動き出す針 其の一
部長たちとの打ち合わせを終え、会議室の鍵を職員室に返しにきた千早の目にとまったのはあの羽野だ。
教室では淡々と進められる報告事項で手一杯で、二人で話すどころか話しかける機会さえ皆無だった。
しかし、他の先生と話していてこちらから声をかけられそうにもない。
どうにかして気づかないものかと、返すはずの鍵をわざと落としてみる。
チャリン
乾いた音がして鍵が落ちた。
たった一つしかついてない鍵で遠くにいる羽野が気づくわけもなく、近くにいた女の先生が拾ってくれた。
「どうしたの鳳くん、らしくないわね」
「あ……あはは、すみません」
仕方なくキーホルダーに鍵をしまい、自分の後ろで繰り広げられる会話に耳を立てながら職員室を後にした。
――ガードが固い。
いかにも千早らしい感想だったが、これ以上の感想も思いつかなかった。
なんとかして千早を近づけまいとする意思が感じられるほどだった。
――そもそも、本当にあの真玉琴巴なのか?
珍しい名前だが、全くの別人?
それにしては背格好といい、あの声といいそっくりだ。少し儚げな透き通るような声は忘れたりしない。
ていうか教師って! 先生っておかしいだろ! どんだけ歳離れてるんだよ! 帰ったら問い詰めてやる。
ブツブツと呟く怪しい人物と化しながら、千早は足早に校舎を後にした。
一方、職員室では羽野が出て行った千早を横目で見ていた。
「あの、下塚先生。生徒会に鳳くんていますよね」
光涼高校に来てから三年になる数学教師の下塚拓と話し込んでいた羽野が尋ねる。
「生徒会? あぁ、副会長の鳳くんね。彼、優秀ですよ。確か羽野先生のクラスじゃ……?」
「えぇ、そうなんです。鳳って、珍しい苗字なので気になって……」
「あぁ、こんな公立高校にいるような子じゃないよね。本人も知られるの嫌みたいだし」
「じゃあやっぱり鳳グループの……」
「なんですかー? 気になるの羽野先生。あんなおぼっちゃんを?」
面白いおもちゃを見つけたかのように下塚はにんまりと笑った。
「やめてください下塚先生。一体いくつ下だと思ってるんですか」
「それもそうだね」
羽野は今朝のことを思い出していた。
朝校門を抜けると生徒会役員が集まって打ち合わせをしていたこと。
その中に見知った姿があったこと。
教室に入ったら相手もなにかに気づいたこと。
そのままできる限り接触を避けて下校時刻を迎えたこと。
落ちた鍵の音に気づいていても見て見ぬふりをしたこと。
羽野にとっては、どれもこれも気をつけていないと声が漏れてしまいそうな出来事ばかりだった。
人差し指で目と目の間の鼻筋に触れる。
「それ、羽野先生の癖ですよね」
下塚がその仕草の真似をする。
「考え事してるというか、緊張してるというか。なんとなく言葉に詰まったときの癖」
「な、なんでわかったんですか? そんなに私、してました……?」
自分でもたまにしか気づかないこの癖を、人に言い当てられたのは初めてだった。
「わかるさ、始業式でも何度もやってたし、今もね。何を考えていたのかまでは僕にはわからないけど?」
「……人間観察お好きなんですね」
羽野は思わず視線を下塚から外した。
「んー、そうだね、それもあるけど」
外された羽野の瞳を覗き込む。
「羽野先生の観察が、面白くて好きかな」
やっと新生活から一歩抜け出せました。いえ、日付は何も変わってませんが。でもこれで話を進められます。ふぅ。
拙い文章をお読みいただき、ありがとうございます。