朝の家出
ババは始め、私の手札の中にあった。彼女が一度ババを引いたが、その後すぐに私が引き返した。やがてお互いの手札は減っていき、彼女の手に一枚、私の手にババを含めて二枚残った。ダイヤの5と赤色のジョーカー。貼り付けたような笑顔のピエロが踊りながら私を睨んでいた。この順目でババが残れば、このババ抜きは彼女の勝ちだ。
「もう一度確認するけど、私が勝ったら本当にお外へ連れ出してくれるのね」
彼女の声で、私はカードを見つめていた顔を上げた。緊迫した局面にもかかわらず、彼女の表情は緩んでいた。
「もちろん、ここから出る準備も既に済んでおります。行き先は――」
「どこまでも」
私の声を彼女が遮る。この勝負を始める際、彼女と確かにそう約束をした。私が勝てば、今後彼女のワガママは軽減される。私が負ければ、今度は職と、おそらくは前科がベットされる。それらを賭して私は彼女の家出を手配する。明らかに釣り合わない天秤と知りつつも、私はこの勝負を受け入れた。名家のお嬢様願いを聞き入れた。そこに普段のワガママ以外の何かを感じ取ったからかもしれない。
「私が負ければ、行ける所まで連れて行くと確かに約束しました。ですが、『どこまでも』という約束はしていなかったかと」
「違わないわ。貴方の言う、その『行ける所まで』が私にとっての『どこまでも』なの。その何でもない、少し足を伸ばしたくらいの距離は、今の私にとって途方もなく長いの」
彼女が上体を背もたれに預けると、車椅子がそっと揺れた。彼女の父親が与えた最高級の製品だった。それでも、彼女には似合わないと思った。陸上選手に車椅子は似合わない。
「ホントを言うとね、どこだって良いの」
左右の車輪を逆に回し車椅子ごと後ろを向いた。窓に映る景色を眺めていた。その表情は、背後からでも予想がついた。
「ここから出たい。この窓から見えない所まで行きたい。そう考えるのは決して特別なことではないと思うの」
とつとつと語る背中を黙ってみていた。健康な足を失った少女が新たに何かを願ったとしても、それを否定することは私にはできない。投身自殺を図った過去があろうとも、私にそれを否定する権利はない。同様に、その父親が彼女を束縛しようとも、その意思は誰にも否定されることはない。だが私は、父親の元から彼女を引き離そうとしている。それが一時的なものであったとしても、彼らにとって軽い話では済まないということは承知しているつもりだった。
「ねえ」
彼女がこちらに向き直ってにっこりと笑った。駆け引きと呼ぶには余りに拙いこの会話を楽しんでいるように見えた。もし私が勝負に勝ち、このまま軟禁じみた生活が続くとしても、彼女は依然としてニコニコ笑っているだろう。
「もう引いていいかしら」
「はい」
少しの緊張が混じりつつも、酷く楽しそうな彼女の笑顔を眺めた。少し迷って、ババを右に配置した。彼女の手がすっとこちらに伸びてくる。透明な爪が月光に艶やかに光った。彼女は迷うことなく、カードを一枚抜き取った。一瞬の間の後、彼女の手から二枚のカードが舞った。鉄格子が付いた窓から差し込む月明かりをキラキラと反射した。
「私の勝ちね」
私の手にはババが残った。決定した。今夜彼女は家出する。
助手席に座る彼女は窓枠に頬杖をつきながらぼんやりと前方を見つめていた。交差点を左折したとき彼女の口から呟きが漏れた。
「案外、あっさりしていたね」
「物事が上手くいくときは、割にそういうものです」
住宅の隙間から朝日が昇り始めた。少しずつ、あたりが白んでゆく。
ばば抜きが終わって、私達は夜が明ける前に屋敷を出た。おそらく、誰にも気付かれることなく車を出せた。屋敷の主人、私の雇い主の顔を思い浮かべた。少し過保護だが、どこにでもいる父親の顔だった。これは重大な背信行為だ。加えて彼女は未成年だから、違法行為でもある。出発する直前、屋敷の警報装置を一時的にダウンさせた。そういった作業が可能な仕事と信頼を私は得ていた。
「確かに、ゴタゴタが有るときって大概は失敗するような気がするわ」
彼女は温和な表情でクスクスと笑った。口元を隠した右手がそれに合わせてかすかに上下した。
「ところでこの車、随分と年季が入っているように見えるけど、ゴタゴタなく走れるのかしら」
彼女の手がすっと伸びて、フロントガラスに触れた。
「あと三年は持つかと思います。カーステレオはもう駄目ですが、エンジンさえ生きていれば車は走ります」
実際はカーステレオに加えてクラクションとワイパーも機能しなくなっていた。十年ほど前、中古で安く買い上げた私の車は、うなりを上げながら辛うじて走り続けている。他はポンコツでも、エンジンだけは強かに生きていた。
「まるで老犬ね。凄く愛らしいと思うわ」
彼女は愛でるようにフロントを撫でると、指先に付いたほこりを見つめて私を睨んだ。私はそれを無視しながらハンドルを右に切って国道に入った。左手側に松の防砂林が並ぶと、海の気配が際立った。窓を開ければきっと、潮の香りがするだろう。右車線から追い抜いていったワゴン車にサーフボードが積んであるのが見えた。海に行きたい。出発前、彼女は最初にそう言った。
車椅子と砂浜は想像以上に相性が悪かった。抵抗に負けぬよう力いっぱい押し込むと浜の凹凸に合わせて車椅子が左右に傾く。彼女の上体もバランスを取るようにせわしなく揺れた。波が打つリズムよりもずっと速い。今日の東海岸は、比較的穏やかだった。
「大丈夫かしら」
その声色に心配は帯びていない。彼女の身体の揺れも心なしかウキウキしているように見えた。
「どうしました」
「この車椅子、錆びたりしないかしら」
左手から昇り始めた朝日を反射して、車椅子の銀色が眩しく輝いた。
「心配ありません。おそらく、この車輪が錆びて動かなくなるよりも私の足腰にガタが来る方がずっと早いでしょう。なんなら、既に悲鳴を上げつつあると申しておきます」
私の遠回しな要望を聞くと、彼女はクスクスと笑ってこちらを向いた。
「それなら少し戻りましょう。そうね、あそこのベンチまで行きましょう。波打ち際だけが海って訳ではないもの」
彼女は木柵が設置されたあたりを指差した。確かにベンチが置いてあり、床も木材で組まれているようだった。砂浜を上る作業は下るよりもずっと辛く、踏ん張った足を灰色の砂があざ笑うかのようにかき回した。力加減を工夫しながら、持ち上げるように車椅子を押し込んだ。遠い時代、私がまだ学生を名乗っていた頃、軍隊の色が抜けきらない顧問の監視の下でこんな砂浜を何キロも走らされた。そんな記憶がふと蘇った。その経験に感謝する日が来たのかもしれない。下半身の各部が肺と共に悲鳴を上げながら、私と彼女はなんとかベンチの元までたどり着いた。車輪を固定すると、私は彼女に許されてようやくベンチに腰を降ろした。彼女が海に夢中になっている間、私は暇をもてあまして仕方なく彼女の小さな背中を見つめていた。いつからか、彼女の背後に立ちその表情を予想することが日課になりつつあった。
私と彼女が初めて顔を合わせてから今日まで、彼女は常に笑顔を見せていた。喜怒哀楽のその全てを、微笑を交えて表現した。深い絶望を経験した彼女は、それ以外の全てを幸福に感じるとでも言うのだろうか。そんなことがありえるだろうか。
「あっ」
彼女は驚いたように声を上げると、水平線と海岸線の中間を指差しながらこちらを向いた。
「魚が跳ねたわ。何だろう、貴方は見えたかしら、もう一度、跳ねないかな」
その笑顔はとても虚構には見えなかった。私の仕事は、常に彼女の傍らに立ち彼女のワガママを程々に聞き入れるだけだ。雑念を振り払おうと、私も彼女の指先へと視線を投じた。
彼女はその後もしばらく、海だけを見つめていた。限りなく静止に近い時間が流れた。蒼と白のさざ波だけが穏やかな時を正確に刻んでいた。
「ねえ」
今度は振り向かずに彼女が言った。波音だけの静寂が途切れると、上空の鳶が思い出したように鳴き上げた。
「さっきの道路、あの道を真っ直ぐ進んだ先には何があるの」
「あの国道は大磯でいったん途切れ、そこから東海道に入れば箱根山へ続きます」
山。彼女はそう呟くと、また黙って水平線を見つめた。海水が波立ち、やがて泡となり消える。それが三回続いた後、彼女は両手を合わせ、次のワガママを決定した。
「山に登りましょう。次の行き先は山。貴方の膝と腰がある程度回復したら、ここを起ちましょう」
漏れ出す興奮を抑えんと、早口で彼女は言った。私の足腰はと言うと、十分な休息の甲斐があってか疲労の気配はさほど感じられなかった。彼女の背中を再度眺めた。まだこの音と景色に未練が残っているように見えた。その瞳にもきっと、このグレーがかった湘南の海が色鮮やかに映っているだろう。
「では、次に魚が跳ねたらここを出発しましょう。それまで私も海を眺め、ゆっくり休んでいることにします」
彼女が頷いたことを確認すると、私も海に目を向けた。水平線の下を飛ぶ鳥影が波の上に舞っていた。跳ねる魚はボラかスズキか、今度はきっと見逃すまい。
変調を感じたのは登山道の中腹を越えた頃だった。アクセルを強めに踏み込んでみても、車は思うように加速しない。助手席の少女が老犬と称したこの車は、私の想像以上に早く限界を迎えたようだ。それでもなんとか、標高七〇〇メートルの芦ノ湖までたどり着いた。よたよたと危うく揺れながらも、なんとか駐車場までたどり着いた。
「少し歩きましょうか」
キィを抜きながら言う私を見て、彼女はにやりと口元をゆがめた。
「やっぱり駄目だったわね。このポンコツ」
私はため息交じりで頷いた。このキィを回しても、おそらくこの自動車はもう禄に動かないだろう。私達は帰る脚を失ったことになる。だが大丈夫だろう、じきに迎えが来る。それも私の車とは比べものにならない高級車だ。だが、彼女が助手席に座ることはもうないだろう。彼女の安全を考えれば、後部座席で車椅子を固定できる介護用自動車を使うのは当然の選択だ。全て、屋敷を出た時点で決まっていたことだ。私の帰路が彼女と別であることも、あの勝負に負けたとき、既に決まっていた。
車椅子を押しながら湖の外周を歩いた。湖面は午前の柔らかな日光を反射して穏やかに輝いていた。凪の海よりも穏やかだった。平日の午前中。人もまばらな観光地はどこか寂しげで、それが更に湖の安寧を演出していた。
「ねえ」
彼女は右側の湖を眺めながら呟きを零した。
「私はあのとき、ババを引いたわ」
最初、昨夜の勝負の話だと思った。だが、彼女の視線はあまりにも遠く、もっとずっと過去を眺めているのだと悟った。彼女が観る湖面には、脚を失ったその日が映っている。不運な事故でその脚は動く機能を失った。陸上選手がこうなることを、彼女はババを引くと表現した。事故後、どれだけリハビリを重ねても、自らの脚で立つことは叶わないのだと知った少女は、やがて辛いリハビリを行わなくなっていった。自室の窓から這うようにして身を投げたのもその頃だと聞いている。幸い大事には至らなかったが、少女を溺愛する父親は、一人娘を病的なまでに束縛するようになった。彼女の部屋は鍵で閉ざされ、窓には堅い格子が付けられた。
「その後しばらくして、ババを引いた貴方が来たわ」
「はい」
私が雇われて屋敷に派遣されたとき、少女は既に今の笑顔を身につけていた。父のため、自衛のため、そして何より本心から彼女は笑っていた。閑寂に感じるほど広い屋敷の手入れと、ワガママな少女の相手を任された私は、確かにババを引いたと言えるかもしれない。だが、私が引いたことで彼女の手からババが離れたとも限らなかった。ババの数が一枚でないことは往々にしてある。かといって性質も規模もさまざまなジョーカーは、二枚重ねても消えることがない。交換を繰り返して増殖することさえありうる。
「でもその後は一度も不幸のカードを引かなかった」
その声には自信が籠もっていた。いつも以上のまばゆい笑顔を見せて、彼女はそう言い放った。湖面は穏やかに揺れながらも、昇りゆく陽を反射して爛々と色づいていた。
「これからも、きっと引かない」
気がつけば彼女の瞳は、現在という水面をはっきりと映していた。
この仕事に就いた際、私が引いたババはどこへ行ったのだろうか。ふと、そんなことを考えた。昨夜、私の手に残ったそれとはきっと別物だろう。気がつけば消滅している。ババにはそういう特性もあるのかもしれない。
お腹が空いたわ、もうお昼餉の時間よ。そうですね、少し早いですが、どこかの店に入りましょうか。普段通りの会話をしながら、私達は箱根の舗道を歩いた。このささやかな家出は、どこからかババが運ばれてくるまで、あるいは私の脚で行ける所まで、どこまでも進み続ける。