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勝てば官軍 【魔術開発物語】  作者: 桜山 風
第十二章 星雲 
102/164

第四話

 新聞の大見出しには、

《二年前の殺人を自白。供述通りの場所から死体あらわる》

 それに続く小見出しには

《行方不明の息子、ついに発見。無言の帰宅に母は涙》とあった。


 記事についてなにか言いたいようだと感じた工藤は、声を潜めて彼の隣の男に問うてみた。


「これは死んだとはっきりわかったから悲しくなったのかね。

 それとも遺体を人里離れた森の冷たい土の下から回収して、

 きちんと先祖代々の墓に収めて供養できるからうれしくなったのかねえ」


「……たぶん、両方でしょう」


 彼は手酌でついだ盃を飲み干し、陰鬱な表情で答えた。


「均分主義にかぶれて、いろいろ不始末をやらかしたガキでも、

 母親にとっては大事な息子だから……」


「親心ってやつは哀れだねえ。お気の毒に」


 言葉では同情して見せるが、工藤の態度はいかにも他人事といった様子だ。彼の関心は、いつも自分の利益にある。


「待てよ。この記事を読めば、

 均分主義の危険性を知った市民が

 俺たちに協力したくなってくれるかもしれねえ。

 考えようによっちゃあ、それも儲けだな。っくくくくく」


 工藤壮助(くどう そうすけ)は警視庁特高課に所属する警部。

 目つきの鋭い男は警視庁捜査一課の警部補、甲斐孝吉(かい こうきち)だ。


 二人とも外回りから直帰という申し分で庁舎から出て、こんな時間に会合している。それは同僚たちの目を避けるためだ。


 工藤は均分主義者を取り調べているうちに、殺人を犯し死体を埋めたと自慢する者がいるとの情報を得た。他の均分主義者たちからも証言を集め、その男を特定し、死体遺棄現場のおおまかな位置もつかんだ。ここまでくれば、犯人逮捕まであと一歩だ。


 しかし、彼はその情報をあえて甲斐に回してやった。警視庁という組織の中で、特高課が受け持つ本来の仕事は危険思想の取り締りだ。殺人は捜査一課の担当となる。


 殺人犯逮捕の手柄を譲る交換条件として、工藤が得たのは捜査一課が持つ情報だ。


 ひとたび事件が起これば、刑事たちは関係者及び現場付近の住民に聞きこみ捜査を行う。だが、それで得られる証言はすべてがその事件にかかわるものではない。証言者が普段から気にはなっているが、わざわざ警察まで出向いて報告するまでもないと思っていたことを、聞きこみのついでに語ることが往々にしてある。その、捜査一課にとっては無駄な情報の中から、工藤は均分主義者の動静を読み取ろうと目論んでいた。


「あんたからもらったものに目を通してみたら、

 思った通りあちこちでうちの案件の臭いがする。

 明日からその一つをつついてみるつもりだ。

 そうしてまたいいネタをつかんだら、例の方法で連絡するよ」


「……頼みます。被害者とその家族のために、

 犯人どもを野放しにせず、必ず逮捕する。それが俺たちの使命。

 同じ警察の部所同士で、面子だの対抗心だの言ってる場合じゃありません」


 警察には、官僚が支配する省庁によくみられるような、組織の縦割りという弊害がある。しかし、現場で働くこの二人は、管理者の作った枠を越えて個人的な同盟を結んだ。


 そもそも[やってはならない]と言われて、[はい、やりません]と引き下がる、素直で正直な人間ばかりで構成された社会なら、警察自体の必要がない。


「これで俺とあんたは、特高課と捜査一課、二倍の情報を手にできる。

 増えた情報を共有利用して検挙数を上げれば、二人とも出世できるってことさ。

 っくくくくく。

 そのうち上にこのことを嗅ぎつけられるかもしれないが、

 実績さえあげておけば、偉いさんも文句は言えねえだろう。

 検挙数が低ければ、そいつが自分よりも偉い人から叱られるんだからな」


「俺は、自分が出世したいからあなたと手を結んだわけではありません」


 あまりに利己的なセリフに甲斐は反発する。しかし、工藤は動じもしない。


「俺たちが出世したら、他のやつもそれにならう。

 このやり方の有効性を認める仲間が増えれば、

 いずれは警視庁や地方警察が改革され、

 情報を一括管理できる仕組みを作れる。

 こんなコソコソせずに警察官同士が堂々と協力して、

 どんどん犯人を検挙できるようになるんだ。

 そうして警察の実力が国民に知れわたれば、

 逮捕されて刑務所にぶちこまれるのを恐れて

 犯行を思いとどまるやつも増えるだろう。

 未然に事件の発生を防げば、

 結果として善良な市民が被害を受けることもなくなるってことさ。

 みんなが安心し、枕を高くして眠ることができる社会。

 いいじゃねえか、なあ?」


「……」


 すらすらと正論を口にする工藤に、甲斐は何も言い返すことができず、ただむっつりした表情で酒を飲むだけにとどめた。


「ところで、わざわざのお呼び出しは、どういうご用件だい?」


「手紙ではまだるっこしい。

 直接会って詳しく聞きたくなったんです。あいつらのことを……」


「ほうほう」


 工藤は自分の感情を漏らさぬよう、静かに相槌を打つ。


「俺は交番勤務から捜査一課に上がって、ここ一筋でやってきました。

 そして、これまで担当した事件でも、

 幸か不幸か均分主義者にかかわることがなかった。

 痴情のもつれや、酒に酔っての暴力沙汰、金に関する恨みなど、

 クソみたいにくだらないが単純でわかりやすい動機の犯罪を扱ってきた。

 だからあいつらについて、警察学校で教わった基本的な知識しかありません。

 そういう俺が、今回の犯人を取り調べたんですが……」


 いらだった様子で、甲斐は自分の頭をかいた。


「なんで、あいつは周囲の者に自分の犯罪を吹聴したんですか?

 普通なら、隠すのに」


「均分主義者たちにとって、

 自分に逆らうもの、異なる意見を持つ者を痛めつけ、

 その命を奪うのは善行なんだよ。

 そして、己の強さを証明する行為でもある。

 だから、みんなに自慢した。

 格下のやつらを脅すって理由もあるな。

 命令に背いたり、

 均分主義活動に疲れたんで足を洗って堅気になりたいなんて気をおこしたら、

 お前も埋めるってな。

 俺はとっ捕まえた均分主義者を改心するよう説得していた。

 ところが、もう少しでそいつが転向しそうだってところで、

 反省文を書いて釈放されたりしたら仲間に殺されると助けを求めてきた。

 俺はその詳しい事情を聞き、あんたに協力を求めたってわけだ」


「なるほど。暴力団のような思考で行動しているのですか……

 だが、それだけではない。

 捜査四課にいる警察学校の同期から聞いた話と、今回の犯人は違います」


「ほう」


 工藤は重要な情報を得たが、その喜びを顔色には表さず、さりげなく相槌を打つにとどめる。甲斐の知り合いが誰か知りたいが、今はそれについて問う時期ではない。話の腰を折らずに甲斐の言葉に耳を傾けてやることで、彼の心をつかむことを工藤は優先した。


「俺たちは、あいつが下宿で会合を開いているところを包囲しガサ入れしました。

 巡査に飛びかかって

 あいつの逃亡を幇助ほうじょしようとした仲間も

 一緒に取り押さえました。

 その時あいつは仲間に

 『こうなっても俺はあきらめない。完全黙秘して抵抗する!』

 と粋がっていました。

 だが、口裏を合わせないように

 仲間とは別の署にあいつを移送し留置手続きを済ませ、

 あらためて取り調べたら5分もたたないうちにベラベラと供述を始めました。

 断っておきますが、俺は暴力をふるうどころか、大声で威圧さえしなかった。

 はっきり言って、

 あなたに情報をもらう以前に俺が自力で逮捕し取り調べた

 連続質屋強盗殺人被疑者のほうが強固に自白を拒んでいた。

 あれだけ逮捕時に抵抗した、そもそもが思想犯であった男なら、

 普通の殺人犯以上に根性がわっているかと覚悟していたのに……

 実に拍子抜けしました」


「ああ、均分主義者にもいろんな種類がいるが、

 そいつは[お利巧ちゃん]だな。

 同類とつるんでいるときは強気だが、

 そのお仲間と切り離されて取調官と一対一になると徐々に態度が軟化して、

 しまいにはこっちが求めることを察して

 都合の良い供述をしてくれるというアレだ」


「なんですか、それは。わけがわからん」


 さらに頭をかきむしる甲斐に、工藤は己の知ることを説明してやる。


「まあ、要するに、偉いさんの言うことを素直に聞く[良い子]ってことさな」


「それなら、なんで国家に反逆を企てるんだよ」


「お進歩的なインテリゲンチャんさんたちは、

 カビの生えた古来の伝統より、

 海外からやってきた革新思想がありがたいんだろうよ。

 だから歴史の最先端をいくと有識者さまが絶賛している、

 ソユーズ連邦の真似っこがしたくて均分をやっているのさ。

 だけども、その同類がいない取調室の中で一番偉いのは、刑事。

 だからお前さんに気に入られようとして、ありたけ白状したわけだ。

 [ぼくはいいこですよ。ほめてください]とばかりに」


「情けない」


 酔いが回ったのか、甲斐は階級差と敬語を忘れがちになったが、工藤は咎めなかった。むしろ相手が心を許してきた兆候だと捉え、歓迎している。


「そいつらを筆頭に、別種類のろくでもない奴らも加わって、

 仲間内の誰が一番、

 旧守的な大日本帝国に打撃を与えられるかっていう競争をしているんだ。

 こりゃあ、お上も取り締まらずにはおかれようかってものさ。

 おかげで特高は商売繁盛で笹もってこい、だぜ。っくくくくく」


「己の欲望や身勝手な感情を制御できずに他人の命を奪う……

 そんな普通の殺人者もひどいけれど、均分主義者も大概だ」


 嫌な気分を振り捨てるように、甲斐は酒を飲む。


「それだけじゃねえ。たちの悪いことに、

 均分主義者たちに係わった者は二次被害を受けるんだ」


「いったいどうして」


「それはな……」


 こうして、工藤が特高と志を同じくする仲間を捜査一課内に作っているその時、礼文は本を床に叩きつけていた。



   ◆◆◆◆◆◆



 10月16日は礼文にとって不愉快な一日だった。

 それは、彼の事務所に神代細胞を届けにきた瀬野に文句を言われたことから始まる。



 裏庭での鍛錬の後、富鳥家の離れに運ばれてきた朝食を礼文は食べる。主食は米。それに味噌汁や卵焼きなどのオカズが添えられた和式の献立だ。これに限らず、配膳される毎食の献立は義知の嗜好に応えたもので、使用人である礼文の好みが反映されることはない。しかしダイニングのテーブルに置かれた義知の分は手付かずのままだ。夜更かし好きな義知は、朝食を抜くことが多い。


 やがて時間までギリギリ朝寝を決めこんでいた義知が目覚まし時計のベルでベッドから抜け出し、適当に身支度を終えて二階から降りてくる。礼文は朝の挨拶をして、彼をT型乗用車に乗せて独楽米の自宅から本郷の帝都帝大まで送る。それから礼文は銀座の事務所に出勤した。


 義知は一応登校をする。しかし特定のテーマを担当していないため、研究室ではとくにやることがない。

 彼に求められるのは、他の院生や教授が読みたい外国語論文の翻訳くらい。原稿を受け取ると、義知は研究室から出て大学の図書館などで和訳を行う。あまりに彼が不器用なので、仲間の実験を邪魔させないために追い出されるのだ。


(オレは便利な翻訳機械としてしかあつかわれていない。

 まったく研究者として期待されていないのなら、

 いっそのこと大学院をやめてしまおう)


 義知はたまにそう考えることもある。しかし、すぐに思いとどまる。義務としての登校があるからこそ、[放課後]が充実した楽しい時間になるからだ。帝大院生という肩書を捨てて無職になるのは、彼の自尊心が許さなかった。


 本郷近くのカフェーで軽く飲み、それから浅草の映画館に寄ったり寄席に入ったりして楽しく過ごす。時間を気にせず遊ぶために、礼文の操縦する車を待たせておくのではなく、好きな時間に円タクをひろって帰宅するのが義知の日常だ。


 礼文を連れて遊ぶことはない。自分より男前な従者をいいように使うのは楽しいが、カフェーの女給仕人に自分を差し置いてチヤホヤされるところを見せつけられるのは嫌だからだ。


 とはいえ、若いころは深更まで遊んでいたが、35歳を過ぎたこの頃では、午後8時くらいになると疲れを覚えるようになった。


 10月16日も、11時ごろに義知は図書館で辞書を開いていた。ちょうどそのころ、礼文の事務所には瀬野が訪れた。



「おや?」


 彼女の表情は先週クッキーを渡したときとは違う。まるで仮面を貼りつけたような愛想笑いだ。


「どうかしたのかね」


「……べつに。それより、あの件を実行してくれてありがとう。

 おかげでうまくいったわ」


 そのままの表情で彼女は、平静な様子で彼に礼を述べた。今回の実験が本来より早めに行われたのは、彼女が礼文に頼んだからだ。瀬野は翡翠と口論になったので気まずくなり、その弱みを音矢に突かれることを恐れた。それで定期監査がある水曜日より前に実験を行い、暴走患者の始末というどさくさにまぎれて翡翠と仲直りしようと目論んだのだ。それに成功したのは礼文の骨折りがあってのことと、瀬野は丁寧に頭をさげた。


「そうか。よかったな」


 貴族の生まれである礼文は、鷹揚おうように答える。


 瀬野は深呼吸をしてから、頭をあげた。その顔からは、愛想笑いが消えている。


「……?」


 とまどう礼文の前で、彼女は愛用の大きな革バッグから神代細胞を小分けにして詰めた瓶と、暴走患者の耳につけられていた飾り石を取り出す。ここまではいつもと同じだ。しかし、今回はそれ以外の物も彼女は持参した。


 二人の間にあるテーブルの上に瓶と紙に包まれた飾り石を乗せ、そのかたわらに瀬野は帝都道路地図を広げる。それは音矢が[萬文芸]の読者交流欄に掲載された住所へ印をつけておいたものだ。印の横には、音矢と翡翠が住む貸家から自動車で向かった場合の到着予想時間が記入されている。


「礼文さんが、あらかじめこういう地図を作っておいたなら、

 現場への到着時間くらい割り出せたんでしょうけれども」


 憤懣ふんまんやるかたないといった様子で、瀬野はテーブルを叩く。


「以前、音矢が作った地図のことを私は教えたでしょう。

 報告書にも書いて渡した。

 そして、礼文さん自身でも

 『距離と車の平均時速から所要時間を割り出せるなんて大したものだ』

 みたいなことを言っていたわね。

 だから、知らないとか、忘れたとか、思いつかなかったなんて言わせないわよ」


「私も言うつもりはないがね」


 礼文が開き直る態度を見て、瀬野はさらに怒りを募らせた。


「その程度のことをしてくれないから、

 現場へ行くまでにすごく時間がかかるところに住んでいる人を

 実験台にしてしまうのよ。

 おかげで時間がかかって、暴走の末期になってしまったわ。

 もう少しで手遅れになって、帝都滅亡の危機だったのよ!」


「だが、音矢くんとやらの活躍で暴走患者は倒され、

 よって帝都の安寧は保たれた。めでたしめでたしだな。それでいいではないか」


「よくないわよ!」


 10月13日に神代細胞の投与を行い、次の日に毎度のごとく暴走した。それを音矢たちは始末に行ったのだが、患者のいる場所が遠く、そのうえ道路事情が悪くひどく遠回りを強いられた。到着が遅れたため暴走は末期に達し、あと少しで神代細胞がバラバラになって逃げだすところまで行った。瀬野はそれを責めている。


辺鄙へんぴな場所を選んだから、周りにほとんど人家がない。

 だから、感染が広がる危険はないだろう」


「へえ、そうなの。

 でも、地図を見ればわかるけど、あそこらへんの家どうしの間隔は

 どれも約700メートルくらい。

 そして暴走患者は普通の人間の倍近い運動能力があるらしいわね。

 で、陸上でいう800メートル競走の記録は約2分。

 つまり患者ならたったの1分以下でその距離を駆け抜けるわ。

 近所にある小作人さんの一家を襲い、

 その人たちがまた隣の家を襲っていったら、いくら音矢でもお手上げよ。

 あいつの体は一つしかないんだから。それを理解してって言ってるの!」


「ああ、理解したとも」


「…………」


 いくら言っても礼文が失敗を認め、謝罪するようすはない。そう判断した瀬野は、自分の革バッグを手にし、立ち上がる。


「これで失礼するわ。見送りは結構よ」


「そうか、ご苦労様」


 椅子に座ったまま、礼文は挨拶した。


 ドアを自分で開けて、瀬野は振り返る。


「来週には音矢が詳しい報告書を提出する。

 当然、私はそのまま入谷先生に渡すわ。

 それを読んだら、先生はあなたの雇い主に何か言いたくなるかもしれない」


「!」


 礼文は痛いところを突かれ、おもわず絶句する。


「おあいにくさまだけど、

 私には上司である先生の行動を制止できるはずもないわ。 

 自分に与えられた職務を

 忠実に遂行することしかできないのよ」

 

「ああ、確かにその通りだろうな」


 苦々し気に答える礼文を見て、瀬野の唇に笑みが浮かんだ。


「もちろん火曜日のことは、

 私からすでに先生に口頭でおおよそのことを報告ずみ。

 だって、『今回はどうだった』って聞かれたら

 正直に答えなければならないもの。

 もしも礼文さんをかばって到着時間の件で嘘をついたら、

 来週の報告書でそれがバレて私の立場が悪くなるしね。

 だから告げ口はしたくないけれど、しかたなかったのよ。ごめんなさいね」


「きさま!」


 礼文が杖を頼りに立ち上がったときには、すでにドアは閉まっていた。廊下を歩く軽やかな足音は遠ざかっていく。


「……ふん」


 ふてくされた様子で、礼文は再び腰を下ろす。


「だが、あれから2日たつのに、

 バカ親子は今朝まで普段と変わった態度は見せない。

 つまり、入谷はわざわざ私の不手際を

 あいつらに知らせはしなかったということだ。

 もしくは、バカ親子がそれを聞かされても

 特に問題にしなかったということだろう。

 ならば私が不安を感じる理由はない」


 そうつぶやき、礼文は自分自身をなだめる。

 しかし、それは早計だった。瀬野は音矢からチェリー・ピッキングを学んでいたのだ。


 入谷弁護士が月曜から体調不良で休んでいて、本日やっと事務所に出勤したこと、今日になって初めて彼女の報告を聞いたことを彼女は礼文に教えなかった。


 そして、礼文に神代細胞を届けるため彼女が弁護士事務所を出るとき、入谷が怒りに顔を赤く染めて受話器を握りしめ、電話の向こうにいる誰かに『富鳥義光さま』の呼び出しを頼んでいたことも、同じく彼に告げていない。


 そんなこととはつゆ知らず、礼文は伸びをする。


「さてと、そろそろ休憩にしよう」


 礼文は外の定食屋で、自分が望む献立の昼食をとった。つまり西洋料理だ。その帰りに寄り道をして、伊吹俊樹から教えられた二冊の本を探し、購入する。


 その夜、片方の本を床に叩きつけることになると、この時点で彼は考えもしなかった。



  次回に続く。



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