第一話
――これは昔々の物語。
――異世界で勇敢な青年が混沌と戦う物語――
新田音矢は、何かが枕元にいると感じた。
彼は布団の中、仰向けに寝ている。
心臓は止まっていないし呼吸はできるが、それ以外のいっさいが動かない。
(……金縛りというヤツかな)
まぶたも開かないのに、なぜか枕元にいるものの姿はわかる。
大きさは人間くらい。
だが、手足はない。
目も鼻も耳も口もない。
そんな半透明の固まりが畳の上にうずくまっている。
しかし、ただそれだけだ。
とくに危害をくわえてくる気配はない。
そう判断すると、音矢は心の中で羊を数え始めた。
再び眠るためだ。
(明日も仕事があるし、眠って体力を回復しないと……)
数えながら音矢は考える。
(……こいつは何なんだろう)
(きっと、この貸家に憑いたオバケだな)
(幽霊じゃない)
(だって僕が殺したのは三人)
(数があわないよ)
◆◆◆◆◆◆
朝のピアノレッスンを終えて、呉羽は一階に降りた。
鍵盤をたたき続けて演奏するのは、優雅にみえて、実は重労働だ。全身が汗にまみれ気持ち悪い。風呂場に行き、昨夜の残り湯で汗を流す。叩き続けて痛くなった指先を水で冷やす。
呉羽がそうしている間、彼女の母はソファーにねころがって婦人雑誌を読んでいた。
◆◆◆◆◆◆
音矢は鴨居にハタキをかけている。彼は眼鏡をかけていないので、ほこりが入らないように、目を細めている。
これと言って目立たない顔立ちで、しいて彼の特徴をあげるとすれば、濃くて真っ直ぐな眉ぐらいだろう。その特徴があったとしても、人ごみに紛れてしまえばすぐに見失うほどの個性でしかない。
服装は短髪に絣の着物と袴、スタンドカラーシャツという典型的な書生姿だ。
彼は1912年〔明治45年〕6月生まれ。崩御によって元号が切り替わったのがその年の7月だから、最後の明治生まれと言える。そして大正の15年を経て、1930年〔光文5年〕5月の今は17歳になる。
注〈この世界では〔昭和〕ではなく〔光文〕が元号として採用された〉
彼の背丈は高くもなく低くもない平均値。ただし日々の労働で体は引き締まっていた。
茶の間においてあるラジオからはニュース放送が聞こえる。帝都の風俗について有識者が語っていた。
《世界大戦後、軍縮傾向にある今日では、
男子の軟弱たることが目を覆わんばかりである。
その最たるものが耳飾りの流行だ。
一部の西洋カブレから始まったこの風潮は、
ブルヂョアにとどまらず、
書生や工員などの労働者階級にまで蔓延している。
日々、自身の向上につとめ、質素に身を慎む。
これが日本男子の本来たるものであり、
わざわざ耳たぶに穴をあけ、
飾り石をはめるなど言語道断もはなはだしい》
音矢は苦笑して、自分の耳をさわる。
そこには緑色の小さな石があった。
(これだと、僕も軟弱者って見られてしまうのかな)
この石はただの飾りではない。
彼の身体に移植された特殊細胞を制御するためのものだ。
それは沖縄付近の無人島で発見された。研究にたずさわる者は特殊細胞のことを神代細胞と呼んでいる。
◆◆◆◆◆◆
世界大戦終結後、経済恐慌が訪れた。そのあおりをくらって失業した音矢は、高額な報酬を提示してきた、ある研究機関の実験台となった。
本土で音矢が勧誘されたときは、新開発の栄養剤を臨床試験すると説明された。
しかし、実際に、孤島にある施設で聞かされた実験内容は全く異なっていた。音矢を含む4人が受けるのは、古代遺跡から発掘された神代細胞の人体適合試験だったのだ。
音矢が受けた説明の内容は次の通り。
《神代細胞は研究の過程で二種類にわかれた。
翡翠細胞と、水晶細胞。
便宜上、そう呼び分けられている。
ただし、実用化が求められているのは
肉体の強化と損傷の回復をもたらす水晶細胞だけだ。
翡翠細胞はあまり役にたたないと組織の上層部は評価している。
人体に投与された水晶細胞は、
赤血球ほどの大きさとなり、全身の血管をめぐる。
そして頭部に達したとき、一部が脳細胞に同化し、
人体の意識を通じて
空間に蓄えられたエーテルエネルギーをこの世にもたらす。
そのエネルギーを活用して、
水晶細胞は増殖し、宿主の肉体を強化し補修する。
それを利用し、研究機関の背後にいる軍部は、
不死身の兵士を作ろうとしている》
集められた4人の被験者のうち、3人は水晶細胞を投与された。
しかし現場にいた研究者の独断で、音矢にだけはもう片方の翡翠細胞が投与された。
それが幸いしたのか、音矢は細胞に適合できた。
しかし、他の被験者たちには、副作用が現れた。
彼らは脳を極度に神代細胞に浸食されて狂暴化した。そして増殖しすぎた水晶細胞は肉体を変形させた。
神代細胞の増殖を制御する方法はまだ確立されていない。
それを見つけるのが、この実験の目的だったのだ。
実験の失敗により、醜い姿となった3人は絶望し、激怒した。そして脳を浸食され、狂暴化した彼らに、理性の歯止めはない。
彼らの怒りは正常な姿を保っている音矢と、神代細胞を投与した研究者に向かう。
彼らはエーテルエネルギーを使った怪力をふるって音矢と研究者を殺そうとした。
音矢は、自分自身と、神代細胞の研究者を守るために彼らの脳を破壊し、殺人者となった。
結果を見分に来た研究機関の連絡係は、この実験を継続するために、音矢を書生として雇うことを希望し、音矢はそれにしたがった。
長男である彼は実家の母と弟を養わなければならない。提示された俸給はそれに充分たりるものだったからだ。
◆◆◆◆◆◆
呉羽の寝床はグランドピアノの下だ。たいして広いわけではない部屋のほとんどをピアノが占領しているので、そこしか空いていない。
だから、ほとんどの時間を、呉羽はピアノ用の小さな椅子に座って過ごす。
二階にある彼女の部屋には湿気がこもっている。
窓を塗り込められているからだ。
本来、グランドピアノとは大きなホールで演奏するものだ。それを住宅街で四六時中打ち鳴らせば、近隣から騒音の苦情がくるのも必然。
呉羽の母は、二階の一部屋を防音室に改造することで苦情に対処した。
その請求書を呉羽は見せられた。ぞっとするほどの大金だった。
(母さんは、これだけ私に投資してくれているんだもの)
(がんばらなくちゃ)
感謝するべきだと、呉羽は思う。しかし、連日の酷使で、腕だけではなく彼女の全身と心が悲鳴をあげていた。
(……わたしの体はピアノに向いていないって
先生に言われた)
呉羽は自分の手のひらを見る。それは母に似た、小さな手だ。
窓のない部屋で昼から白熱電球を灯し、呉羽は[真世界への道]と表題がある小冊子を取り、読みふける。そして、小さな紫色の飾り石がはめられた耳たぶをさする。
(水晶様、どうかわたしの望みをかなえてください)
(そして、もし、わたしが魔術師になれたら、
この身を[真世界への道]に捧げます)
(だから、わたしを選んでください)
(そのために、わたしの真の望みを啓示してください)
涙を流しながら、彼女は祈り続けた。
◆◆◆◆◆◆
孤島から本土に移送されてから、今日で1週間めになる。音矢はなんとか、この奇妙な状況に適応し始めていた。
研究者と彼に与えられた家は散らかっていたので、音矢はとりあえず大掃除と荷物の整理に取り組んだ。しかし昨日でそれは終わった。だから、今日は普通の家事労働で事足りる。
音矢が簡単な掃除を終えたころ、研究機関との連絡係である瀬野が生活必需品と雑費の現金を持って彼らの住んでいる貸家を訪れた。
それは甲武鉄道の駅から2.5キロほど離れた一軒家だ。
彼女は雑木林の中にポツンとたっているボロ屋の前にT型乗用車をとめ、警笛を鳴らす。
すぐに音矢が迎えにでた。
「どうもお疲れ様です」
挨拶をする彼の声は、よく通る滑舌のいい発音だ。
音矢は車の後部扉を開け、座席に積まれた箱を持ち上げて玄関へ運ぶ。中身は米や味噌などだ。
「ありがとう」
艶やかな髪を流行りの型に結い上げた若い女が、かろやかに車から降りた。
西洋の女優のような長い脚は、その洋装にふさわしい。
なにも先入観をもたなければ、瀬野は銀座や丸の内を闊歩するモダンな職業婦人としか見えないだろう。
そのような彼女がなぜ、あやしげな研究機関で後ろ暗い仕事に携わっているのか。
音矢は不思議に思っているが、彼女は機密事項だと言って答えてくれない。
さらに追及しても、
『神代細胞の研究者に比べれば常識の範囲内でしょう』、
などといってはぐらかされる。
彼が箱を上がり框に積んでいると、中廊下の奥にある書斎のドアが開いて、研究者が現れた。
華奢で小柄な姿。肩口までの赤みを帯びた髪。
屋内にいるにも関わらず、彼は水兵帽を目深にかぶっている。
服装は、帽子に合わせた水兵襟の黒いシャツとズボンだ。
ぱたぱたと軽い足音をたてて彼は三和土におりた。
外からの光を受け、一瞬間、彼の瞳が若草色に輝く。
「状況はどうなった」
無愛想な口調にそぐわぬ高い声だ。たぶん変声期をまだ迎えていないのだろう。
音矢は瀬野から、研究者は12歳だと説明された。しかし英才教育を施されているので、問題はないとも。
「水晶と礼文の行方はわかったのか」
自分より背の高い瀬野に向かって懸命に大人ぶって威厳をみせようとしている、と、音矢には思えた。
しかし、まったくそのような効果はなく、ただかわいらしいだけだ。
「こんなところで報告はできない。茶の間でおちついてするわ」
「そうか」
回れ右をして歩き出そうとする研究者に、音矢は声をかけた。
「翡翠さん、汚れた足で廊下にあがらないでください」
彼はふしぎそうな顔をして振り返った。
自分が裸足で玄関におりたということをまったく意識していなかったようだ。
これまで世間から隔離されていた翡翠は、かなり一般常識に欠けている。
そう、孤島の実験所で生まれ、隔離されながら特殊な教育をうけて育った研究者。
しかも、自らの身体に古代遺跡から発見された特殊細胞を宿す研究者。
確かに常識外れの存在だ。
◆◆◆◆◆◆
ちゃぶ台をはさんで瀬野と翡翠は向かい合う。
「水晶は?」
「まったく目撃情報なし。
翡翠くんと同じように人目を引く外見で、
あなたよりも行動に異常があるのにもかかわらずよ。
きっと、礼文が囲い込んで、
見つからないようにしているんでしょうね」
水晶とは、翡翠の双子の兄だ。
やはり古代遺跡から発掘された神代細胞を体に宿している。
彼ら兄弟は孤島の研究施設で生まれ、育った。
三浦半島にある小さな漁村の港から、半日も航行すれば着く小島だ。そこは客船や貨物船の航路からは外れているし、魚がよりつく岩礁も付近にないのでふだんは漁船も来ない。
音矢も孤島の研究施設で細胞の投与を受けた。
「礼文らしき男が帝都で
あちこちの不動産屋を訪れていることは確認できているわ。
でも正式に契約したところはまだみつかっていないの」
礼文という男が水晶を連れて孤島の研究施設から脱走した。彼は他国の軍事探偵であり、神代細胞を悪用して帝都の破壊活動をもくろんでいる。と、音矢は説明された。
まるで空想活劇小説のように非現実的な話だと彼は思っているが、実際に神代細胞の効果を目の当たりにしたからには夢物語と片づけるわけにはいかない。
しかし、
「そうか……なんとか早く探し出してくれ」
世間知らずの翡翠はすっかり信じているようだ。
「ところで、研究は進んだ?」
「ああ。音矢くん頼む」
翡翠は部屋のすみに控えていた音矢に声をかけた。
「はい、ただいま片づけますので、ちょっとお待ちください」
音矢は二人分の茶をのせたちゃぶ台を廊下に出した。
広くなった茶の間の真ん中に立つと、彼は片手を耳の飾り石にあてその場で軽く跳ねる。
その瞬間、彼の全身が緑色の光を帯びた。
光は体表5センチほどで凝縮し、膜となって彼の身体をつつむ。
翡翠から移植された神代細胞が形成するバリアーだ。
研究機関ではこれを空間界面と呼んでいる。
瀬野は、彼女が常に携えている大きなバッグから、ナイフを取り出した。
鞘をはらい、流れるような動作で音矢に切りつける。
しかし鋭い刃は彼に届かない。
空間界面がやわらかくナイフを受け止めているからだ。
「これまで通りね」
「いや、違う。音矢くんアレを」
音矢は両手をそろえて上げた。
手先は空間界面につつまれて団子のようになっている。
何も持てないそれを見て瀬野は肩をすくめた。
その前で、音矢は手と手を合わせてからそっと離した。
融合した光る膜が伸びてヒモ状になった。
「あら、面白い」
ナイフを突きつけたまま瀬野は微笑む。その手首に音矢はヒモを巻きつけた。
そのまま身をかがめ彼女の背後に動く。
彼が細い腕をねじあげようとしたその時、瀬野は飛んだ。
みごとにトンボを切って、後に回った音矢の背に膝を落とし、いきおいに乗って畳の上に押し倒す。
その体勢でヒモが巻かれた手首を高くかかげると、音矢の両手もあがり、彼の肩関節は逆に極められた。
「こ、降参!」
たまらず、音矢は空間界面を解除した。
バリアーに支えられて5センチ浮いていた彼の身体は、ぱたりと音をたてて畳に落ちる。ヒモも消えたので両手は自由になったが、瀬野が背中に正座しているので動けない。
「どいてくださいよお」
「はいはい」
スカートの裾をはらって、瀬野は畳に足をおろした。
「情けないわね。そんなことじゃあ、礼文のさしむけてくる信者に勝てないわよ」
「努力はしているんですが……」
礼文が予告した破壊活動。
それは水晶を教祖とした宗教団体の信者を神代細胞に感染させ、彼らの怪力と狂気で帝都を恐怖に陥れるというものだ。防ぎたければ翡翠も神代細胞を使って対抗しろとの挑戦状も添えてあったそうだ。まだ神代細胞の研究は安全性が確立されていないのに、実験を強行したのはそのためだと、音矢は説明された。
「せっかく改良したのになあ」
音矢は肩を落としてため息をつく。
「まあ、物を持つことができるようになったのは
たいへんな進歩といいっていいんじゃあない?
もともとはただ物理的な力を受け流すだけで、
何も持てないダルマさんみたいな状態だったんだから」
空間界面の欠点はそれだけではない。刃物や銃弾を跳ねかえせるのはいいが、同時に空気も遮断するために長時間発動させていることができないのだ。
内部の酸素を使い尽くすまで、およそ3分。
それを過ぎれば窒息する。
「ずっと足踏み状態だったのに、なんでいきなり進んだの?」
「音矢くんのおかげだ。
あの絵を描いてもらったから、
ボクも自分の細胞に的確なイメージをあたえることができたんだ」
「絵?」
「見せてあげてくれ」
「はい」
音矢は台所脇にある自分の部屋からスケッチブックを持ってきた。
パラパラとめくって目的のページをひらく。
それは色鉛筆で描かれた絵だった。
黒い人物の周囲を緑色の膜がつつみ、その両手を線が繋いでいる。
「こんなふうになっていたら使いやすいと、
ボクの目の前で絵に描いて説明してくれたんだ。
音矢くんは自分の頭の中にある想像を、
他の人でも見えるように
具体的な形であらわすことができる。
これは驚異的な能力だとボクは思う」
「いや、そんなにおおげさなことじゃ……あはは」
手放しにほめられて、音矢は照れくさくなった。
「そこそこ上手いけど、所詮は素人の手慰みよね。
銀座の画廊で売れるレベルじゃない」
瀬野は冷静に評価をくだす。
「ボクの言いたいのは、そういうことではない。
白い紙に線を引くだけで、
その中に別の世界ができていく。
まるで、絵本のおとぎ話に出てくる魔術のようだ」
孤島で隔離されていた翡翠は、すでに完成した品しか見たことがなかった。絵を描きあげる過程を最初から最後まで見たのは、音矢によるものが初めてだった。
「とにかく、研究を進める手がかりがつかめたのは良いことよ。
これからもがんばってね」
「ああ」
「はい」
返事をする二人にうなずくと、瀬野はナイフをしまい、かわりに別のものをバッグからとりだした。
「ペンギン人形?」
それは金属の輪に細い鎖でつながれている。
「キーホルダーですよ。丸いところに鍵をつけて無くさないようにするんです。人形は飾りですよ」
翡翠に音矢は説明してやった。
「それだけじゃないわ。特別な仕掛けがあるの」
掌に乗るくらいの丸くデフォルメされたペンギン。そのクチバシを瀬野は爪で押した。同時に輪を引くと、鎖は彼女が両手をひろげたくらいの長さに伸びた。
「使い方を教えてあげる。音矢くん、立ってみて」
「はあ……」
おびえた様子でいわれたとおりにした彼の、首横をペンギンがかすめた。
一瞬で間合いをつめて後にまわった瀬野は、まきついた鎖を引き音矢を背負った。鎖で首をつられた音矢は指を入れてはずそうともがくが、自らの体重がかかって食い込んだ鎖はびくともしない。
はずすことをあきらめた音矢は、耳に手をやり空間界面を発動させようとした。しかし緑の膜は瀬野の体にぶつかり、はじけて消えた。彼の空間界面は発動直後には極めてもろいため、跳ねるなどして体が宙に浮いている間に形成させるしかない。
「やめろ!」
翡翠が叫ぶ。
それを待っていたかのように、瀬野は鎖から手を放した。
彼女の背から滑り落ちた音矢は畳の上に尻もちをついた。
激しく咳き込む彼を見下ろして、瀬野は言った。
「使い方、覚えた?」
音矢はうなずく。
「それはあげるわ。武器はすこしでも多いほうがいいでしょう」
「……どうも……ありがとうございます」
かすれた声で音矢は答えた。
その他の用を済ませて、瀬野は帰った。
◆◆◆◆◆◆
「さてと、練習しなくっちゃ」
ちゃぶ台をかたづけて、音矢はホウキを持ってきた。
「僕の部屋は狭いので、ここでやっていいですか?」
「ああ」
音矢はホウキを逆さにして、柄を一升瓶に差し込んで立てる。
懐から例のキーホルダーをだし、鎖を伸ばした。
「いよっと」
ペンギンは弧を描いて飛び、ホウキにまきついた。それを受け止めようとしたが、
「あ、痛て」
うまくいかず、指先にぶつけてしまった。
それを見ていた翡翠がつぶやいた。
「瀬野さんは、なんで君をいじめるんだろう」
「いや、違いますよ、それは」
ホウキに絡んだ鎖をほどき、音矢は翡翠のほうを向く。
「近いうちに神代細胞をもらった信者があばれて、
僕はそれをやっつけなければいけないんですから。
ちょっとでも強くなっておかないと。
瀬野さんには、
厳しく鍛えてもらえてありがたいぐらいですよ。あはは。
能力を向上させるためには、
ちっとぐらいの苦労や痛みは我慢しなければね。
贅沢はいえませんよ」
「…………そうか」
隅に置いてあったスケッチブックを翡翠は手にとる。
「見てもいいか?
君の絵を見るとボクは楽しい気分になるんだ」
「え、まあ……お好きにどうぞ。
たいしたものじゃあないですけど」
「とくに、これだ」
翡翠が開いたページには、3人の男が満開の桜の下で酒盛りをしている絵が描いてある。モデルになったのは孤島の実験で命を落とした者たちだ。
「しかし、あの島には桜は生えていない。
それに彼らはだまされて連れてこられてたことを怒っていて、
屋外で、こんな楽しそうにしていられる時間などなかった。
君はなぜ、実際には存在しなかった光景を描いたんだ?」
「あの状況じゃあ、坊さんもよべないし、お経もなしで、
みんなはただ土に埋めただけ。
目印として石を積んだけど、
それには戒名どころか、削る道具もないので
1人1人の名前すら刻めなかったし。
まあ、僕なりのお弔いをしてあげたんですよ」
「弔いとはなんだ?」
(それすら知らなかったのか)
内心あきれながら、音矢は弔いについておおまかに説明した。
「人間は死を恐れ、死によって存在が消えることを嫌がる。
だから、幸せな死後の世界があればいいと望み、
そこに死者が行くことを願い、儀式を行う……
そういうことか」
翡翠はつぶやいた。
「君も死ぬのは嫌か」
「そりゃあそうですよ。
まだたいして長くも生きていないし、
やりたいこともたくさんありますしね」
「そうだ。ボクもやりたいことがたくさんある。
死にたくない。
人は、そういうものだと、瀬野さんからも聞いた」
音矢から翡翠は目をそらした。
「だが、ボクは君を実験台にした。
結果として、
音矢くんが死ぬかもしれないと危惧していたが
それでも行った」
彼は膝をかかえ、うつむく。
(罪の自覚はあったのか)
そんな翡翠を見て、音矢は少しかわいそうにおもう。
「大丈夫、金につられたとはいえ、
最終的に実験台になると決めたのは僕自身です。
覚悟はできてますよ」
慰めるために、音矢はできる限り明るい笑顔をつくってみせた。
「あんまり気負わないでください。
翡翠さんはまだ子供なんですし」
「ボクは子供じゃない」
反射的に答えてから、翡翠は口を押えた。
「どうしました?」
硬直する彼に、音矢は手をさしのべる。
「ボクは……」
しかし、翡翠は彼の手をさけるように後ずさりしようとして、バランスを崩す。
「わあっ」
畳の上に倒れた拍子に、水兵帽が落ちた。彼の額があらわになる。
そこには、一本の緑色をした小さな角が突き出していた。
これは翡翠の体にある神代細胞が本来の脳容積を越えて増殖し、露出したものだ。
孤島ですでに目撃しているので、音矢は驚かない。
しかし、翡翠は自分の姿を恥じるかのように、ぎこちない動作で帽子を拾ってかぶりなおした。
そのまま音矢と目を合わせようとせず、翡翠は書斎に逃げこむ。
◆◆◆◆◆◆
孤島に隔離され、研究主任である父をふくめ、中年男ばかりの研究者にとりまかれて翡翠は成長した。
兄弟である水晶は、彼と同じように異形の存在だ。
彼らとは対照的に、島の外から連れてこられた音矢は正常に発育をした男。
翡翠が初めて見る、若く健康な男だった。
しかも、音矢は翡翠がまったく知らずにいた技術の持ち主だった。
彼は岩場で貝を獲り、食べられる草をみつけ、干し飯と一緒に鍋に入れて雑炊をつくった。それは翡翠が初めてうまいと思った食事だ。
彼はただのロープをいろいろな形に結び、研究所に残っていた物資と組み合わせて罠をつくり、神代細胞に支配されて狂暴化した患者を仕留めた。それは非力で不器用な翡翠にはとてもできないことだ。
翡翠にとって、音矢はまさに
[異世界から来た勇者]であり、
[奇跡を起こす魔術師]そのものだった。
だから、彼にあこがれ、彼のようになることを望んでいる。
しかし、翡翠の現状は理想とは程遠く、それゆえに音矢に対して彼は複雑な感情を抱いていた。彼はその感情を自分の中でまだ整理できないでいる。
◆◆◆◆◆◆
「よい」
で、ペンギンを投げ。
「こら」
で、ホウキを巻いて戻ってきたところをつかみ、
同時に足を踏み込み。
「しょ」
で、鎖を引きながら上体を前に倒す。
あれから3日、音矢は家事の合間にせっせと練習した。おかげで、瀬野に教わった技は上達してきた。
疲れてきたので練習を止め、音矢は畳に腰を下ろし、傍らの柱によりかかって休む。
その姿勢で音矢は口笛を吹く。気が緩んでいるときの癖だ。吹く曲は特にさだまっていないが、
[抜刀隊]を奏でることが多い。少し古い軍歌だが、音矢はこの曲が好きだった。
口笛をふきながら、彼は翡翠のことを考える。
あれ以来、翡翠は音矢と口をきこうとしない。
食事など必要なことがあるときだけ、最低限でてくるが、それ以外の時間は書斎に籠城している。
(子供扱いされて、すねて閉じこもるなんて)
(それこそが子供の証明じゃないか)
しかし、このままでは身体に悪い。
(なんとかして誘い出したいな。
そのために、おいしいものでも使おうか)
雑木林を抜けて2.5キロほど歩けば駅前商店街がある。
(ひとっ走り行って豆大福でも買ってこよう)
(いや、今どきの子供は洋菓子のほうが好きかな)
音矢が釣り餌について思案しているとき、突然書斎の扉があいた。
「光が観えた。水晶細胞が活性化した証拠だ。
早く瀬野さんに連絡を!」
翡翠の脳に混ざっている神代細胞によって、彼は別の体に投与された細胞が発するエーテルエネルギーを感知することができるのだ。
(すねていたことをあやまりもしないのか)
音矢の前で、翡翠はただ目先の問題に集中している。
(まったく子供だな)
連絡といっても彼らの貸家に電話は引かれていない。
音矢は懐から、瀬野にもらった乾電池式小型電波送受信機を取り出した。
印籠ほどの大きさで、それについているボタンを押すと瀬野が持っているほうの機械が振動し、急を知らせるしくみだ。
次回に続く