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第五話

 礼文は研究日誌を携え、水晶のいる部屋のドアを開けた。

 彼は部屋の隅で、壁に寄りかかっている。

 額には神代細胞をその身に宿すあかしである、紫色の小さな角。光の角度によって、藤色に輝く瞳。

 美しいが、うつろな眼だ。

 礼文が自分のいる部屋に入っても、その視線は宙に浮いたまま動かない。


「水晶、4歳と132日。

 ついに九九をすべて暗唱することに成功した。

 英才教育を施した成果だろうか、

 神代細胞を脳に有する効果だろうか」


 礼文は研究日誌の一部を読み上げてから、水晶に話しかける。


「おまえはこんなに賢かったのだろう。

 それなのに、今のざまはなんだ。それでいいと思っているのか」


「いいと思ってるよ」

 単調な声が答えた。



   ◆◆◆◆◆◆



「ええっ! 翡翠くん、お箸が使えるようになったの!」


 驚く瀬野の前で、彼は照り焼きを口に運んだ。咀嚼しながら、翡翠は箸を開いたり閉じたりしてみせた。


「あなた、私がいくら教えても、

 うまくできなくて……すぐに飽きて箸を放りなげていたじゃない」


 口の中のものを飲み込んでから、翡翠は答えた。


「食べられるわけでもない、

 生の豆をひたすら箸でつまんで別の皿にうつすというのは面白くないから、

 やりたくなかったんだ。だが、音矢くんの協力でできるようになった」


瀬野は音矢に目を向ける。


「あんた、どうやって仕込んだの?」

「特別な鍛錬はしてませんよ。

 しいていえば、昼飯を毎日暖かい麺類にしたぐらいですが」


 音矢の言葉にうなずき、翡翠が説明する。

「ウドンもソバもうまいが、

 手づかみではどうしても熱くて食いにくい。冷めると味が落ちる。

 しかし匙ではすくえない。

 麺を食べたい一心で箸を使っていたら、

 他の食べ物にも応用できるようになったんだ」


誇らしげに語る翡翠を、音矢が補助する。

「それ以外にも……翡翠さん、5かける7は?」

「35」

「8かける3は?」 「24」

「45わる9は?」 「5」 

「1個が3銭の豆大福を4個買って、

 20銭をお店の人に渡しました。おつりはいくらですか」

「8銭だ」

 翡翠は胸を張って答える。

 なお、1930年〔光文5年〕において、消費税制度は存在しなかった。


「算術もできるようになったの? 

 しかも買い物のやり方まで入れた応用問題まで……」


「庭に出て、ビー玉と小石をまぜて数取り遊びや、

 葉っぱを商品にみたてたお店屋さんゴッコをしていたら、

 覚えてくれましたよ。

 これまでは、興味がないからやろうとしなかったみたいですね。

 孤島で水晶さんと二人ぼっちだったら、

 特におつりの計算なんかしなくても暮らしていけるわけですし。

 で、やらないから、できないままだったと」


 音矢のとなりで、翡翠はうなずいている。


「翡翠さんは、もともと頭がいいから、

 ちょっと工夫すればちゃんと学習してくれますね」


音矢の言葉で、瀬野の顔色が変わった。


「……なによ、それ……」

「え?」

 とまどう音矢の前で、瀬野は怒鳴った。


「私の教え方が悪かったから、

 翡翠くんはなにもできなかったって、言いたいの、あんたは!」

「べ、別にそんなつもりは……」

 音矢はとっさに弁解する。


 しかし、

「とにかく、ボクはいろんなことを覚えたから、実地で試してみたい」

 翡翠はまだ、その場の雰囲気を読むような高等技術を習得していない。だから、瀬野の怒りを無視して自分の言いたいことだけを主張した。


「翡翠さん、ここは戦術的撤退を……」


 音矢が制止したが、翡翠は聞いていなかった。


「手始めに商店街というところで買い物をしてみたいんだ。許可をくれ」

「ダメよ。調子に乗らないで。

 外にはまだ翡翠くんの知らない危険なことがたくさんあるんだから。

 この家でおとなしくしていなさい」


 冷たく答える瀬野に、翡翠は食い下がる。

「それなら、ボクの知らない危険なこととは何か、おしえ……」

「とにかく! ダメ」

 彼の言葉を最後まで聞かず、瀬野は立ち上がった。


「もう遅い時間だから、私は帰るわ」

 愛用のバッグを手に取り、瀬野は玄関に向かう。途中で振り返り、彼女の後を追う音矢に命令した。

「音矢くん、翡翠くんを勝手に外出させては絶対にダメよ」

「……わかりました」

 彼は目を伏せて答える。


 茶の間では翡翠は立ち上がり、拳を握りしめて叫んでいた。

「なぜいけないんだ! 

 ボクがいままでできなかったことを

 できるようになったのに……なぜ瀬野さんは!」


 翡翠の頬に一筋の涙が流れた。


「……ちゃんと音矢くんに言われたとおり……

 口の中に物を入れたまま話さないように……

 他にも……ボクは……できたのに……」


 しゃくりあげながら、彼はとぎれとぎれに語る。


 玄関から戻ってきた音矢はそのそばに立って慰めた。しかし、彼自身も傷ついている。


「世の中にはいろいろと理不尽なこともありますよ。

 他にも、期待外れとか、自分の思惑とは違う展開になるとか。

 それが普通です。でも……」



 瀬野が翡翠に求めていた能力、箸使いや算術などを習得した褒美ほうびとして、外出許可をもらう。その付き添いとして音矢も出かける。そんな展開を二人は望んでいた。



「あの反応は、僕も予測できませんでしたよ。

 ……怒り方からして、

 しばらくは瀬野さんから外出許可をもらえそうにありませんね」


 音矢はため息をついた。


「でも、ボクは……ここ以外の場所にも行ってみたい。

 だけど、始末の時には余裕がない。

 もっとゆっくりと、知らない場所を歩いたり、ながめたりしてみたいんだ」


「僕だって、計略が失敗したままではくやしいですし……

 まあ、瀬野さんを説得するのは、

 今すぐは無理ですけれど、そのうちになんとかしてみせます。

 だから、翡翠さんはとりあえずおとなしくしていてください。

 僕にだまって、勝手に出かけたりしないでくださいね」


「…………」

 翡翠は口を開かず、その場に座りこんで膝を抱えた。



   ◆◆◆◆◆◆



 疲れきった翡翠は木の根元に座り込んだ。

 音矢が台所にいる間に外出を強行したが、迷子になってしまったのだ。

 前日に瀬野と音矢から注意を受けていたが、彼はどうしても我慢できなかった。


 何度も転んだので、すりむけた膝が痛い。腹も減ったし、喉はカラカラだ。

 家に帰りたい。しかし、まったく方向がわからない。


 自分では駅があるという方向に歩いているつもりだったが、いくら歩いても雑木林から抜け出せない。

 もう無理かと思って引き返そうとしたが、翡翠には自分がどちらから来たのかも判別できなかった。


 家を出た時はまだ明るかったが、今はすでに日が沈もうとしている。

 不安と後悔に翡翠の心は押しつぶされそうだった。


「音矢くん……」

 小さな声で、彼は友の名を呼んだ。


「……翡翠さーん……」

 彼の耳に、かすかな声が届いた。

「音矢くん!」

 おもわず、翡翠は大声で叫ぶ。


「翡翠さん! いるんですか! 返事をしてください」

 遠くから聞こえる声に、翡翠は答えた。

「ボクはここだ!」


 藪をかきわける音が聞こえる。翡翠はそちらを見た。

 梢を抜ける夕日を背に、人影が立っていた。

「翡翠さん!」

 彼の名を呼びながら、人影は近づいてくる。


 一瞬は安堵したが、形を変えた不安と後悔が翡翠の心に膨れ上がる。

 彼は膝を抱えてうつむいた。


「大丈夫ですか?」

 音矢の問いに翡翠は答えない。


「どうしました? どこか痛いところがありますか?」


 優しい声に、翡翠は目だけあげて問いかける。

「怒っていないのか?」

「そんなことは後。

 とにかく、翡翠さんが無事ならそれでいいんですよ」


 微笑みを浮かべて、音矢は翡翠に手を差しだす。その手にすがって、翡翠は立ち上がった。

「すまない……君に止められていたのに……ボクは勝手に出て……」


音矢は単衣ひとえふところから乾電池式小型電波送受信機を取り出し、モールス信号を打電してから答える。


「あはは。反省してくれるなら、僕はかまいませんよ。

 さあ、家に帰りましょう」

「……疲れて歩けない」

「それなら、僕におぶさりなさい」

 送受信機を元通りしまうと、音矢は背をむけてしゃがんだ。


「いいのか?」

「毎日、買い物で往復5キロ歩いてますからね。

 だいぶ体力がついたから、このくらい余裕です」

「……ありがとう……」


 翡翠は音矢の背に体をあずけた。音矢の体格は日本人男性の平均値だが、小柄で華奢な翡翠にとって、それは広くたくましく感じられた。


「よいしょ」

 立ち上がると、音矢は迷わず歩を進める。

「道がわかるのか?」

「せんに話した[一ツ木のおじさん]に、

 山歩きのコツを教わってますからね。

 途中で枝とかを折って、道しるべをつくりました。

 それをたどっているんですよ」




 ほどなく、二人は自分たちの住んでいる貸屋に到着した。なつかしい縁側に下ろしてもらうと、翡翠は安堵で涙が出そうになった。

 その耳に翡翠は、自動車のエンジン音を聞いた。

 音矢もそれに気づいたようだ。玄関のほうに彼は顔を向ける。


「ああ、瀬野さんが来てくれたんですね」

「なぜだ? 彼女が来る日ではないぞ」


「僕一人で探して、もし翡翠さんを見つけられなかったら大変でしょう? 

 だから、翡翠さんがいなくなったのに気がついたとき、

 瀬野さんに電波送受信機のモールス信号で応援を要請したんです。

 翡翠さんを発見したこともさっき打電したんですけど、

 やっぱり心配なのかな? 引き返さずに確認しに来てくれたんでしょう」


「……なんてことを……」

 翡翠は叱責におびえ、頭をかかえる。



 彼の予想に反して、瀬野の怒りは音矢に向けられた。

 瀬野は玄関で出迎えた音矢の胸ぐらをつかみ、茶の間まで連行して正座させる。


「なんで、あんたは翡翠くんを止めなかったの!」


 バシ


 強烈な平手が音矢の右頬を打つ。


「申し訳ありません。

 夕食の下ごしらえ中でしたので、僕は目を離してしまいました」

「もし、翡翠くんになにかあったらどうするの!」


 バシ


 今度は左頬を打たれた。


「申し訳ありません。以後、気をつけますので……」


 バシ


さらに右を打たれる。


「やめてくれ! 

 ボクが勝手に飛び出したのに、なぜ音矢くんを殴るんだ!」


「こいつの仕事は翡翠くんを守ることなの。

 それができなかったんだから、罰を与えるのは当然よ!」


 彼女が振り上げた手の前で、翡翠は空間界面を発動した。しかし、緑の膜にくるまれた彼は、体ごと跳ねのけられてしまった。


 繭状になった空間界面は畳の上を転がり、壁に当たって止まる。

 その彼を見下ろし、瀬野は説教した。

「私は、翡翠くんが安全に過ごせるように、いろいろ注意してあげてるの。

 その内容は、音矢にも伝えてあるわ。

 なのに、外出するのを見過ごして、翡翠くんを危険にさらしたのよ! 

 その責任をとらせてるの!」


 バシ


 正座したまま、音矢は顔を手でかばいもせずに頬を打たれている。


「ボクが、瀬野さんの注意を無視して外出したから、

 それで迷子になったから……音矢くんは殴られるのか……」


 翡翠は空間界面を解除し、瀬野にすがりついた。

「わかった! もう、ボクは勝手に出歩いたりしない! 

 だから、音矢くんを殴らないでくれ!」

「……約束できる?」

「約束する! だから、やめてくれ!」


 瀬野は振り上げていた手をおろし、深く呼吸をした。

「私は、翡翠くんのためを思って言ってるんだからね!」

 捨て台詞をはいて、瀬野は玄関に向かった。


 滲んできた涙を手の甲で拭い、翡翠は音矢に話しかけた。

「痛いか?」

「ああ、こんなの平気ですよ」

 音矢は赤くなった頬に、笑みをうかべている。


「呉服屋の小僧時代は、もっと派手に殴られたことがありますし。

 僕らみたいな下っぱは、殴られるのも仕事のうちみたいなもんです。

 あはは……ぃってぇっ」


 さすがに大きく笑うと痛みが走るようだ。真面目な表情に戻して、音矢は翡翠に向き直る。


「ようするに、黙って行くから大騒ぎになるんですよ。

 瀬野さんだって、翡翠さんが心配だから、あんなに怒るんです」

「だが…………」


「僕は[そのうちになんとかしてみせる]って言ったでしょう。

 その言葉を信じてくれなかったんですか」


「……信じていたが……我慢できなかった。すまない」

「まあ、翡翠さんがそういう性分なのは、僕も承知してますし

 ……仕方ないですか」


 音矢は翡翠の肩に手を置いて、目だけで笑ってみせた。


「いいことを思いつきました。次に、あの人が来た時に、

〈瀬野さんと二人だけで、お出かけしたい〉って頼んでみてくれませんか?」

「なぜだ? ボクは音矢くんも一緒のほうがいいのだが」


 翡翠の問いに、音矢は首を横に振って答える。

「それだから、瀬野さんが怒るんですよ。

 あの人だけ、仲間外れみたいな気持になってるんです。

 僕をビンタしたのは、その八つ当たりもあります。

 もともと翡翠さんの世話をしていたのは瀬野さんなんですから、

 そこんとこを汲んであげないと」


 翡翠はしばし考えていたが、やがて大きくうなずいた。

「よくわからないが……とにかくやってみる。

 音矢くんの助言はいつも役に立つからな」



   ◆◆◆◆◆◆



 音矢は自室に入り、濡れ手ぬぐいで頬を冷やす。

 傷を癒しながら、彼は心の中で快哉を叫んでいた。


(あはは。計略成功だ)

 昨日、一つの計略が失敗した。その結果を利用して、音矢は新たに計略を立て、前々からの不安を解消することができたのだ。


(駅前商店街に行く道は台所にいる僕が見張っている。

 だから、翡翠さんは庭から道なき雑木林を抜けていくしかない。

 でも、なにも道しるべがない林を、

 山歩きの知識がない翡翠さんが進めば、

 狭い範囲内をグルグル回って迷子になる)


 いわゆる[リングワンダリング]という現象だ。この知識も音矢は[一ツ木のおじさん]に教わった。


 音矢は翡翠の枯葉を踏む足音や藪をかき分ける音をたよりに、こっそりと追跡した。彼は何度も雑木林に入ってカマドの炊きつけにする小枝を拾っているので、土地勘もついている。その上に道しるべもつけたから迷う心配はない。


(翡翠さんが疲れて動けなくなったところを見計らって、僕は助けにいく。

 そのことを僕は[正直]に瀬野さんに報告し、怒られる)


 自分のせいで叱られる音矢を見て翡翠は悲しみ、[勝手な出歩きなどしない]と自ら約束した。


(今回は僕が翡翠さんのソワソワした様子を見て予測していたから、

 台所に居ながらも藪をかき分ける音に注意を払っていて、

 脱走に気がついたけれど、

 本当に目を離したすきに迷子なんてことになったら大変だ)


(実際に、翡翠さんが街中で迷子になったら

 僕が殴られてすむような問題じゃない。

 翡翠さんが公衆の面前にさらされたら、

 神代細胞の件や、人体実験のこともばれて研究機関はひっくり返る)


(僕も失業する……どころか人殺しとして逮捕される)

(そいつはまずい。

 どうしても、翡翠さんにはおとなしくしてもらわなければならない)


(でも、それを言って素直に従う人じゃないからな)


 以前からうすうすとは感じていたが、ノラネコを発見した途端、音矢の注意を忘れて飛び出した件で、翡翠の無謀さは確認できた。


(だから荒療治するしかない。……痛い目にあったのは僕だけど……)


 音矢は頬をなでて、ほくそえむ。今回の結果で不安を解消できた。そして、新たなアイデアが、音矢の中にある。


(さて、次の計略はうまくいくかな?)



次回に続く



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