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勝てば官軍 【魔術開発物語】  作者: 桜山 風
第十二章 星雲 
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第五話

 礼文は日本の本屋にその日初めて入った。


 これまでは義知が大量のオカルト系書籍を彼に押しつけ、それを読むことを強制されてきた。富鳥家に引き取られた、他にゆく当てのない亡命者である礼文に断る権利などない。


 しかも、目を通す程度ではだめだった。何度も読み返して内容を理解しておかないと、義知の質問に答えられず、叱責される。おかげで日本語をあやつる能力は向上したが、そのせいで自分の読みたい本に手を延ばす余裕はなかった。


 だが、基礎的なオカルト知識を習得したと礼文は義知に認定されたので、最近は以前ほど本を渡されなくなってきた。


 加えて[真世界への道]の綱領を作る仕事を与えられたことも幸いだった。新しい仕事に専念したいのでオカルトの勉強はしばし休みたいと申し出て、了承された。これでしばらくは読みたくもない魔術書から礼文は解放されるだろう。


(これは……たいした規模だな)


 ずらりと本が並ぶ棚を見ながら、彼は書店の中を歩き回る。


(実務書から教養書まで、そして娯楽系と、品揃えが豊富だ)


(庶民の識字率が高いと、出版も盛んになるのか)


 やがて彼は一つの棚の前で足を止めた。


「なるほど。伊吹くんの言った通り、

 均分主義の根本論理である、

 【世界不均分論】が全巻置いてある」


 日本語で書いてはあるが、自分の青春と共にあった書籍を目にし、礼文はしばし感慨にふけった。


 しかし、それらは一冊ずつがいかにも重く、かさばっている。すべてをこっそり離れに持ちこむのは困難だろう。そして礼文がこれを所持していることを富鳥義光に知られたらまずい。義光は華族制度を否定する均分主義を毛嫌いしているからだ。


 礼文は思い出の書を購入することをあきらめ、他の本を探す。



   ◆◆◆◆◆◆



 松木邸で行われた会議兼研修会の席で、伊吹俊樹が高校時代のことを話題にあげた。


『この本を読んで予備知識を得ておきなさい。

 そうすれば主義者たちの勧誘に騙されることがないだろう』


 といって彼のクラス担任は受け持つ生徒たちに、二冊の本を勧めたそうだ。


 礼文は彼の持ち出した話題に興味を持ち、伊吹へさらに詳しい説明を求めた。


 若者の間に均分主義、そして唯日主義が浸透しつつあると彼は言う。書店にもそれらの思想を記した本が何十冊も売られているとも言う。


 この情報は礼文にとって初耳だった。彼が富鳥邸で与えられている[石北新聞]の記事には、俊樹が言ったようなことが書かれていなかったからだ。それに、新聞の広告欄には均分主義関連の著作などかけらもなく、毒にも薬にもならぬような娯楽雑誌や、資格習得のための実用書、そして子会社である石北出版の発行する唯日主義の解説書などが掲載されるばかりだった。


 その理由を、俊樹は礼文に解説する。


 彼の担任は、石北新聞のことをかなり非難していたそうだ。


『昔の石北新聞は、むしろ体制に批判的で、

 政府を攻撃に回っていたそうです。

 とくに均分活動の隆盛を大絶賛していたそうですよ。

 でも、1923年9月1日に関東大震災が起きたとき、

 均分主義者が社会の混乱に乗じて反政府テロを起こすとの噂が広まったと

 先生が言っていました。

 オレ自身は当時、まだ子供だったので、

 怖い人たちが暴れるそうだと

 母が怯えていたことしか覚えていないんですが……


 なんでも、警察が噂を広めて有権者の恐怖をあおり、

 彼らの陳情を受けた国会議員を動かして、

 明治に制定された治安警察法に加え、

 それよりも強化した治安維持法を設立させたという説もあると

 教えてくれました。


 真偽はわかりませんが、他にも……

 警察が民衆をけしかけて、活動に熱心な有力均分主義者を袋叩きにさせ、

 見せしめとしたなんて言う人もいます。


 一方、憲兵はというと、

 どさくさにまぎれて均分主義者の親玉を愛人と共に殺害しました。

 愛人といっても彼女は婦人均分会の幹部でしたから、

 色男のとばっちりではなく明確な意思をもって処刑されたらしいです。


 そんな一連の事象を体験したせいで、

 すっかり社主が怯えて、手のひら返しですよ。

 これまでの主張は忘れたように、

 石北新聞は政府におもねるような保守的、唯日的な記事ばかりで紙面を埋め、

 均分系の書籍の広告さえ載せなくなりました。

 逆に震災後の真実新聞は

 迫害される均分主義を擁護する方向に進みましたけれど、

 別につぶされる様子はありませんから、

 石北社主の勝手な忖度にすぎないんですけれどね』


『そんな歴史があったのか。興味深いな』


 礼文はさらに国内の事情を詳しく知りたくなったので、担任が推薦していたという本を読みたいといった。しかしあいにく、俊樹が買った本は二冊とも友達が借りて行って返してくれないので今手元にないという。


 せめて探すたよりにと、彼はその題名を手帳に書いて、ページを破り礼文に渡した。受け取ったメモを、礼文は自分の手帳に挟んで保管した。


 しかし、うっかりと礼文はその存在を忘れ、今日まで放置してしまった。

 瀬野の抗議を聞き流しているとき、彼は退屈しのぎに最近あったことを回想していた。それで二冊の本のことを思い出し、買ってみる気になったのだ。



   ◆◆◆◆◆◆



「……【我が国の均分主義者たち】……【唯日主義の真実】」


 礼文はその本を書棚に発見する。二冊とも同じ著者が書いたので、並んで置かれていた。

 釣銭を無造作にポケットに入れ、カバーをかけてもらった本を小脇に抱えて礼文は事務所に帰る。


 彼を迎えたのは、電話のベルだった。


「はて、誰からだろう……」


 本をテーブルに置き、嫌な予感を抱えて礼文は受話器を取る。


「もしもし」


『やっと繋がったか! 今までどこにいた!』


 彼の耳に、富鳥義光元伯爵の怒声が突き刺さる。


「それは」


『ワシがわざわざ電話を掛けたのに出ない! 

 30分以上も、お前は事務所に居なかったな! 

 職務怠慢にもほどがある!』


 彼が甘やかしている息子の目にふれないところでは、義光氏は本来の態度を取り戻していた。特権階級である華族としての傲慢で高飛車なふるまいで、不手際をおかした使用人を義光氏は叱りつける。


「……私は休憩時間に外出しただけで……きっと入れ違いになったのでは……」


『うるさい! いいわけするな!』


 1930年〔光文5年〕、この時代には、携帯できるスマホはおろかガラケーさえない。それどころか、固定電話機には留守番機能も転送機能もなく、ただ通話をすることだけしかできなかった。そのため、外出している者と連絡をとることは困難で、とくに急用がある場合は非常にイラつかされることが多かった。


『まったくお前はなっていない! 

 ワシが拾ってやらなければ、お前は路頭に迷うところだったんだ! 

 その恩を忘れたのか、このノラ犬め!』


「……忘れてはおりません……」


 30分を越えて、義光氏は礼文がすぐ電話に出なかったことを責め続けた。やがて、本来の要件を思い出し、彼は礼文に即時帰還を求める。それに応じて礼文はできる限り車の速度をあげて走ったが、義光氏を満足させることはできなかった。


 まず、雇い主を二回も待たせたことを叱責されてから、礼文は交通が不便な場所を実験の場に選んだことについて義光氏から説教をくらった。それはすっかり日が暮れたころ、円タクで義知が帰宅するまで続いた。


「パパ。誰にでも失敗はあるさ。あんまり叱らないでやってよ」


 愛する息子に取りなされた義光氏は、咳ばらいをしてから、ムメがテーブルの上にそっと置いておいたカップに手を伸ばした。それは入れてから時間がたってしまってはいるが、口元に持っていくとかすかながら残っていた紅茶の香りが彼の鼻孔を刺激した。続いてハチミツの甘味が酷使された喉を癒し、興奮しきった頭脳をなだめる。


 いったん口を離し、


「……うん、やっぱり義知ちゃんは優しいねえ。うふふう……」


 そう言ってから、義光氏はまた紅茶をすする。昼頃から今まで怒り続けていた疲れに気づいたようだ。


「礼文。お前も反省したな? 

 次からは同じ失敗をしないように気をつけろよ」


「はい、重々心得ております。義知さま」


 深く頭を下げる礼文を睨んでからカップを置き、義光氏は小太りの体形に似合わず身軽に立ち上がった。


「じゃあ、おやすみ、義知ちゃん」


「おやすみ、パパ」


「……」


 余計な口をきいてまた怒りが再燃したら困る。そう思って礼文は黙礼で主人を見送る。


 調理場に控えていたムメは父子の声を聞きつけ、すばやく玄関にまわった。ドアを開けて押さえる彼女に見向きもせず、義光氏は母屋に戻っていった。


 見送りが終わり、ほっとしたようすで息を吐くと、義知はソファに戻った。深く腰掛けて体を背もたれにあずける。


「やれやれ。お前もとんだ災難だったな」


「……はい」


「まあ、何をしたんだか知らないけれど、

 失敗したなら自分の悪かったところを探して、ちゃんと改善しておけよ」


「はい。もちろんでございます」


「さて、風呂でも入るか」


 その声に反応したムメは、主人に先立って浴室に行った。そこは義知の好みに従って、チューダー朝様式の建物には似つかわしくない和風の風呂場に改装されている。


 ムメはヒノキの浴槽のフタを開けて手を入れ、あらかじめ沸かしておいた湯の温度を確かめた。

 やや冷めてしまったとわかると、彼女は調理場のコンロで焼いておいた石を鉄鍋に入れたまま運び、それを湯船に入れる。蒸気がモクモクと上がり、湯は再び適温に戻った。石を拾い出してからムメは義知の前に立ち、頭を下げて準備が整ったことを伝える。


 ありがとうと言うこともなく、義知は浴室に向かう。そこには柔らかいバスタオル、そしてきれいに畳まれた下着とパジャマがいつも準備されていることを彼は承知しているので、いちいちムメに命令することはない。


 その間、礼文はというと、離れから出て駐車場に向かっていた。主人を待たせておいて、食事だけではなくノンキに買い物までしていたなど、義光氏に言いがかりをつけられることを恐れて、彼は二冊の本を座席に置いたままにしていたのだ。


 回収したものを背広の下に隠して階段を上がり、自室に入る。机の上に本を置いたとき、ドアが軽くノックされる音を彼は聞いた。その叩き方から、来訪者がムメだと礼文にはわかった。


「なんの用だ?」


 礼文はドアを開けて彼女を迎える。ムメはその小さな胸の前に、紅茶のセットを乗せた盆を捧げていた。一人分のカップに、ティーコジーをかけられたポット。だが砂糖壺はない。そのかわりに礼文がいつも頼む小皿とスプーンが添えられていた。


「おお、気がきくな。ちょうど飲みたいと思っていたところだ」


 礼文はそれを受け取る。


 ムメは会釈をすると、ぎこちない動作で回れ右をし、一階に戻っていった。


「有能なのは認めるが……どうも、あの娘は愛想がない」


 礼文は盆を自分の机に置いてから、ドアを閉める。


「そして、バカ坊ちゃんは気が利かない。

 あいつがもっと早く帰宅すれば、

 それだけ早く私がバカ親父の説教から逃れられただろうに」


 義知は礼文をかばった。そしてムメはずっと主人に怒鳴られていた彼を慰めるため、おいしい紅茶を持ってきた。


 彼らに対しての感謝の念は礼文にない。奉仕されることに彼は慣れている。そして他にも慣れてしまったことがある。


 ヒュッ


 礼文はステッキを振るい、ベッドを打った。


「……生殺与奪の権を握るという立場を利用して、

 弱いものを容赦なく痛めつける。

 そんな悪事をいつまでも許しておくわけにはいかない。

 慈悲の心を持たぬものには、いつかその報いが来るだろう。

 そう、虐げられた苦痛は、反逆の起爆剤となるのだ」


 礼文は富鳥義光のことを言っているつもりだ。しかし、津先や研究所に収容された子供たちの扱いについて彼が己の所業を顧みることはない。


 自分のことを棚上げにして、他人を批判する。それは礼文にとってあまりにも自然なことになっているからだ。


 何度もベッドに八つ当たりしてから、礼文は戸棚にむかう。大事にしまっておいたイチジクのヴァレニエを取り出し、甘いシロップに浸った果実を一切れ掬って皿に盛る。しばし迷ってから、もう二切れをそえてフタをしめた。


 そんなささやかな贅沢を楽しみながら、彼はまず【我が国の均分主義者たち】を手に取った。

 この本にかかわる話題のきっかけになった、伊吹俊樹の発言を礼文は思い出したからだ。


『こないだ行った[兎狩り]って、

 なんだか均分主義者たちの行う訓練に似ていますね。

 そう……[アナザ]とかいうアレです』


 その本の巻末には、均分用語を集めた索引がある。[ア]の項目を礼文は調べ、目的の言葉を見つけた。


「……リューシャ語の[アホータ ナ ザーイツ]を略した言葉。

 多勢で兎を狩る様子を模して組織員を訓練することから、

 この名前に……」


 礼文は納得する。


「なるほど。

 日本の均分主義者は原語の発音のまま外来語として受け入れて、

 さらに簡略化したのか。

 私はそんな事情を知らないから、直訳して会員に伝えた。

 偶然だが、幸いだった。

 これなら[真世界への道]と均分主義とのかかわりを偽装できる」


 気になっていたことを確認してから、礼文は本を最初から読み始めた。


「……」

「…………!」

「………………!」


 黙読する礼文の顔が徐々に険しくなっていく。


「!!!」


 ついに彼は、忌々しい情報が書き記された本を床にたたきつけた。


「おのれ、[カミンテールン]……」


 それはソユーズ連邦が他国に均分主義思想を広めるために作った組織だ。つまり、礼文を追放した現実派に属している。


「日本の均分団員は、

 中原民主国の外国人居留地に留学して

 現実派の思想教育を受けるのみならず、

 活動資金の提供も受けて、ソユーズ連邦の下請けをしているだと!」


 ステッキをとり、彼は本を叩いた。


「世界同時均分化の理論がすでに伝わっていたにもかかわらず、

 日本の均分団は現政権である現実派にシッポを振り、理想を捨てた! 

 そしてこの国の若者に、

 [均分国家前衛建設論]などという間違った思想を広めている!」


 それは、まずソユーズ連邦を完璧で幸福な均分主義国家となすことを最優先とするものだ。他の国に散らばったカミンテールンは、そこの国民にソユーズ連邦の素晴らしさを説き、反ソユーズ連邦的な政治家に対し抗議行動と、落選運動をさせる。そうすれば政府の中央に残るのは親ソ派の政治家だけだ。彼らは一層の支持を得るためにソユーズ連邦に協力し、経済や技術の援助を行うだろう。そのようにして他国の力を利用し、ソユーズ連邦をますます発展させていけば、全世界が自然とそれを手本とし、いずれ人類は均分思想のもとに統一されると、彼らは説明している。


「忌まわしき嘘つきどもめ、呪われろ」


 礼文はまた自分を棚に上げた。


「実際のソユーズ連邦は現実への妥協の連続で、

 均分主義の目標である

 万民が等しく幸福を享受きょうじゅできる社会から離れていく一方だ。

 農場経営がうまいからと言って富農を優遇し、

 結果として小作人は搾取される。

 国家経営の実績があるからと言って

 リューシャ帝国に仕えていた高級官僚を登用し、

 庶民は彼らにこき使われている。

 そのせいで社会は均分化どころか格差が広がるばかり。

 それに抗議した私たち理想派をやつらは弾圧し……」


 彼の心に、屈辱と苦痛が蘇る。


「ならば、日本の均分主義者は私の敵だ」


 礼文はもう一冊の本を手に取った。


「……その敵の敵……唯日主義者。

 ひょっとしたら共闘できるかもしれない。

 頼んでみれば、バカ親父も手引きをしてくれるかもな。

 なにしろ石北新聞を愛読しているからには、

 唯日主義に抵抗はないはず」


 その主義の実態を詳しく知りたいと思いながらも、礼文は時計を見た。そろそろ義知が隣の部屋に戻ってくるころだ。


 義知はゆっくり風呂に浸かってから、リビングでラジオを聞きながら冷たい茶を飲んでくつろぐのが習慣だ。それには約一時間ほどかかる。だから、いままで礼文は立ち聞きされる心配をせず、ずっと自分の感情を思うままに噴出させていた。


「ひとまず体を洗って、今日は寝るか」


 礼文のためだけに湯を沸かすことは義光氏が許さないので、彼はいつも義知の後に入る。


「この本は明日読もう」


 それでも少し気になるので、彼は巻末の著者紹介欄だけに目を通した。


 この二冊を書いた[古田富貴雄]は現役の国会議員だ。彼はもともと内務省の警保局に勤める官僚だったが、諸事情により嫁の父の地盤を受けつぐことになり、1928年〔光文3年〕の衆議院選挙に出馬し、当選したそうだ。この二冊が最初に発行されたのは、まだ義父の私設秘書をしていたころで、礼文が買ったのは修正が入った三版。継続して売れているようだ。


「なるほど。

 取り締まる側であったから、主義者たちに詳しいのだな。

 よくわかった」


 本を閉じて机に置き、礼文は一階に向かう。階段をゆっくり下りながら、彼は考えた。


「あの青年も、なかなか賢いな。

 松木君とは違う方向で、

 きっと彼は[真世界への道]の役に立ってくれるだろう」


 礼文が期待をかける男、伊吹俊樹は今何をしているかというと、彼は自室で新聞の活字を切り抜いていた。



   ◆◆◆◆◆◆



 電球と卓上電気スタンドの光を頼りに、伊吹俊樹はチマチマと新聞紙を一つ一つの活字ごとに細かく切っている。


「いつか、オレも……」


 ふと独り言が漏れたが、マスクをしているので小さな紙片を飛ばすことはない。


 伊吹俊樹は、19世紀末にあらわれた連続殺人犯ジャック・ザ・リッパーに憧れている。その名は当時、新聞社に送られた怪文書の署名に由来するものだ。


 だから、俊樹は自分が将来猟奇殺人事件を起こした暁にも、新聞社に犯行の動機などをしたためた手紙を出そうと、最近思いついた。


 しかし、20世紀の警察はロンドンで本家が犯行をおこしたときよりはるかに鑑識技術が発達している。筆跡を残さないために英文タイプライターを使ってローマ字で書いても、その機械ごとに癖があるので犯人を特定する手掛かりになってしまうことを、俊樹は[萬文芸]の探偵小説を読んで知っていた。だから新聞の活字を組み合わせて手紙を作るのだ。


 しかし、そのときになってあわてて新聞をさがしても、長文の手紙に必要な文字を全て揃えるのにはかなりの手間がかかるだろう。だが、もたもたしていたら世間は事件のことを忘れてしまう。つまり、犯行を行ったら即座に手紙を出さなければならない。


 そのために、彼は今のうちから活字を集め、整理しておこうと考えた。もちろん指紋をつけないため、手袋も装着済みだ。


 このアイデアを思いついて、実際の行動にうつる前に彼は下準備をした。それが机の上にある。俊樹は50個の寸2形マッチ箱(56x35x9mm)を5段×10列に組み立てた。1930年〔光文5年〕、自動点火式のコンロなど存在しない時代の人々にとってマッチは必需品だったので、箱の入手には苦労しない。引き出しのようになっている中箱それぞれに五十音を書いて目印とし、カタカナとひらがなの両方を集める。ヤ行とワ行の空いた箱には濁音符や句読点などの記号、そして[血][死][蛆][壊]などの特殊漢字を収納する。


 単純作業に耽る彼は、いつしか今日の午前中に起きたことを思い返していた。



 次回に続く


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