アーシュ16歳9の月 私の宿に
落ちたしずくも、言葉も、一瞬後には消えてなくなってしまう。私はぎゅっと目をつぶって涙を払うと、
「さ、宿舎の話があるんでしょ」
と声を出した。震えてなんかいない。
「アーシュ……。すまん、必要なことなんだ。もう部屋に入っても平気か」
「大丈夫」
「では行こう」
アレクに肩を押されて、会議室に入った。おそらくウィルやマルは私の少し赤い目に気がついたかもしれない。それでも黙っていてくれた。驚いたことに、帰ったはずの鉱山技師たちもいた。
「狭間の幅で作業をし、収納バッグで岩を持ち運ぶことを考えると、あまりに人数が多くても効率が悪い。この兵舎の兵も、ダンジョンに入ることと並行して狭間での工事にも参加することになった。国境の警備は必要なくなるわけだからな。また、町からも働けるものを募るということで、50人ほどが入れる宿舎を用意しようということになった」
そう話し始めたのはユスフ王子だ。帝国が協力すると言っても、主に動くのはフィンダリアだ。フィンダリア側に任せるということらしい。
「そこでアーシュ、その宿舎の建築と、それから工事が始まってからの宿舎の管理を任せたいのだが」
はい、とすぐ言うには大きすぎる案件だ。
「私にはウィルと共に狭間の岩を魔法で砕きやすくするという仕事もあります。むしろ専門家の方を招いてやってもらった方がよいのではないかと思いますが」
「それはそうなのだが、急いで工事を始めなくてはならない中、既存のやり方を通そうとする私たちフィンダリアの対応を考えると、あなたの臨機応変の姿勢が役に立つと思うのだ。メリダでは宿屋をやり、帝国では病の家族のための宿舎なども手掛けたというではないか」
メリダではそれが自分にできることだったから。帝国ではそれが必要なことだったから。では今はどうなのか。
このまま専門家に任せたら、まず冬が来るまでに宿舎の工事は終わらないだろう。宿舎を作っても、食事や洗濯など、フーブの町だけで賄えないことは目に見えている。だからといって近隣から人をかき集めても、町そのものに泊まるところも娯楽も少ないうえに、もともとの住人との軋轢が生まれることは目に見えている。
帝国から人を連れてきたら、その人たちも町の人とコミュニケーションをとれないだろうし。
わかっている。私が間に入ったらスムーズに行くということは。けれど、狭間の工事が終わった時、私はどうしているだろう。ここを他の人に任せて、またどこかにふらふらと流れて行くのだろうか。あてもなく。
その時セロはどうしているだろう。
「アーシュ?」
ユスフ王子の声に、私ははっとして顔を上げた。気がつくと皆心配そうな顔で私を見ていた。鉱山技師でさえもだ。
「すぐに決められないのであれば、少し考えてくれてもよいのだ」
そう言うユスフ王子の声は気遣いに満ちていた。確かに、16歳の娘に頼むような簡単な仕事ではないのだから悩んでいると思われても仕方がない。私は苦笑した。そして、部屋の窓から外を見た。
一人になりたくなかった。それなのに、仲間ができても、誰と仲良くなっても、一生を誓い合う人ができても、どうせいつかは離れて行くのだと諦めていた。
引きとめてくれる人を、引きとめてくれる場所を探していつまでもさまよっていたのはセロではない、私なんだ。
私は窓から目を戻した。そして驚いた、まだみんな黙って私の返事を待っていた。
「す、すみません」
よほどぼんやりしていたらしい、焦って謝るといやいや大丈夫と手を振られた。
「ええと、宿舎の件ですよね、はい」
「はい、とは」
ユスフ王子がいぶかしげに聞き返した。
「はい。やります」
部屋にほっとした空気が流れた。
「ただ、宿舎をやらせてもらえるなら、少し条件があるんです」
私はそう続けた。
「たいていのことは聞けると思うが」
ユスフ王子はそう答えた。
「では、宿舎は私が提供するということにしてください」
「それを頼んでいたと思うが、なにか違うのか」
「私が資金を出して私の宿にします。フィンダリアは、滞在する人の費用を負担してください」
「そ、それは」
コサル侯が声を上げた。
「仮の宿舎とはいえ、建てるのには数千万はかかるはず。工事の費用は国が出すとはいえ、負担が大きかろう。爵位を得たとはいえ、あなたには確か親もおらず、領地もない。そんな無茶なことをなぜ……」
「大丈夫です。そのくらいの資金はあります」
「なんと!」
私の言葉に部屋はざわついた。幼いころから貯金していたお金は、石けんの権利などもあってけっこうな額になっていた。宿屋の数軒くらい建てても特に問題ない。
「いずれフィンダリアか帝国のどこかに宿屋は建てようと思っていました。フーブの依頼が終わってから、ということになれば、土地探しから始めても一年以上出遅れます。それなら、少なくとも数カ月は確実に客が来るフーブから始めればいい」
私は顔をしっかり上げると部屋を見渡した。
「私に任せてくれれば、安くて居心地のいい宿屋を提供できますよ。狭間が開通しても、ダンジョンがある限り一定の需要はあるでしょう。客が減るようなら、宿の規模を縮小して町の人に依頼する形にして、次の町に行ってもいいのです。そうすれば町の人から客を奪う形にはならないでしょうし」
工事の仕事をする人がおそらく最低でも30人。経費を差し引いてもこれだけの人が一年間毎日利用したと考えれば、少なくとも二年あれば元は取れる。それにすでに宿の設備はメリダに発注済みだ。私はニッコリと笑った。
「もともと半年前にメリダに注文していたお風呂やトイレ、そしてオーブンなどの魔道具が、そろそろ帝都の屋敷に届いているはずです。幸い、乾燥しているとはいえここは地下水は豊富な土地です。帝国から魔物肉の料理人もやって来る。活気のある町になりますよ」
誰も考えていないうちから将来を思い描く。計画を立て、臨機応変に対応する。そんなのいつもやっていることだ。
ただ、その将来像に自分がいなかっただけだ。
私はもう待っているのはやめよう。
私は人が好きだ。人をつなぐのも好きだ。やらなくてもいいと言われても、つい手を出してしまうくらい、人とかかわりたいのだ。
そうして誰も私から手を離したりしなかったではないか。父ちゃんと母ちゃんは先に行ってしまったけれど、生きている限り仕方ないことだったのだ。
「もちろん、いろいろ融通をきかせてくれますよね。どのくらい値引きしてもらえるのか、あとでゆっくりお話ししましょうか」
「あ、ああ」
ニッコリと笑った私にコサル侯が少し引いたように返事をした。大丈夫。後悔はさせませんよ。




