ノートの謎(後編)
「まず、先ほどの候補の中で、勉強熱心なCさんは外していいと思います。勉強熱心なCさんが天津飯のような間違いをするとは考えにくいですし、おそらく日記に示すとしても、もっときちんとした文章を書くでしょう」
カリンはそう言ってCさんに×印をつける。
「で、残るのはAさんかBさんなんですが、ここで1つはっきりしていることとして、あのノートの中にある体験が本物でないことが挙げられます」
「それは間違いないだろうな」
天津飯の間違いや単調すぎる感想を考えても、それは間違いないことだろう。俺は頷く。
「ただ、全てが偽物の体験だったという訳でもないようなんですよ」
「……どういうことですか?」
男性は聞き返す。
「こちらを見てください」
そう言って彼女が開いたのは最後に書かれたブラジルのページだった。
『□月△日、今日はブラジルで角砂糖を入れてコーヒーを飲んだ。甘さとコクを感じられるコーヒーだった』
「このノートにはこう書かれていて、そしてここで文字は途切れています。ここだけやけに詳しく描写があると思いませんか?」
「確かに……」
俺の肯定にカリンはさらにそのノートのある一点を指差す。
「そしてこのノートのここに、かなり小さいですが、コーヒーの飛びはねの跡が見られます。つまり、この体験だけは真実であるということだと考えていいと思います。そして、このコーヒーを飲んだのは当然あなたのお店でしょう。ノートの最後の記述がここなので間違いないと思います」
「つまり、どういうことですか?」
男性はよく分からないままカリンに聞く。
「たぶん、このノートを書いた人は何かを見て実際にその国に行った気分になっていたのだと思います。そして、その時の気持ちをノートに記したんです。その場所には出かけられないので、せめて気分だけでもと考えたのでしょう。ただ、コーヒーだけは飲むことができたので詳しい感想が書けたのだと思います」
「では、このノートを忘れたのは……」
男性も分かったようだ。カリンは頷く。
「はい。たぶん本を読むのが趣味なBさんではないかと。おそらく、ここに書いたこと以外にも脳内には様々な世界が広がっていたのではないかと思いますよ」
カリンはそう結論付けた。
「なので、もしBさんが訪ねてくるようなことがあれば、そのノートをお返しするのがいいと思います。それまでは大切に持っているのがよろしいかと」
「分かりました。いろいろとありがとうございます」
男性は深々とお辞儀をする。
「いえいえ、また何か事件があればぜひお越しください。おいしいラーメンと一緒にお迎えしますから」
カリンも同様に返す。かくしてこの事件はひとまずの解決を迎えたのだった。
「……で、今日は一体何で俺まで外に連れ出されてるんだ?」
それから数日後、カリンに連れられた俺は男性の経営するコーヒー店へと連れて来られていた。カリンの推理通り、やはりあのノートを忘れたのはBさんだったようで、滞りなく受け渡せたとのことらしい。
「いえ、やはり来ていただいたならこちらからもお邪魔するのが筋ではないかと。ぜひお礼にコーヒーをとも言われてしまいましたし」
「……まあいいけどな」
確かに彼女の言うことは筋が通っている。常連になってもらえればしめたものだ。
「こんにち……」
静かにドアを開けたカリンの言葉はそこで止まる。それだけならまだしも、彼女はそのまま動かなくなってしまった。
「……どうした?」
様子のおかしいカリンを見て俺も中を覗き込む。
「これは……」
俺も絶句してしまった。そこには謎解き麺屋の宣伝が所狭しと並んでいた。
「おや、いらっしゃいませ。来てくださいましたか」
「ま、マスター。これはいったい……」
口をパクパクさせながらカリンはやっとその言葉を紡ぎだす。
「いえ、せっかく謎解きしていただいたので宣伝をしようと思いまして」
「にしてもこれは……」
カリンが言葉を失うのも無理はない。謎解き麺屋の公式グッズと称してカレンダーやノート、シャープペンシルといったものが店内に溢れかえっていたのである。それだけならまだしも勝手にポスターまで作られていた。
「どうです、気に入っていただけましたか?」
『今すぐ片付けろ(てください)!』
俺とカリンは同時にそう叫んでいた。
「はあ、全く飛んだ目にあいましたね」
カリンはため息をつく。どうもあの男性は謎解き麺屋のファンになってしまったようで、これからも趣味の範囲で様々なグッズを作りますね!と高らかに宣言されてしまったのだ。よほど気に入られてしまったということらしい。
「まあ、宣伝してもらえる分にはありがたいが……あれはな」
俺も同様に頭を抱える。
「せっかくのんびり店主さんに話したい話があったのに、すっかり忘れてしまいましたよ」
「……話したい話だと?」
カリンの言葉に俺は思わず聞き返す。彼女が話したい話ということはもしや……。
「はい、私の記憶喪失のことについてです」
彼女は俺の目をじっと見てそう言ったのだった。




