢の帰りを待っている。
その窓を男が叩いた。
異国人を思わせる高い鼻梁と鋭い目。
鷹を連想させる顔だちだ。
「あら、礼文さん」
瀬野は親しげに彼の名を呼んだ。
次回に続く